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国連事務総長のラマダン連帯訪問、ロヒンギャ難民に希望を取り戻す
【コックスバザールIPS=ラフィクル・イスラム】
国連のアントニオ・グテーレス事務総長が、イスラム教徒の伝統衣装である白いパンジャビ姿でロヒンギャ難民のイフタール(断食明けの食事会)に出席するため、ウキヤ難民キャンプに現れたとき、集まった何千人ものロヒンギャ難民が手を振って歓迎した。
ラマダンという神聖な月に断食をしていた多くのロヒンギャの人々は、長年にわたる苦しみに対するグテーレス事務総長の連帯に胸を打たれ、涙を流す姿も見られた。
グテーレス事務総長は、バングラデシュのムハンマド・ユヌス首席顧問とともに、同国コックスバザールの難民キャンプでロヒンギャの人々との連帯を示すため、何千人もの難民とともにイフタールに参加した。
「私たち全員が、国連事務総長から『ミャンマーへの帰還』という良い知らせを聞くためにイフタールに来ました。誰もがふるさとに帰りたいと願っています」と、ロヒンギャの若者、ロ・アルファット・カーンさんはIPSの取材に対して語った。
イフタールに先立ち、グテーレス事務総長はウキヤキャンプ内の学習センターを訪れ、ロヒンギャの子どもたちと意見交換をった行った。子どもたちは「ミャンマーに戻りたい」と訴え、安全で尊厳ある帰還を実現してほしいと要望した。
グテーレス氏はまた、ロヒンギャ女性や宗教指導者、文化センターも訪れ、追放された人々の声に耳を傾けた。
今回のラマダン訪問で、ロヒンギャから寄せられた二つの明確なメッセージを受け取ったとグテーレス氏は語った。それは、「ミャンマーへの帰還」と「キャンプの生活環境の改善」だ。
彼は国際社会に対し、ミャンマーにおける平和の回復、そしてロヒンギャに対する差別と迫害を終わらせるために全力を尽くすよう求めた。
国連世界食糧計画(WFP)は、緊急支援への深刻な資金不足のため、4月1日からロヒンギャ難民一人当たりの月額食糧配給額を12.50ドルから6ドルに半減すると発表した。
「残念ながら、米国や欧州諸国など複数の国が人道支援を大幅に削減すると発表した。そのため、このキャンプでも食糧配給の削減というリスクに直面している。」とグテーレス氏は語った。
彼は、ロヒンギャの人々がさらに苦しむ状況、あるいは命の危機にさらされる事態を防ぐため、国連として資金の動員に努め続けると約束した。
「率直に言えば、私たちは深刻な人道危機の瀬戸際にあります。複数国による資金援助の削減により、ロヒンギャ難民の食糧配給量は2025年には40%にまで削減される恐れがあるのです。」と語った。
彼は、支援の削減により「未然に防げる災害」が起こりうると警告し、国際社会に対してロヒンギャ難民支援に投資する義務があると訴えた。
「国際社会がロヒンギャ難民への支援を削減するのは容認できないことです。コックスバザールは、予算削減が命を左右する“最前線”であり、私たちはそれを防がなければならない。」とグテーレス氏は強調した。
グテーレス氏によれば、2017年に暴力を逃れてバングラデシュに避難してきた100万人以上のロヒンギャは、極めて困難な状況の中でもたくましく生きている。
ロヒンギャ難民は、ラカイン州での虐殺や差別、人権侵害から逃れ、「保護」「尊厳」「家族の安全」を求めてこの地にたどり着いた。
グテーレス氏は、ロヒンギャの勇気と決意に感銘を受けたと語り、彼らの壮絶な体験に耳を傾けた。
「彼らが求めているのは、安全で自発的かつ尊厳ある帰還です。それがこの危機の根本的な解決策です。」と強調した。
彼はミャンマー当局に対して、国際人道法に基づいた措置を講じ、宗教間の緊張や暴力を防ぎ、ロヒンギャの安全で尊厳ある帰還を可能にする環境づくりを求めた。
「しかし、ミャンマー、特にラカイン州の状況はいまだに深刻です。紛争と迫害が終わるまで、私たちはバングラデシュで保護を必要とする人々を支え続けなければなりません。」と語った。
「解決策はミャンマーの中にあります。国連は今後も、ロヒンギャ難民の自発的で安全かつ持続可能な帰還に向けた努力を続けます。その時が来るまで、国際社会に支援を減らさないよう強く訴えます。」と語った。
イフタールの後、バングラデシュのユヌス首席顧問は現地の方言でスピーチを行い、ロヒンギャ難民に強い連帯のメッセージを届けました。
「国連事務総長はロヒンギャの苦しみを終わらせるために来てくださいました。今年のイードではなくても、来年こそは祖国で祝えることを願っています。」と語った。
「必要であれば、世界を相手にしてでも、ロヒンギャを故郷へ戻すために戦うつもりです。」とも語った。
2017年にコックスバザールのキャンプに逃れてきたアブドゥル・ラフマンさんは、「金曜日のイフタールには10万人が参加する予定でしたが、実際には30万人以上が集まりました。それだけ皆が“帰還”という良い知らせを求めていたのです。」と語った。
ロ・アルファットさんは、「私たちロヒンギャには国もなく、帰る場所もないため、時に絶望を感じることがあります」と語った。
「でも、国連事務総長とバングラデシュの首席顧問という二人の要人が訪れてくれたことで、“帰還できる”という希望が私たちの心に再び芽生えました。」と締めくくった。(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN Bureau
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トランプ、民主主義、そして米国合衆国憲法
【ストックホルムIPS=ヤン・ルンディウス】
この混乱と悲しみに満ちた時代において、世界各地で行われている人権侵害や違反について沈黙することは難しい。コンゴ民主共和国東部、南スーダン、ウクライナ、ガザ地区―これらの地で起こる暴力は目を背けることのできないものだ。その中でも、トランプ政権が示してきた態度、とりわけウクライナの正当に選出された大統領に対するトランプ氏の言動は、理解しがたいものの一つである。ウクライナの国民が独裁政権と戦い、祖国を守ろうとしているにもかかわらず、トランプ氏はその正当性に疑問を投げかけてきた。
これは、米国が自らを「世界で最も偉大な民主主義国家」と称する姿勢と無関係ではない。この信念は多くの米国国民の間に深く根付いており、憲法こそがこの民主主義を不変のものにしていると考えられている。しかし、元大統領のジョー・バイデン氏ですら、最近ではその確信に揺らぎを見せている。
「私たちは依然として民主主義国家である。しかし、歴史が示すように、一人の指導者への盲目的な忠誠や政治的暴力への加担は、民主主義にとって致命的だ。長い間、米国の民主主義は保証されていると信じてきたが、そうではない。私たち一人一人が、民主主義を守り、擁護し、立ち上がらなければならない。」
しかし、米国の民主主義を守るために現大統領の独裁的な行動に対抗しようとする中で、果たして合衆国憲法は本当に民主主義と人権を守る力を持っているのか、という疑問が生じる。
合衆国憲法の起源とその限界
米国の建国の父たちが1787年の夏にフィラデルフィアで起草し、1789年に批准された合衆国憲法は、当初から米国が完全な民主主義国家になることを想定していなかった。実際、当時から「米国をどれほど民主的にするべきか」は非常に議論の分かれる問題であり、それは現在でも変わらない。
当時、大統領、上院、司法は国民ではなく代表者によって選ばれていた。国民が直接選出できるのは下院議員のみであり、その投票権を持つのは「財産を持つ成人の白人男性」に限られていた。しかし、憲法には「修正」できるという重要な特徴があり、年月を経て民主的な要素が追加されてきた。
憲法が批准されて以来、修正は27回行われた。その中でも特に重要なのが次のようなものだ。
1868年(修正第14条):「米国で生まれた、あるいは帰化した全ての人々に市民権を付与し、法の下での平等な保護を保証」
1870年(修正第15条):「人種による投票権の否定を禁止」
1913年(修正第17条):「州議会ではなく国民が上院議員を直接選出する制度に変更」
1920年(修正第19条):「女性に参政権を付与」
唯一廃止された修正条項は修正第18条(禁酒法)のみであり、これも後に撤回されている。
憲法修正には厳格な手続きがある。議会の 3分の2 の賛成を得た上で、全州の4分の4 の承認が必要だ。しかし、法的な抜け道を利用すれば、修正条項の適用を回避することも可能である。例えば、1883年に最高裁は「修正第14条と第15条は、州による差別のみを対象とし、個人による差別には適用されない」と判断し、南部諸州に人種差別的な法律を制定する余地を与えた。この判決が覆されたのは、1964年の公民権法と1965年の投票権法の適用によってである。
トランプ政権と憲法の危機
ドナルド・トランプ氏は大統領に就任して以来、その権限を過去の大統領よりも拡大しようとしてきた。個人的な訴訟を阻止する試み、出生地主義の市民権の制限、議会が承認した予算の執行拒否、独立機関のトップの解任など、その行動は枚挙にいとまがない。こうした動きの背景には、トランプ氏が自ら任命した最高裁判事による支持を期待している可能性がある。
言論の自由の抑圧
憲法修正第1条は、宗教の自由、言論の自由、報道の自由、平和的な集会の権利を保障している。しかし、トランプ政権下では、これらの権利が脅かされている。
トランプ氏は自身に批判的な報道機関を「国民の敵」と呼び、CNN、ABC、CBS、Simon & Schusterなどを名誉毀損で訴えてきた。
ホワイトハウスは報道機関の出席を制限し、APやロイターなど主要メディアを記者会見から締め出した。
2024年3月4日、トランプ氏は「違法な抗議活動を許可した大学への連邦資金を全て停止する。」と発言し、外国人の学生を追放または逮捕する方針を示した。
歴史が繰り返されるのか?
こうした動きは、1950年代にジョセフ・マッカーシー上院議員が共産主義者の「魔女狩り」を行った時代を想起させる。マッカーシー氏は証拠もなく国務省内の共産主義者リストを持っていると主張し、多くの公務員や学者、ジャーナリストのキャリアを破壊した。
トランプ氏が崇拝する弁護士ロイ・コーン氏は、マッカーシー氏の右腕として活躍した人物であり、後にトランプ氏の法律顧問となった。コーン氏の影響は、トランプ氏の「勝つためなら何をしてもいい。」という姿勢に色濃く残っている。
米国の未来はどうなるのか?
トランプ氏の憲法無視が、共和党内でどれほどの反発を招くのか。そして、民主党や米国国民が憲法を守るためにどのように立ち上がるのか。これは、米国の未来だけでなく、世界全体の行方を左右する問題である。(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN...
|視点|日本とバチカン: 宣教師から巧みな外交へ(ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスター紙シニア国際特派員)
バチカンと日本の関係を定義する要素は「敬意」
【National Catholic Register/INPS Japanバチカンシティ=ヴィクトル・ガエタン】
日本とバチカンの特別な関係は、優雅で格別な瞬間に見出すことができる。バチカンと日本政府の関係には常に敬意が込められており、それは第二次世界大戦の最中でさえも顕著だった。
バチカンが所有するバロック時代の巨匠カラヴァッジョによる唯一の絵画は、描かれたのがまるで昨年かのように鮮やかで、緊張感に満ちた光と影の技法が特徴だ。この傑作「キリストの埋葬」(1600-04年)が、2025年に大阪で開催される国際博覧会のバチカンパビリオン(テーマは「美は希望をもたらす」)で展示される予定だ。同時期にはバチカンに数百万人の2025年の大聖年の巡礼者が訪れるため、通常はバチカン美術館に展示されているこの傑作を探すことになるだろう。
千葉明駐バチカン日本大使は、「この決定は教皇ご自身が非常に日本に対して愛着を持っておられるため、非常に重要なご決断でした。私たち全員がとても喜んでいます。」と語った。千葉大使自身もカラヴァッジョの大ファンで、「私はイタリア中を旅行してカラヴァッジョの作品を観に行きます!」と付け加えた。
https://www.youtube.com/watch?v=2glQjjkGZ5E
日本の主要なマルチメディアおよび出版会社である角川グループホールディングスは、その文化振興財団を通じて「バチカンと日本:100年プロジェクト」を支援し、カラヴァッジョの作品が大阪博覧会で展示されるよう尽力した。財団の創設者である角川歴彦氏は、日本とバチカンの関係はかけがえのないものだと考えている。
最近では、ジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿が、カラヴァッジョの展示を含む「100年プロジェクト」に賛同し、「歴史と現在の時代を深く考察し、文化交流を促進することで、真のグローバリゼーションの基礎を築く。 」と流暢な日本語で説明している。
長い歴史
千葉大使は、日本がバチカンに派遣する優秀な人材の一人である。彼は外交官だった父親のもとテヘランで生まれ、米国で学び、ワシントンD.C.や北京でも重要な任務を果たしてきた。
私たちがZoomを通じて話している間、千葉大使は16世紀半ばにポルトガル船で島国日本に到着したカトリック宣教師を描いた印象的な黄色と黒の屏風の前に座っていた。
千葉大使は、「日本では、公式に外交関係が始まった1942年の話だけでなく、聖フランシスコ・ザビエルが来日し、カトリックが急速に広まった1549年にさかのぼって、日本とカトリックの関係について話します。教皇フランシスコは、このような歴史に基づき、かつて日本への宣教師となることを望んだのです。」と語った。
この長い歴史的な関係と、日本のエリートを教育したカトリック宣教師たちは、1921年7月に皇太子裕仁親王が教皇ベネディクト15世と会見したような興味深い瞬間を説明する助けとなっている。
裕仁親王は、いくつかの帝国が崩壊しつつある新しい時代を迎える中で成人しようとしていた。日本の皇室は、皇太子がそれまで海外渡航したことがなく、父親の大正天皇が病弱だったため、第一次世界大戦時の同盟国である英国やフランスを含むいくつかの国を訪問するべきだと決定した。
裕仁親王の顧問の一人に、敬虔なカトリック信者であり、第一次世界大戦中はイタリアの海軍武官を務めた山本信次郎(1877-1942)海軍少将がいた。フランス人宣教師に教育を受け、16歳で洗礼を受けた山本は、司祭のアドバイザーから軍人になることを勧められるまで、天職と海軍のどちらにするか決めかねていた。山本(第二次世界大戦中に日本艦隊を指揮した山本五十六元帥と混同しないよう)は、ローマ教皇庁と生涯にわたって交流を続け、レオ13世、ピウス10世、ベネディクト15世、ピウス11世の4人の教皇と会見した。
裕仁親王が教皇ベネディクト15世と会見した後、政府はバチカンに外交使節を送るための資金を割り当てたが、神道と仏教の団体の精力的な抗議によって、この計画は失敗に終わった。しかし今日、創価学会などの仏教団体や神社本庁は、核軍縮に関してバチカンと提携している。
バチカンは皇太子裕仁親王のヨーロッパ歴訪の最後の訪問地だった。ニューヨーク・タイムズ紙によると、裕仁親王はサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、大正天皇から教皇ベネディクト15世に宛てた長寿を祈るメッセージを伝えた。大正天皇は、1919年に使徒代表が東京に駐在することを仏教と神道の指導者たちの反対にもかかわらず承認していた(バチカンは1885年と1905年に特使を天皇に派遣していた)。
共有する価値観
中村芳夫大使は、日本で最も長く首相を務めた安倍晋三政権時代にバチカンに赴任した。(日本には歴代3人のカトリック信徒の首相がいる: 原敬(1918-21年)、吉田茂(1946-47年、1948-54年)、麻生太郎(2008-09年)である。
中村大使は、本誌の電子メールによる取材に対して、「カトリック教徒の数は少ないものの、カトリックの思想が日本にかなり浸透していると思います。日本とバチカンは価値観を共有しているのです。」と語った。
中村大使は続けて、「故安倍首相が私を任命した際、彼はバチカンの情報力の強さを強調しました。実際、私の任期中、私はその驚異的な力に驚かされました。」と語った。
正式な外交関係
1942年に日本とバチカンが完全な国交を結ぶことに合意した際、昭和天皇はこのネットワークを活用しようと躍起になった。日本はアジアで最初にバチカンと国交を樹立した国であり、このニュースは(日本と交戦中の)連合国を驚かせた。
この知らせに米英両国の当局者は激怒した。この協定は、日本による真珠湾攻撃のわずか2か月後に結ばれたもので、連合国側はバチカンの決定を日本の勝利と国民が見るだろうと考えていた。しかし、彼らの反応は教会の外交ミッションを理解していなかったことを証明した。教皇ピウス11世が1929年に述べたように、「魂を救済、或いは魂へのより大きな害を防ぐことが問題になるとき、私たちは悪魔ともでも直接対話する勇気を感じる。」というのがバチカンの外交ミッションである。
この時期に関する優れた分析は、ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が編集した『ザビエルの遺産:近代日本文化におけるカトリシズム』に収録されている池原万里子著『金山政英:カトリックと20世紀中期の日本外交』である。
このエッセイは、1942年から45年までバチカンで日本大使館の参事官を務め、(原田健公使離任後は)45年から52年まで大使館を率いたカトリック外交官、アウグスティン金山正秀の姿を通して、日本人の視点からバチカンと日本の関係を考察している。東京で法律を学んでいた21歳のとき、金山はハンセン病病院の礼拝堂で洗礼を受けた。入信の動機は患者たちの信仰と、何年も既知であったカトリック司祭である病院長に感銘を受けたからだった。
池原氏は、昭和天皇が1942年にバチカンとの外交関係を開始した理由について、「第一に、天皇は米国のフランクリン・ルーズベルト大統領がバチカンと関係を築こうとしていたことに影響を受けていた。」と説明した。
第二に、真珠湾攻撃以前から、昭和天皇はバチカンが自国の連合国との和平交渉に役立つ可能性を見出していた。1941年10月13日、昭和天皇は次のように記している。「この戦争を避けることはできそうにないが、いったん戦争に突入したら、和平交渉にどのように関与するか今から考えておく必要がある。そのためには、バチカンと外交関係を樹立することが必要である。」
池原氏は、本誌の電話取材に対して、この章は、日本のテレビ番組のために行ったマーティン・クイグリー氏に関する研究が始まりであったと語った。クイグリー氏は『広島なき平和:1945年春のバチカンにおける秘密工作』の著者であり、中央情報局(CIA)の前身である戦略事務局(OSS)に所属していた米国の情報機関員。彼は、米国政府を代表して和平交渉を開始するために、バチカンで日本の外交官に接触したと主張している。」
「上司に承認されていたかどうかはわかりません。」と著者は回想している。最終的に、このイニシアチブは実現しなかった。
「当時日本政府は、(中立条約を結んでいた)ソ連とスウェーデン経由で和平交渉の可能性を探っていたのですが、それはかなり間違っていました」と池原は説明する。
相互尊重
ピーター・タークソン枢機卿は、東京で開催された相互承認70周年記念シンポジウムで、日本とバチカンが共有してきた価値観について振り返り、「これらの数十年間、バチカンと日本の外交関係は相互尊重と、国際問題における平和と和解を促進する共通の願望によって特徴づけられてきました。日本は、自国の苦しみの経験と、社会的調和に対する文化的強調に基づいて、多国間主義と国家間の平和的協力を推進してきました。このコミットメントは、世界平和のために長年献身してきたバチカンの姿勢を反映しています。」と、語った。(原文へ)
INPS Japan
ビクトル・ガエタンは、国際問題を専門とするナショナル・カトリック・レジスターの上級特派員であり、バチカン通信、フォーリン・アフェアーズ誌、アメリカン・スペクテーター誌、ワシントン・エグザミナー誌にも執筆している。北米カトリック・プレス協会は、過去5年間で彼の記事に個人優秀賞を含む4つの最優秀賞を授与している。ガエタン氏はパリのソルボンヌ大学でオスマントルコ帝国とビザンチン帝国研究の学士号を取得し、フレッチャー・スクール・オブ・ロー・アンド・ディプロマシーで修士号を取得、タフツ大学で文学におけるイデオロギーの博士号を取得している。彼の著書『神の外交官:教皇フランシスコ、バチカン外交、そしてアメリカのハルマゲドン』は2021年7月にロウマン&リトルフィールド社から出版された。2024年4月、本記事の研究のためガエタン氏が初来日した際にINPS Japanの浅霧理事長が東京、長崎、京都に同行。INPS Japanではナショナル・カトリック・レジスター紙の許可を得て日本語版の配信を担当した(With...
砂漠農業における革新技術の応用
砂漠条件での作物栽培は常に人類にとっての課題だった。砂漠は不毛の地と見なされていたが、歴史を通じてこの課題に立ち向かい、成功を収めた人々がいた。技術革新と急速な技術の進歩により、現代の農業はもはや肥沃な地域に限定されることはない。
【エルサレムINPS Japan=ロマン・ヤヌシェフスキー】
紀元前5000年にはネゲヴ砂漠で果物や野菜が栽培されていたことを考えると、現代の技術がもたらす可能性を考慮すれば、砂漠が農作物の栽培地として何十年も利用されてきたことは驚くべきことではない。イスラエル、アメリカ合衆国、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)などの国々は、過酷な気候条件、貧弱な土壌、水の不足が、作物栽培を成功に導くうえで障害ではないことを証明している。
砂漠条件で作物を成功裏に栽培するための重要な要素は、特に地球温暖化の文脈で、持続可能な実践を採用することだ。これには、節水技術の導入が含まれる。具体的には、水のリサイクル(廃水処理)、塩水の淡水化、点滴灌漑(ドリップイリゲーション)などがある。
近年では、人工知能(AI)の発展により、特に農業技術の進歩と応用に新たな機会が生まれている。
イスラエル
砂漠農業の先駆者の一つであるイスラエルは、自然資源が乏しい中東の小さな国である。効率的な農業システムを確立する必要性から、世界中で使用される点滴灌漑技術を発明した。
「必要性は発明の母」と言われている。この地域の水不足は、水を効率的に使用する必要性を認識させた。実際、点滴灌漑は水の消費を80%削減し、作物の収量を倍増させる技術革新だ。
水資源の保存においてもう一つ重要な解決策は、農業目的で処理された廃水の再利用である。イスラエルでは、専門の施設で処理された廃水の約90%が再利用され、灌漑に使われている。
イスラエルでは、農業で使用される水の約40%が処理された廃水であり、これが実質的に再生されている。海水の淡水化も、もう一つの技術革新である。イスラエルは5つの淡水化プラントを運営しており、年間で5億8500万立方メートルの水を供給している。
イスラエルには、約100年の歴史を持つ国立農業研究所(通称:ヴォルカニセンター)があり、ここでは農業の専門家が育成されている。世界中から多くの専門家が研究のために訪れている。この研究所は、気候変動研究、砂漠農業技術、処理済み水や淡水化水を使った灌漑、効率的な水の使用、制御された環境での作物栽培、新しい果物や穀物の品種開発に焦点を当てている。これらの新しい品種は、水を少なく使いながら、より多くの収穫を得ることができる。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の南カリフォルニアにはインペリアル・バレーがある。20世紀初頭まで、この地域では過酷な砂漠気候のため、ほとんど人々が住んでいなかった。夏の昼間の気温は極端に高くなるが、10月末から4月初めにかけては気温がより快適になり、冬でも1日最大8時間の太陽光を受けるため、アメリカで最も日照時間が長い地域でもある。
過去100年の間、インペリアル・バレーでは農業が発展し、この地域の経済の柱となっている。バレーには50万エーカーの農地が広がっており、現在ではアメリカ合衆国の冬野菜の需要の3分の2を供給し、65種類の作物を生産している。また、牛や羊などの家畜も飼育されている。
砂漠を農業のオアシスに変えることができたのは、灌漑のおかげである。灌漑に使用される水の100%はコロラド川から供給され、約5000キロメートルの灌漑用水路を通じて届けられている。この地域の農業実践には淡水化された水も使用されている。
サウジアラビア
近年、サウジアラビア政府は農業開発に大きな重点を置いている。かつては家畜の飼育を中心とした遊牧文化が栄えていたが、その生活様式は1960年代に終わりを迎えた。過去数十年で、サウジアラビアは農業生産において自給自足を達成し、デーツ、乳製品、卵、魚、家禽、果物、野菜、花などを輸出している。
灌漑と効率的な水資源管理は作物栽培において重要な役割を果たしている。サウジアラビアには世界の6大淡水化プラントのうち3つがあり(残りはイスラエル、UAE、エジプトにある)、この技術の導入が農業生産を支えている。
近年、サウジアラビアは地下水資源の枯渇に直面しており、この問題に対応するための措置が講じられている。現在、キング・アブドゥラー科学技術大学(KAUST)は、同国の農業分野を前進させるために持続可能な方法を開発している。2024年9月には、水の淡水化コストを最適化し削減するために、ナノフィルトレーション、電気透析、逆浸透などの技術を探る2年間のプロジェクトが開始された。
アラブ首長国連邦(UAE)
アラブ首長国連邦(UAE)の大部分は砂漠だが、技術革新の利用により農業の新たな機会が開かれている。上記の他の砂漠地域と同様に、UAEは農業スタートアップを積極的に支援し、この分野に多大な投資を行っている。
近年、これらの技術企業は、人工知能(AI)、ロボット工学、ハイドロポニクス(水耕栽培)、垂直農法、支援的なエコシステムの創造など、長年の課題に対する革新的な解決策を追求している。技術の急速な発展は、農業のような伝統的な産業においても多くの機会を開放している。(原文へ)
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