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|モンゴル|遊牧民を含む公正な移行計画を加速するには

【ウランバートルIPS=アートリー・ダー】 若き気候活動家ゲレルトゥヤ・バヤンムフは、気候活動家としての原点を今も振り返っている。幼少期、彼女はモンゴルとロシアの国境から南へ20kmに位置する祖父母の村を訪れていた。そこでは、遊牧民たちが伝統的なゲルで暮らしながら、太陽光発電によって電力を得ていたのを目にし、喜びを感じたという。 「隣人がソーラーパネルとバッテリーを持っていて、明かりをつけたりテレビを見たりしていました。今では冷蔵庫もあるんです」と彼女は語った。 彼女は、遊牧民たちが自らの生活様式を意識的に選び、気候危機の時代にふさわしい再生可能エネルギーの導入を進めていると感じたという。 「この体験が、私が気候活動家になった理由です」と語った。 だが、彼女の理想とは裏腹に、その太陽光発電システムの実態は異なっていた。 「後に知ったのですが、あのソーラーパネルは、政府が全国の10万世帯の遊牧民に太陽光発電を導入する国家プログラムの一環として、部分的に補助されていたのです。」 彼女が目にした光景は、政府による再生可能エネルギー政策の一部だったのだ。このプログラムは2000年に導入された「10万ゲル太陽光発電プログラム」で、遊牧民の生活様式に合った携帯型太陽光発電システムを提供することを目的としていた。 モンゴルの人口の少なくとも30%は遊牧民である。2000年以前は、多くの遊牧民が電力へのアクセスをほとんど持っていなかった。2005年までに、政府は複数の国際ドナーの支援により、3万世帯以上にこの技術を導入した。 しかし、その全面的な電化の取り組みは、次第に停滞し始めていた。2006年、国会の環境・食料・農業常任委員会による中間監査報告書には厳しい指摘が並んだ。 初期段階では、配布プロセスに管理が及ばず、対象外の住民への配布や発電機の未納、資金の不正使用、契約期間内のローン返済の失敗など、数々の問題が明らかになった。 それでも2006年から2012年の第3フェーズでは、世界銀行など国際的な支援を得てプログラムの実施が拡大された。 「当初は、こんなに早く再生可能エネルギーの移行が始まったことに希望を抱きました。1999年にはすでに始まっていたなんて。でも中間監査報告を読んで、初期段階と同様に運営がずさんだったことを知って失望しました。最後は国際パートナーの支援があって、なんとか完了できたのです。」とゲレルトゥヤは語った。 ゲレルトゥヤは、若者への気候意識の啓発と実践的スキルの普及を目的とするNGO「グリーンドット・クライメート」の共同創設者であり理事でもある。 このNGOのモットーの一つは、「若者と国民の気候変動に対する態度と行動を変える」ことである。過去1年で同団体は50万人以上のモンゴル人に影響を与え、若者たちを主体的な気候活動家へと育ててきた。 「過去1年の間に、私たちは50万人以上のモンゴル国民に働きかけることができました。若者たちによる気候行動は10万件を超え、CO₂は70万㎏、水は25リットル、電力は8万kWh以上の削減につながりました。次の目標は、100万件の行動を達成し、より強固なコミュニティを築くこと、さらに50件以上の協働型気候プロジェクトを立ち上げることです。」と、2023年のOne Young Worldサミットで語った。 現在のエネルギー体制下における遊牧民の状況 モンゴルはエネルギー生産の90%を石炭に依存している。政府は、「国家エネルギー政策2015-2030」に基づき、2030年までに再生可能エネルギーの比率を30%に引き上げることを目指しており、温室効果ガス排出量を22.7%削減することも約束している。しかし、2020年の時点で、エネルギー部門は国内の総排出量の44.78%を占めている。 ゲレルトゥヤの団体は、近年モンゴルのエネルギー体制を継続的に調査している。2024年時点で、モンゴルの電力供給は主にCHP(熱電併給)プラントと、ロシアおよび中国からの電力輸入に依存している。再生可能エネルギーの比率はわずか7%にとどまり、中央エネルギーシステムが国内の電力需要の80%以上を占めている。 「私たちの調査では、約20万世帯が中央電力網の統計に反映されていませんでした。これらは、20年前にソーラーシステムを初めて導入した遊牧民家庭、あるいはその子孫たちと考えられます」 ゲレルトゥヤは、モンゴル統計情報サービスとエネルギー規制委員会の家庭数データを照合し、統計から漏れている世帯数を特定したという。 化石燃料経済への逆行 モンゴルは再生可能エネルギー比率を2030年までに30%にするという目標を掲げているが、現時点でその実現にはほど遠い。 2020年の国別削減目標(NDC)では、「2030年までに温室効果ガス排出量を22.7%削減」とし、条件付き対策(CCSや廃棄物発電など)によっては27.2%、さらに森林吸収などの措置を加えることで44.9%までの削減が可能としている。 「石炭依存経済を脱炭素化する代わりに、モンゴルは炭素吸収や森林吸収といった手法に重点を置くようになっています。つまり、数々の約束や政策、再生可能エネルギー推進の努力にもかかわらず、実際は『現状維持』に終始する恐れがある。これは悪政と停滞、そして悪循環の表れです」と彼女は指摘した。 モンゴルのエネルギー部門への提言 ゲレルトゥヤのNGOは、2025年の「アース・マンス」キャンペーンに積極的に参加し、COP30で提出されるNDC3.0に向けて若者からの提案を募っている。 彼女は、いくつかの提言を共有した: 需要側では、電力網に接続されていない世帯が、安価で高効率となった新しいソーラーシステムに更新・改善する必要がある。 また、2024年の世界銀行『モンゴル国気候・開発報告書』によれば、モンゴルの家庭用電気料金はコスト回収価格よりも40%低く、2022年には補助金がGDPの3.5%に達していた。このため、エネルギー効率の改善や再生可能エネルギー投資が進みにくくなっている。 この状況下では、電力網に接続されている家庭がエネルギー使用に対して適正価格を支払い、再生可能エネルギーの導入を支える仕組みが必要である。また、市民は短期的利益にとらわれず、より良い政策とその実行を求める責任ある投票行動が求められる。 供給側では、現在「エネルギー復興政策」の下で進行中の6件の化石燃料関連プロジェクト(国際的なものも含む)を即時停止すべきである。 次に、老朽化し非効率かつ過剰に補助金に依存した電力インフラを大幅に改善する必要がある。国連開発計画(UNDP)も同様の指摘をしている。 さらに、現在30%にとどまっているエネルギー供給能力の活用率を高めること。インフラの非効率が主因とされている。 加えて、再生可能エネルギーの総容量を現在の5倍に拡大し、需要に対応する必要がある。これは、最大需要時に必要なエネルギー量の15倍を意味する。最終的には、石炭火力を段階的に廃止し、完全に再生可能エネルギーへと移行すべきである。(原文へ) INPS Japan/IPS...

国連SDGs地域センター、アルマトイに設立 トカエフ大統領とグテーレス事務総長が協定署名

【アスタナThe Astana Times】 カザフスタンのカシム=ジョマルト・トカエフ大統領と国連のアントニオ・グテーレス事務総長は8月3日、中央アジアおよびアフガニスタンを対象とする「持続可能な開発目標(SDGs)」のための国連地域センターをカザフスタンのアルマトイに設置するホスト国協定に署名したと、アコルダ(大統領府)が発表した。 署名式は、国連とのパートナーシップにおけるカザフスタンの新たな節目となり、地域全体における持続可能な開発推進に向けた重要な一歩となった。 グテーレス事務総長のカザフスタン訪問は、ニューヨークで開催される国連総会第80回会期を前に実現した。トカエフ大統領は、多忙な日程の中での訪問に謝意を示し、次のように語った。 「国連総会第80回会期を前にした多忙な時期にもかかわらず、グテーレス事務総長がわが国を訪問されたことは、われわれにとって特別な意義を持ち、持続可能な開発目標に対する国連の強いコミットメントを改めて示すものです。」 トカエフ大統領は、中央アジア初のSDGsセンター開設が「地域全体にとっての画期的な成果」であると強調した。 「私自身、そしてカザフスタン国民を代表して、この取り組みに対する貴殿および国連チームの揺るぎない支援に心から感謝申し上げます。また、国連80周年に向けた貴殿の先見的なイニシアティブも高く評価いたします。カザフスタンは国連改革への取り組みを全面的に支持し、多国間主義、外交、協力という国連の基本原則に対する揺るぎないコミットメントを改めて表明します。」 グテーレス事務総長は温かい歓迎に謝意を示し、国際協力と持続可能な開発促進におけるカザフスタンの貢献を称賛した。 「カザフスタンは平和と対話の象徴であり、多くの場面で信頼される仲介者、橋渡し役としての役割を果たしてきました。その出発点は、数十年前に核兵器を放棄するという歴史的な決断にあります。これは国際社会に対する模範となるものでした。文明間の衝突が語られる今日にあって、カザフスタンは、自国の存在とイニシアティブを通じて、異なる宗教や文化を持つ人々の対話と協力に希望があることを示してきました。貴国は常に、人々を結びつけるメッセージを発信し続けてきた中心的存在です。」 アコルダが公開した会談映像によると、グテーレス事務総長は今回の訪問について、「単なるホスト国協定への署名にとどまらず、この極めて重要なプロジェクトに世界的な注目を集めることにある。」と述べた。 会談では、国連地域センターの今後の活動、国連改革の展望、国際的および地域的な主要課題についても協議が行われた。(原文へ) INPS Japan/ The Astana Times Original URL: https://astanatimes.com/2025/08/tokayev-guterres-inaugurate-un-regional-sdg-center-in-almaty/ 関連記事: トカエフ大統領、国連総会で安保理の緊急改革を訴える カザフスタンの核実験に関するドキュメンタリーが核廃絶の必要性を訴える |視点|カザフスタンの宗教間対話イニシアチブ:知恵とリーダーシップで世界の調和を育む(浅霧勝浩INPS Japan理事長)

核兵器への盲信を支える神話

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。 【Global Outlook=ラメシュ・タクール】 戦争で原子爆弾が初めて使用されたのは、1945年8月6日の広島である。最後に使用されたのは、その3日後の長崎だった。1980年代には米国とソ連の保有弾頭数がピークに達し、数万発に上ったにもかかわらず、1945年以降80年間、核兵器が再び使われなかった最も単純な理由は、それらが本質的に「使えない」兵器だからである。 現在、核兵器は9か国に拡散しており、さらに多くの国の指導者や科学者がその「魔力」に魅了され続けている。その根底にはいくつもの神話があり、最初の神話は、第二次世界大戦の太平洋戦線で連合国が勝利したのは原爆によるものだというものである。政策立案者、分析家、論評者の多くは、日本が1945年に降伏したのは広島と長崎への原爆投下によるものだと信じ込んできた。 ロバート・ビラード氏は最近、当時の米国の複数の政策立案者や高級軍人が、原爆投下は戦争終結において軍事的価値が疑わしく、極めて非倫理的であると考えていたことを簡潔にまとめている。とはいえ、重要なのは米国人がどう考えたかではなく、日本の政策決定者が何に動機づけられて降伏したかである。別の分析枠組みによって、原爆が日本の降伏の決定的要因ではなかったというビラード氏の見解が強く裏付けられている。原爆投下に加えて、ソ連は8月9日に日ソ中立条約を破棄して対日参戦した。東京は8月15日に降伏を発表している。 原爆投下と日本の降伏の時系列が近いのは偶然だった可能性が高い。8月初めの時点で、日本の指導部は敗戦を認識していた。無条件降伏の決め手は、ソ連が防備の手薄な北方から参戦し、降伏しなければスターリンのソ連が占領国となるという懸念であり、米国に先に降伏することでそれを回避することだった。この運命的な決断が、日本をどの国が占領するかだけでなく、冷戦終結まで続く戦後太平洋の地政学的地図全体を決定づけた。 第2の神話は、冷戦期の緊張を核兵器が維持したというものである。しかし、冷戦期においてソ連陣営もロシアと北大西洋条約機構(NATO)も互いを攻撃する意図を持っていたが、相手の核兵器によって抑止されたという証拠は存在しない。冷戦期の平和をもたらした要因として、核兵器、西欧統合、西欧の民主化のいずれがより重要だったのかは検討に値する。だが確かなのは、米国が原子力を独占していた1945~49年の間に、ソ連が赤軍の支配下で東欧・中欧に大規模に勢力を拡大したこと、そして戦略的均衡を得た後にソ連が崩壊し東欧から撤退したことである(もっとも、均衡達成が直接の原因ではない)。 冷戦後も、双方の核兵器保有は米国がNATOの国境をロシアの国境まで拡大することを止めず、ロシアが2014年にクリミアを併合し、昨年ウクライナに侵攻することも防げなかった。また、それはNATOによるウクライナ再武装や、ウクライナがロシア本土奥深くを攻撃することも阻止できなかった。 第3の神話は、核抑止が万全とはほど遠いというものである。世界がこれまで核惨事を回避できたのは、賢明な管理と同じくらい「幸運」による部分が大きい。1962年のキューバミサイル危機はその最も顕著な例である。ロシアとNATOの戦争は5つの潜在的核紛争の1つに過ぎず(ただし最も深刻な結果を伴う可能性が高い)、残る4つはすべてインド太平洋地域(米中、印中、朝鮮半島、印パ)である。北大西洋における二国間の枠組みをそのまま多層的なインド太平洋の核関係に当てはめるのは分析的に誤りであり、安定管理の政策面でも危険を伴う。 核による平和を維持するには、抑止と安全装置が常に100%機能しなければならない。だが、核による終末は一度の破綻で起こりうる。抑止の安定は、常に全ての側で理性的な指導者が政権にいることに依存しているが、金正恩、ウラジーミル・プーチン、ドナルド・トランプの時代において、それは心もとない前提条件である。さらに、暴発、人的ミス、システム障害が一度も起きないことが必要だが、それは不可能に近い。実際、誤解や誤算、偶発的事態によって、世界は何度も核戦争寸前まで迫ってきた。 第4の神話は、核兵器が核による脅迫からの必要不可欠な防御であるというものだ。核兵器がなければ得られない強制的交渉力を国家にもたらすという信念も、歴史的証拠に乏しい。核攻撃の明示的または暗黙の脅しによって、非核兵器国が行動を変えた明確な事例は一つもない(ウクライナも含む)。 核兵器は、史上最も無差別かつ非人道的な兵器であるため、非核兵器国に対して使用すれば政治的代償が大きすぎ、補うことは不可能だ。米国民の間で、この兵器使用に対する規範的禁忌が弱まっているとする研究もあるが、核政策に関わる世界の意思決定者の間では依然として強固な禁忌が維持されているとの見方が根強い。 核保有国は、ベトナムやアフガニスタンで非核兵器国に敗北しても、核使用による戦闘エスカレーションは選ばなかった。領土が非核兵器国に侵攻された例もあり、1980年代のフォークランド紛争や最近のウクライナによるロシア・クルスク州侵攻がそれにあたる。北朝鮮の挑発に対して最大の抑止要因となっているのは、核兵器ではなく、ソウルを含む韓国の人口密集地を攻撃できる強力な通常戦力と、中国の反応への懸念である。 第5の神話は、核抑止の絶対的効力を神聖視するものである。相互確証破壊が成り立つ二次攻撃能力を持つ核保有国同士では、核兵器は防衛手段として使用できず、相互破滅をもたらすだけである。実際、核・中堅・小国のいかなる組み合わせにおいても、抑止は必ずしも成立しない。核兵器保有は、相手国による核使用やその脅威のハードルを上げるかもしれないが、完全に排除することはできない。核保有国イスラエルが、イランの核兵器取得を存亡の脅威とみなすのはそのためだ。逆に、核抑止の論理を信奉する者であれば、中東の平和と安定のためにイランの核武装を支持するはずである。 結論として、核兵器の極端な破壊力は軍事的・政治的有用性には直結しない。むしろそれは、他の兵器とは質的に異なる政治的・道義的性格を持ち、事実上「使えない」ものにしている。核兵器使用を容認不可能で非道徳的、かつ状況によっては違法とするのは抑止ではなく規範であり、この規範的障壁は2017年の核兵器禁止条約(TPNW)によってさらに強化されている。(原文へ) INPS Japan 関連記事: 戦争と核兵器: 本末転倒の論理 広島・長崎への原爆投下は避けられた(デイビッド・クリーガー核時代平和財団所長) セメイから広島へ―ジャーナリズムで世界の連帯を築く(アスタナ・タイムズ編集長 ザナ・シャヤフメトワ氏インタビュー)

終戦80年に寄せて「不戦の世紀へ 時代変革の波を」(原田稔創価学会会長)

8月15日の「終戦の日」を前に、創価学会の原田会長が「不戦の世紀へ 時代変革の波を」と題する談話を発表した。その中で原田会長は、第2次世界大戦による犠牲者に哀悼の意を述べた上で、現在も各地で紛争による一般市民の犠牲が広がっている状況に対し、深い憂慮の念を表明。ウクライナや中東のガザ地区を巡る紛争の早期終結とともに、国際人道法の遵守を強く呼びかけている。   また、創価学会の平和運動の源流が、戦時中に軍部政府の弾圧によって投獄された、初代会長・牧口常三郎先生と第2代会長・戸田城聖先生の獄中闘争にあることに言及。二人の師の信念を受け継いだ第3代会長の池田大作先生が、戦時中に日本が甚大な被害をもたらしたアジア太平洋地域の国々との友好を広げる努力を重ねてきた歴史を振り返りつつ、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の意義に触れて、創価学会の社会的使命は世界の民衆の生存の権利を守り抜くために「核兵器のない世界」を築くことにあると訴えている。   その上で、「青年交流」「宗教間対話」「グローバルな民衆の連帯の拡大」の三つの取り組みを基軸にしながら、192カ国・地域に広がるSGI(創価学会インタナショナル)のメンバーと共に「不戦の世紀」の建設を目指すことを表明している。 【東京INPS Japan=原田稔】  多くの国の民衆を巻き込む総力戦が広がる中で、6000万人以上に及ぶ犠牲者を出した第2次世界大戦が終結して、本年で80年になります。 犠牲者は当時の世界人口の3%を超えたともいわれ、しかも、その大半が女性や子どもを含む一般市民にほかなりませんでした。 第2次世界大戦によって尊い生命を失ったすべての国の方々に、哀悼の意を表するとともに、仏法者として衷心より追善の祈りを捧げます。 また、日本人の一人として、アジアと太平洋の国々に甚大な被害と苦しみをもたらした歴史への反省に立って、アジア太平洋地域の平和はもとより、世界の平和を築くために行動を続けることを、改めて固く誓うものです。 三代の会長を貫く「平和への信念」 8月15日の長編詩  日本にとっての「終戦の日」である8月15日を前にして、私が思い起こすのが、創価学会の第3代会長である池田大作先生が、長編詩「黎明の八月十五日」で綴っていた言葉です。 10代の頃に戦争に巻き込まれ、兄を亡くし、家も2度失った池田先生は、21世紀が開幕した年の夏(2001年8月)に、戦時中の悲惨な体験を歴史の証言として詩に残す中で、こう叫ばれました。 「一家を滅茶苦茶にされ  一族を不幸のどん底に  陥れられた。  いな  無数の方々が  不幸と地獄と慟哭の  涙を流した。  この八月十五日を  迎えると  怒りの心が燃える」  その上で池田先生は、民衆が経験した塗炭の苦しみは「世界のあらゆる天地」に広がっていたものであり、“世界中の民衆の苦しみを、指導者たちは永遠に断じて忘れてはならない”と長編詩で訴えたのです。  私たち創価学会の平和運動の源流は、日蓮大聖人の仏法の「生命尊厳」の思想に基づいて平和と人道の主張を貫き、軍部政府の弾圧によって1943年7月に投獄された、初代会長の牧口常三郎先生と第2代会長の戸田城聖先生の獄中闘争にあります。 日本が太平洋戦争に突入する前月(1941年11月)に生まれた私にとっても、戦時中の体験は決して忘れることができません。 東京の下町である浅草橋に生まれた私は、3歳の時に約10万人が犠牲となった東京大空襲に遭いました。 1945年3月10日の未明に大量の焼夷弾が投下されて、あたり一面に火災が広がる中、母に守られながら逃げ回った時の恐ろしさは今も胸に焼き付いています。 紛争の早期終結を  第2次世界大戦が終結してから、第3次世界大戦のような最悪の事態はかろうじて防がれてきましたが、戦争の惨劇は何度も繰り返されてきました。 また今日においても、ウクライナや中東のガザ地区を巡る悲惨な情勢をはじめ、各地で武力衝突や紛争が続いており、一般市民の犠牲の拡大や人道状況の悪化が強く懸念されます。   国や民族は違っても、愛する家族や大切な人の命を奪われる悲しみに変わりはない――。この事実は、第2次世界大戦で各国の民衆に襲いかかった悲劇であっただけでなく、次元は異なりますが、近年に起きた新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)を通じて、多くの人々が痛感した思いだったのではないでしょうか。 戦火に巻き込まれて命を失った方々と、そのご家族のことを思うと胸が痛んでなりません。   6月に勃発し、世界を震撼させたイスラエルとイランの戦闘は、拡大することなく収束をみました。 紛争が長引くウクライナやガザ地区を巡る情勢においても、関係諸国を含めた対話と外交努力を粘り強く重ねる中で、本格的な停戦と紛争終結への道が一日も早く開かれることを心から願うものです。   二度にわたる世界大戦の反省に基づいて、1945年に創設された国連の憲章の前文には、次のような誓いが刻まれています。  われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う――と。 しかしながら、この80年間において「戦争の惨害」と無縁であり続けることができた国は、いったい、どれだけあったでしょうか。 その意味では、国連憲章が目指す平和な世界の建設は、いまだ道半ばと言わざるを得ません。 「人間革命」の冒頭の一節「戦争ほど、残酷なものはない 戦争ほど、悲惨なものはない」 近隣諸国との友好  思い返せば、第2次世界大戦後の紛争において極めて多数の犠牲者を出した、ベトナム戦争が激化し始めた1964年12月――。 聖教新聞の記者であった私は、池田先生から、ある原稿を手渡されました。 小説『人間革命』の最初の13回分の原稿です。 「戦争ほど、残酷なものはない。  戦争ほど、悲惨なものはない」 日本における“地上戦の最大の激戦地”となった沖縄で、池田先生が小説の冒頭に書き起こした言葉を目にした時、池田先生の戦争に対する強い憤りが胸に迫ってきました。 翌1965年の元日から始まった、小説の新聞掲載にあたり、私は挿絵画家との窓口などの仕事に携わりました。小説の行間ににじみ出る“「戦争のない世界」への道を開くために、崩れざる民衆の連帯を何としても築かねばならない”との池田先生の深い覚悟を、連日のように感じてなりませんでした。   私がその仕事を担当したのは第3巻まででしたが、連載が第5巻の「戦争と講和」の章に入る前(1969年4月)、池田先生が雑誌に寄せた一文に、次の言葉が記されていたことを鮮烈に覚えています。 「あの泥沼のごときベトナム戦争の報道をみて、数ある写真の中で、銃弾を避けて逃げまどう母と子の姿ほど痛ましく、胸に迫るものはない」 「戦争さえなければ、おそらく幸福な毎日を送っていたであろうに、なんのために、何の目的で、その幸福を奪おうとするのか――」 写真に写っていた“母と子”の姿は、まさに私自身も戦争で体験し、周囲で起きていた光景と重なるものだったからです。 当時、池田先生は、ベトナム戦争の即時停戦と和平実現を求めて提言を行っていました。提言を通して、国際政治の面から外交努力を通じて解決を図ることを呼びかけるだけでなく、何よりも一人の人間として、“戦争下の民衆の苦しみ”に目を向けて、悲劇を終わらせることを訴えてやまなかったのです。   池田先生は、日本が戦時中に多くの民衆を苦しめた国々を訪れ、犠牲者に追善の祈りを捧げてきました。第3代会長就任の翌年(1961年)に訪問したビルマ(現・ミャンマー)、タイ、カンボジア、インドをはじめ、中国、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシア、オーストラリアに足を運び、友好を結ぶことに全魂を傾けました。 こうした国々に加えて、ベトナムやインドネシア、太平洋地域の国々の識者と対話を重ねる中で、日本が引き起こした悲劇に対する思いを真摯に受け止め、その言葉の一つ一つを歴史の証言として聖教新聞の記事や対談集に残す努力を続けられてきたのです。   私自身、そうした対話の場に立ち会わせていただいたことが何度もあります。 池田先生が中国を初訪問した時(1974年5月~6月)にも同行しました。 訪中団の秘書長として準備にあたった私に池田先生が教えてくださったのが、過去の歴史に対する痛切な反省を忘れることなく、隣国との友好を築いていかなければ、世界平和への道も開けないとの信念でした。 その信念を胸に、香港を経て北京に向かい、表敬訪問した中日友好協会で池田先生が提案したのが、青年や女性による交流を進めるための計画だったのです。  第2次訪中(同年12月)で周恩来総理と会見した時、病身の周総理が強く望んでいたのも、世々代々の友好を築くことでした。 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されています。そのことが、私には、とても嬉しい」と。 この2度の訪中が淵源となって、現在にいたるまで両国の間で青年交流をはじめ、文化交流と教育交流が重ねられてきたのです。 民衆の生存の権利を断じて守り抜く 国際人道法の遵守  戦争の悲劇を地球上からなくし、どの国の民衆も平和に生きられる世界を築きたい――。池田先生のこの信念は、小説『人間革命』で浮き彫りにされていたように、戸田先生から受け継いだものでした。 1957年の9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表した時、高校1年生だった私もその場に参加していました。   競技場に集まった5万人の多くは青年でしたが、周囲を見渡すと、子ども連れの母親をはじめ、あらゆる世代の人たちがいました。そこで戸田先生は、“世界の民衆の生存の権利”を守り抜くために、いかなる理由があろうと核兵器の使用を絶対に許してはならないと訴えました。 その後、歳月を経て、この宣言を読み返すたびに胸に去来するのは、次のような思いであります。 広島と長崎で起きた核兵器による惨劇を、地球上のどの場所であろうと絶対に起こしてはならない。「核兵器のない世界」を築く行動を貫くことに創価学会の社会的使命がある――と。   翻って現在の世界でも、紛争や内戦に加えて核兵器の脅威が再び高まる中で、一人一人の「生命の尊厳」がなし崩し的に脅かされようとしている現実が広がっていることに、憂慮を感じてなりません。 第2次世界大戦がもたらした甚大な被害を踏まえて、国際人道法が整備されたのは、“一般市民をいかに戦争から保護するか”という強い共通認識が背景にあったからでした。   池田先生は2019年の平和提言で、この国際人道法の中核をなすジュネーブ諸条約が採択に至った経緯に言及しながら、こう強調していました。 「多くの人々が目の当たりにした戦争の残酷さと悲惨さが、交渉会議の参加者の間にも皮膚感覚として残っていたからこそ、国際人道法の基盤となる条約は、強い決意をもって採択されたのではないでしょうか。 私は、この条約の原点を常に顧みることがなければ、条文に抵触しない限り、いかなる行為も許されるといった正当化の議論が繰り返されることになると、強く警告を発したい」 極めて遺憾なことに、現在の紛争においては、“国際人道法の条文そのものに抵触する”との懸念の声も上がるような事態が、しばしば起きています。   この世界から一切の戦争を即座になくすことは困難であるとしても、“子どもや女性、高齢者や病人を保護する安全地帯の設置”を求めることからジュネーブ諸条約の検討が始まった歴史の重みを想起しつつ、終戦80年を機に、各国が共に国際人道法を遵守することを改めて誓約すべきではないでしょうか。 悲惨をなくす誓い  その上で、私たちが強く呼びかけたいのは、分断や対立が生じても、それを軍事力による全面衝突という事態にまで至らせないための「不戦の防波堤」を、民衆の連帯によって堅固にしていくことの重要性であります。 池田先生が、1983年から2022年まで40回にわたって平和提言を続ける中で、繰り返し訴えていたのも、この点にほかなりませんでした。   先生は2回目の平和提言(1984年)で、「軍縮への努力と同時並行的に『世界不戦』という意志の流れを深く、大きくしていく」ことが重要であると力説したことがあります。 当時、こうした二つの潮流――国際政治のレベルにおける“軍縮の機運の高まり”と、各国の民衆レベルでの“平和を求める声の高まり”が相まって、冷戦終結に向けた流れが急速に生み出されていきました。 世界で今、一般市民を巻き込む軍事力の行使が半ば日常化しつつある中で、再び押し上げていく必要があるのは、この二つの潮流ではないでしょうか。   池田先生がこの「不戦」の重要性を巡って、終戦70年の2015年に創価学会青年部に呼びかけた印象深い提案がありました。 広島・長崎・沖縄の青年部が「3県平和サミット」の名で継続的に開催してきた青年平和連絡協議会を、新たに「青年不戦サミット」との名称で行っていくことを提案したのです。   なぜ「平和」ではなく、「不戦」という言葉をあえて掲げたのか――。 その真意を示すような言葉を、池田先生は同年1月に発表した平和提言の中で述べていました。 「差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。 しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、“彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりもまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません」 「(相手の立場を互いに理解する)努力を欠いてしまえば、緊張が高まった場合などに、自分たちにとっての『平和』や『正義』が、他の人々の生命と尊厳を脅かす“刃”となる事態が生じかねません」と。   つまり現代の世界では、「平和」という言葉が、本来そこに込められていた意味から離れて、“攻撃や暴力を正当化するための口実”のように用いられてしまう場合も少なくない。 そうではなく、“戦争が引き起こす悲惨事を地球上の誰にも経験させてはならない”との信念を骨格に据えながら、「不戦」という明確な誓いを立てることによって、「平和」を求める思いをさらに強固なものにしなければならないというのが、池田先生の主張の眼目だったのです。 まして、核兵器の脅威が常態化している今、「核兵器の不使用」を求める国際世論を高め、そこから「核兵器の禁止と廃絶」への流れを力強く生み出していく努力とともに、人類が共に「不戦の世紀」の道へ踏み出すことが急務となっていると思えてなりません。 「青年交流」と「宗教間対話」を促進し地球的課題に取り組む連帯を拡大 三つの挑戦を推進  私たち創価学会は、「不戦の世紀」の建設を民衆の手で進めるために、以下の三つの挑戦に今後も全力を注ぐことを、ここに宣言するものです。  第一の柱は「青年交流」です。  戦争を起こすのも人間であれば、対立や分断を食い止めて、戦争を防止するのも人間です。 そこで大切になるのが、集団心理や暴力的な扇動に押し流されない社会を築くことです。 私たちは、中国や韓国などの隣国をはじめとするアジアの国々との間で、民衆レベルでの交流――なかんずく青年交流を重ねてきました。次代を担う青年たちが友情を結ぶことこそ、何よりの「不戦の防波堤」の礎となるものと信じてやみません。 そうした交流を体験した「世代」の厚みを増していくことが、他国との戦争を戒める社会の構築につながると考えるのです。  第二の柱は「宗教間対話」です。  人類の歴史を振り返れば、残念ながら、宗教の違いがしばしば深刻な分断を生む原因となってきた面があることは否定できません。 しかしその一方で、多くの宗教が、平和と尊厳を求める人々の精神的支柱となってきたことも事実です。 この両面を見据えながら、より良い世界を築くために宗教者が行動することが求められており、分断の轍を踏まないためにも、相互理解を深める対話を広げることが欠かせません。 私も昨年5月、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(当時)と会見し、“戦争と核兵器のない世界”の実現が強く求められることについて語り合いました。 また本年6月には、マレーシア国際イスラム大学の国際イスラム思想・文明研究所のアブデルアジズ・ベルグート所長と、仏法とイスラム教の平和思想を巡って意見を交換しました。 創価学会やSGI(創価学会インタナショナル)としても、国連の活動に関わる会議などの場で、さまざまなFBO(信仰を基盤にした団体)と対話を進め、宗教者としての共同声明をいくつも発信してきました。 今後も、こうした宗教間対話に積極的に取り組んでいく決意であります。  そして第三の柱は、地球的な諸課題の解決を目指して共に行動する「グローバルな民衆の連帯」の輪を広げていくことです。 同じ目標に向かって一緒に行動することは、国や民族の違いを超えて信頼関係を築く上での最良の土台となるものです。 私たち創価学会とSGIは、国連の取り組みへの支援を軸に、人権や気候変動の問題をはじめ、地球的な諸課題を巡る活動を進める中で、このことを強く実感してきました。 今こそ、国際社会の流れを、“互いの国が不信を募らせて軍事力を強化する時代”から、“人類共通の脅威や課題を取り除くために協力し合う時代”へと転換する必要があります。 そのための努力を重ねる中で、おのずと「不戦の世紀」への道も、眼前に大きく見えてくるのではないでしょうか。   かつて池田先生は、釈尊の「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)との言葉を通しながら、こう訴えられました。 「私たちには、同じ人間である以上、『己が身にひきくらべて』他者の苦しみに思いをはせることができる『内省』という名の心の音叉があり、誰に対してもどこにでも架けることのできる『対話』という名の橋がある。そして、どんな荒れ地も耕すことのできる『友情』という名の鍬があり、鋤がある」と。 この精神に基づいて、私たちは世界192カ国・地域の同志と共に、すべての人々が平和で尊厳をもって生きられる「不戦の世紀」を建設するために行動を続けることを、終戦80年の節目に改めて強く決意するものです。 INPS Japan Original Link: https://www.seikyoonline.com/article/F271B9C86FC46126C12192AFB5549FBA 関連記事: 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