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北京+30―世代と国境を越える対話の集大成
【国連IPS=ナウリーン・ホセイン】
第4回世界女性会議(1995年・北京)から30年。世界が「ジェンダー平等」という共通の課題に向けて一致したあの決意は、2025年のいまもなお力強い意味を持ち続けている。この北京会議は、世界的なジェンダー平等運動の転換点であり、包括的な行動計画を提示した画期的文書―「北京宣言および行動綱領(Beijing Declaration and Platform for Action)」―の採択によって知られる。
ケニアの女性の権利擁護者で30年以上の活動歴をもつシア・ナウロジー氏はこう語る。
「北京会議は、フェミニスト運動の長く続く旅路の一つの節目にすぎません。30年経った今でも、その意義はまったく色あせていません。あれは20年にわたる草の根のジェンダー平等運動の集大成でした。」
ナウロジー氏は現在、国連財団の「少女と女性戦略部門」のアソシエイト副代表を務めている。
グローバルな開発議題に初めて統合された「ジェンダー平等」
北京会議は、国際社会が初めてジェンダー平等をグローバルな開発と人権の議題に正式に組み込んだ場でもあった。すべての女性と少女の権利と尊厳を確立することが、持続的な発展の鍵であるという認識が共有されたのだ。これは、植民地支配から独立した新興国にとって特に重要な意味をもっていた。
この行動綱領の形成において、グローバル・サウス(途上国側)の女性リーダーたちの貢献は決定的だった。アフリカ、アジア、ラテンアメリカの代表たちは、枠組みをより包括的なものにするために尽力した。ナウロジー氏は、アフリカのフェミニストたちの努力によって「少女の権利」が明確に盛り込まれた例を挙げる。
ソマリアの人権活動家で「エル・カラマ(El-Karama)」創設者のヒバーク・オスマン氏もその一人である。彼女は、植民地主義や人種差別との闘争を経験したグローバル・サウスの活動家たちが、北京会議に臨むうえで独自の準備を積んでいたと指摘する。オスマン氏は1995年、女性市民社会ネットワーク「戦略的女性イニシアティブセンター」の一員として会議に参加した。
「女性が自ら語る」ことの衝撃
「若い頃の私は、あの場で耳にした話に衝撃を受けました。すべては“個人の問題”だと教えられて育った私にとって、女性が自分の声で語り、暴力の体験まで共有する―それは想像を超える出来事でした。『女性同士で分かち合っていいのだ』と気づかされた瞬間でした。」
オスマン氏にとって北京会議は、「共通の目標と希望を共有することで、何が達成できるのか」を示す象徴だった。その場の独特のエネルギーが、後のアフリカの女性団体SIHA(アフリカの角における女性の戦略的イニシアティブ)やエル・カラマなどでの彼女の活動を推進する原動力となった。
また、北京会議は政府や政策決定者に対し、「行動綱領を実施しなければ問われる」という責任意識を世界的に植えつけた点でも画期的だった。
「それまでそんな仕組みは存在しませんでした。政府や政策担当者に説明責任を求められるようになったのです。そして、草の根とのつながりも重視されました。個々の女性が“リーダー”として主張する時代から、地域社会に責任を持つリーダー像へと変わったのです。これは本当に素晴らしいことでした。」
オスマン氏は続ける。「北京会議の遺産とは、私たちが殻を破り、世界中の女性たちと手を取り合うようになったことです。このビジョンと枠組みは、いまもなお生き続けています。」
国連という「運動のプラットフォーム」
ナウロジー氏は、女性会議の成功が「国連という場がいかにジェンダー平等運動の成長を支えてきたか」を示していると語る。国連はまた、新興国が自らの課題を国際社会に訴え、グローバル・アジェンダを自国の視点で形づくるための重要な舞台でもあった。
北京以前にも女性会議は開催されている。メキシコシティ(1975年)、コペンハーゲン(1980年)、ナイロビ(1985年)で開かれたこれらの会議は、世界各地の活動家たちが出会い、アイデアと経験を交流させる場となり、北京へとつながる基盤を築いた。
ナウロジー氏は18歳のとき、学校代表としてナイロビ会議に参加した経験を振り返る。「世界中の女性たちが私の故郷に集まり、『私たちは価値ある存在なのだ』と語り合う――それは私の人生を変える体験でした。あの時出会った仲間とは今でも交流が続いています。個人的にも支えになり、フェミニズム運動の重要な土台となっています。」
前進と後退のはざまで
ナウロジー氏とオスマン氏は、これらの会議が生み出した勢いが、地域・国家・国際レベルでの前進を後押ししたと強調する。活動家たちは地元の文脈に合わせてメッセージを洗練させ、運動を広げていった。
その結果、女性の権利は多くの国で法的に明文化され、政治や平和交渉への参加も拡大した。教育・保健・雇用などで女性への投資が社会全体の経済成長と安定をもたらすことも実証されている。女性の労働参加が増えれば経済は強化され、社会保障が拡充すれば地域コミュニティはより安定する。
しかし、その進展に対する「反動」も顕著になっている。近年、女性の権利を否定・制限しようとする「反権利」「反ジェンダー」運動が勢いを増しており、UN Women は「4か国に1か国が女性の権利へのバックラッシュを報告している」と警告する。
ナウロジー氏はこう指摘する。「独裁的指導者たちが女性の権利を標的にするのは、それが彼らの支配構造を脅かすからです。女性の声や意思決定を封じることは、民主主義や開発、平和、そして私たちの大切にしてきた価値のすべてを弱体化させる最も効果的な手段なのです。」オスマン氏も「女性を抑え込めば社会全体が崩壊します。女性は社会の核だからです」と付け加える。
反権利勢力は資金力も組織力も持ち、しかも皮肉なことに、フェミニスト運動が何十年もかけて築いた草の根から国レベルへと波及させる戦術をそのまま応用している。だが、活動家たちは絶望する必要はないと二人は語る。女性運動はすでに、勢いを取り戻すために何をすべきかを知っている。
「いま、私やシア、そして多くの仲間たちは、市民社会の活動空間が縮小している現実を痛感しています。民主主義、人権、正義、リプロダクティブ・ライツ―あらゆる分野で後退が見られます。それでも私たちは止まりません。もっと賢く、もっと多様な連携を築く方法を考えます。困難ではありますが、決して歩みを緩めることはありません。」(オスマン氏)
過去から学び、未来を築く
いまジェンダー平等の実現は、社会の分断と不信をあおる権威主義的潮流に脅かされ続けている。だが、北京行動綱領以前を知る世代の活動家たちは、何が危機にさらされているのかを誰よりも理解している。
現代の女性運動を担う若い世代に必要なのは、過去の闘いを振り返り、そこから教訓と勇気を得ることだ。(原文へ)
INPS Japan/IPS...
第2次世界大戦期の兵器がいまもソロモン諸島の人命と発展を脅かす
【シドニーIPS=キャサリン・ウィルソン】
20世紀、太平洋戦線の激戦地のひとつとなったソロモン諸島では、第2次世界大戦中に日・米英両陣営が残していった大量の不発弾(UXO:Unexploded Ordnance)が、いまなお国中に散在し、人びとの暮らしと開発を脅かしている。
9月、ソロモン諸島の首都ホニアラで開かれた太平洋諸島フォーラム首脳会議では、老朽化した不発弾が「主権・人間の安全保障・環境・経済発展に対する多面的な脅威」として改めて取り上げられた。
生活を一変させた爆発事故
メイヴァリン・ピタノエさん(53歳)は、その脅威を身をもって知っている。4年前、教会の青年グループとともにホニアラで募金イベントを開いていた時のことだ。
「手作りの料理を販売するため、大きな穴を掘って地中オーブンを作り、火を焚いていました」と彼女は語る。数時間後、鍋でキャベツを茹でていたその瞬間、地中の爆弾が爆発した。
「鍋の両端を持っていた青年2人が坂を転げ落ち、脚を押さえてもがいていました。私は吹き飛ばされ、竜巻に巻き込まれたように体がねじれたのを覚えています。」2人の青年は1週間以内に死亡。妻子を残した者もいた。ピタノエさん自身も手の指を失い、脚や腹部などに重傷を負って約2か月入院した。
「事故で私も家族も人生が百八十度変わってしまいました。以前のように自由に外出できなくなり、海辺を歩くのも怖くなりました。」
太平洋戦争の遺物が今も地中に
不発弾とは、使用時に爆発しなかった爆発物を指す。地中や見えない場所に埋もれたまま数十年経っても、衝撃や圧力で突然爆発する危険性を秘めている。
ソロモン諸島は900を超える島々に約72万人が暮らすが、そのすべてが戦場になったわけではない。当時英国保護領だった同国は、1941年に太平洋に戦火が拡大すると戦略的に重要視され、真珠湾攻撃の翌年には日本軍と米英連合軍の激戦地となった。
主戦場となったのはガダルカナル島である。1943年の日本軍撤退まで、陸・海・空の各地で戦闘が続き、地元民も地形の知識を生かして連合軍を支援した。
今日では、放置された戦車や戦闘機、海底に沈む軍艦がダイビング観光資源にもなっているが、毎年のように古い弾薬が爆発し、命を奪っている。
不発弾除去の取り組み
2023年、政府は英慈善団体ハロ・トラスト(HALO Trust)と協力し、全国規模の調査とデータ収集を開始した。プログラム・マネージャーのエミリー・デイビス氏によれば、現在はガダルカナル島と北西部の西部州で、住民への聞き取りと歴史記録を照合しながら調査を進めている。
「これまでに3000点以上を確認しましたが、警察によってすでにその10倍以上が処理されています」とデイビス氏。2024年だけでも、王立ソロモン諸島警察の爆発物処理班は5400点を安全に除去し、ホニアラ市内の学校敷地からは大量の砲弾が発見された。
米国の資金支援を受ける同団体は、住民への安全教育にも力を入れている。西部州チームリーダーのピーター・ティーサナウ氏は「子どもたちが遊び半分で触ってしまうこともあり、学校教育が重要です」と語る。
ただし、都市部と違い、離島や山間部では処理作業が難航する。警察は道路や輸送手段が乏しい中で任務にあたっており、処理には長い時間がかかる。
被害者支援と意識啓発へ
ピタノエさんは事故前、ソロモン諸島国立大学の通信教育部門で働いていたが、遠隔地への出張が困難になり退職。「体がもう以前のように動かない」と話す。しかし彼女は絶望の中から希望を見いだした。「誰にもこんな経験をしてほしくない。だから自分の体験を伝え、警鐘を鳴らしたいのです。」
今年、彼女は被害者支援団体「ボム・フリー・ソロモン諸島」を設立した。20人の会員は皆、生活困難を抱えており、未亡人となって子どもの学費に苦しむ人や、障害を負って仕事を失った人もいる。
発展への影響と国際支援の要請
不発弾の存在は、国内開発にも深刻な影響を及ぼす。1998~2003年の内戦「テンションズ」から復興を進める同国にとって、汚染地域は農地利用を妨げ、食料安全保障や所得向上を阻む。老朽化した弾薬から漏れ出す重金属などが土壌や水系を汚染する恐れもある。
デイビス氏は「すべての不発弾を取り除くのは不可能です。規模があまりに大きい」と認めつつ、「危険を減らすことはできる」と語る。現在作成中のUXO地図は、将来のインフラ整備や地域開発の安全計画に役立つという。
不発弾処理には高度な専門技術と多額の資金が必要で、パプアニューギニアやパラオなど近隣諸国も同様の問題を抱えている。各国首脳は「この兵器は外部からもたらされたものであり、処理の責任も国際社会で分担すべきだ」と主張する。
6月、ソロモン諸島警察省のカスータバUXO局長は国連本部(ニューヨーク)で演説し、被害国への国際支援強化を訴えた。「力を合わせ、安全な地域社会を築き、環境を守り、次世代のためにより安心できる未来を創ろう。」と。(原文へ)
INPS Japan
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分析:中央アフリカの教会指導者たちは、国の生活水準を損なってきた深刻な汚職体質を公然と批判している。
【National Catholic Register/INPS Japanドゥアラ(カメルーン)=ヴィクトル・ガエタン】
豊かな資源を持ちながら、数十年にわたる政治の腐敗と不正管理によって貧困に陥ったカメルーンは、10月12日に大統領選挙を控えている。この国では、カトリック教会の指導者たちが、現体制に対する強力な批判者として台頭している。
92歳の現職大統領ポール・ビヤ氏は、中央アフリカの人口3,000万人の国で再選を目指している。国民の中央値年齢は19歳。ビヤ氏自身もカトリック信徒で、カテキスタ(教理教師)だった父を持つ。1975年に首相に就任して以来、すでに半世紀。1982年に大統領となってから今日まで、その座を保っている。もし国が良く統治されていれば問題はないだろう。だが、現実はそうではない。
カメルーン司教協議会(NECC)は1月、36人全司教の連名で公開書簡を発表し、「蔓延する汚職と公金横領が国家全体の生活水準を破壊している」と強く非難した。
しかし筆者が最大都市ドゥアラ(中央アフリカ最大の港湾都市)で目にしたのは、驚くほど活気に満ちた信仰共同体であった。預言者的リーダーシップ、活気ある小教区、そして多様なカトリックの霊性が息づいていた。
真実を語る教会
国際統計によれば、この20年間でカメルーンの経済成長は停滞しており、2022年時点で国民の4割が極度の貧困状態にあった。
「ヨハネ・パウロ2世(1985年、1995年)も、ベネディクト16世(2009年)も、安定した国としてカメルーンを訪問した。中央アフリカの中で、カメルーン教会は特に信仰が活発な国として重要な位置を占めています。」と、ドゥアラ大司教サミュエル・クレダ氏は語る。大統領ビヤ氏がカトリック信徒であることも、この関係性に影響を与えてきた。
だが、同国は本来持つ豊富な天然資源や人的資源を国民の幸福に結びつけることができていない。
クレダ大司教はフランス語でこう説明する。「我々は政府の統計―失業率、道路の荒廃、電力や飲料水の不足―をもとに現実を語っています。政府自身も国の悲惨な状況を理解しているはずです。それでも彼らは変わろうとしません。権力を失うのを恐れているのです。それこそが問題なのです。」
12人の候補者がビヤ大統領に挑む構図だが、全国的な知名度や組織力を持つ対抗馬は見当たらない。そこで教会が「空白」を埋める形となっている。
NECCは特定候補を支持することは避けたが、異例の試みとして「理想的な大統領像」を公表した―国民と向き合い、国を回り、正義と公益に献身する人物像である。クレダ大司教自身も8月に牧会書簡を出し、現体制への批判を表明した。
「私たちは権力に警鐘を鳴らし、良心に立ち返るよう呼びかけています。キリスト教的な意味で“回心”し、民のために奉仕してほしいのです。」と大司教は語る。
政権にこれほど公然と挑戦することは危険ではないのか?という問いに対し、66歳のクレダ大司教は静かに答えた。「叙階の日、私は殉教の覚悟を受け入れました。だから真実を語らなければなりません。イエスが当時の不正にどう向き合ったか―それが、私が今この国の不正に対して行動する理由です。私はイエス・キリストに従う者だからです。」
生きた信仰共同体
クレダ大司教は毎週日曜日、管轄する88の小教区のうちいずれかを訪問している。9月28日の目的地は「サン・マルク教会」2009年に彼が大司教に就任して以来、信徒数は倍増した。これまでに46の新しい教会とカトリック・セントジェローム大学を設立している。
到着すると、身長2メートル近い大司教を迎えたのは、踊り、香、赤ん坊、神学生、祝福と歌の渦だった。円形の礼拝堂とバルコニーには1,000人を超える信徒が集まり、ミサとともに90人の若者と成人が初聖体・堅信の秘跡を受けた。
説教では、ルカ福音書の「金持ちとラザロのたとえ」を取り上げ、こう語った。「富める者は心を閉ざしてしまう―富が現実を見えなくしてしまうのです。これが、今日のカメルーンの姿なのです。」
賛美歌はフランス語、英語、現地語、ラテン語で歌われ、太鼓、木琴、ひょうたんのシェーカーが加わり、喜びに満ちた礼拝となった。
ミサ後、信徒たちは感謝の意を込めて食料を奉納した。米袋、油缶、パイナップルの皿、青々としたバナナの房、鶏、4頭のヤギ、そして巨大な豚までが、祭壇前に捧げられた。
これらの物資は後に大司教区を通じて神学生や高齢者、貧困家庭に分配されるという。信頼できる指導者のもとで、共同体が富を分かち合う仕組みが実に見事に機能している。
さらにクレダ大司教は「薬草園」プロジェクトを推進し、そこではダチョウ、アヒル、ニワトリ、クジャクなどが薬効植物とともに育てられている。COVID-19が蔓延した際には、彼が開発した天然薬が注目を集めた。
多様なカリスマ
ドゥアラ滞在中、筆者は多くの修道者、宣教師、そして献身的な信徒たち、若者グループに出会った。
アウグスチノ修道女のオノリーヌ修道女(36歳)は、子どもたちのカテキズム(教理教育)を担当していた。「教皇がアウグスチノ会出身であることを、心から喜んでいます!」と微笑む。彼女の共同体にはコンゴ民主共和国出身の修道女もおり、カトリック初等学校の教育にあたっている。
少女たちは青いベール姿で「マリアの少年団(Cadets of Mary)」として活動し、「週末ごとにロザリオを祈っています。マリア様の足跡をたどりたいのです」と15歳のパトリシアさんは話す。
街の反対側では、聖霊修道会(スピリタン会)の修道士たちが礼拝堂とゲストハウスを運営している。彼らは1930年代からこの地で布教を始め、1932~1955年にかけて初代・二代の使徒代理を務めた。
アフリカのキリスト教
カメルーンは、かつてドイツ・フランス・英国の植民地支配を受けた。その遺産は現在も「英語圏危機」として、英語圏北西・南西州とフランス語圏中央政府の武力衝突に影を落としている。
ドゥアラ大司教区の事務局長セルジュ・エボア神父は、「信仰は植民地主義とは異なる」と語る。「アフリカの人々は、布教以前からすでに“信仰の民”でした。司祭や司教は、すでに信仰を持つ人々にカトリックの次元を加えただけなのです。だからこそ、福音の重要性をすぐに理解できた。アフリカの伝統宗教とカトリックは調和するのです。」
「カトリックの教育と価値観は、社会を健全に変革する力を持っています。平日の昼のミサでも大聖堂は満席です。人々は教会の意義を理解しているのです。」
しかし、彼は警鐘を鳴らす。「伝統宗教は少しずつ姿を消しています。一方、西欧からは“脱キリスト教化”の波がやって来ています。」
米国などから来た知識人の中には、「キリスト教が先住の信仰を奪った」として排除を主張する者もいるという。「だが、それは誤った考えです。イエス・キリストは私たちの人生に不可欠な存在です。もし教会が失われれば、世界は永遠の闇に沈むでしょう。」とエボア神父は断言した。
選挙を前に
10月7日、ビヤ大統領は選挙運動の初の公開集会を北部で行った。同地域は有権者の2割が住み、イスラム教徒が多数を占める。現在支持を伸ばしている主要2候補も、この地域出身のムスリムで、いずれも元政府閣僚だ。
クレダ大司教はこう語る。「教会としての願いは、不正のない、透明な選挙が行われることです。私たちの祈りは平和のためにあります。」
そして静かに付け加えた。「私たちは、もっと良い未来を願っています――本当に、もっと良い未来を。」(原文へ)
ビクトル・ガエタンは、国際問題を専門とするナショナル・カトリック・レジスターの上級特派員であり、バチカン通信、フォーリン・アフェアーズ誌、アメリカン・スペクテーター誌、ワシントン・エグザミナー誌にも執筆している。北米カトリック・プレス協会は、過去5年間で彼の記事に個人優秀賞を含む4つの最優秀賞を授与している。ガエタン氏はパリのソルボンヌ大学でオスマントルコ帝国とビザンチン帝国研究の学士号を取得し、フレッチャー・スクール・オブ・ロー・アンド・ディプロマシーで修士号を取得、タフツ大学で文学におけるイデオロギーの博士号を取得している。彼の著書『神の外交官:教皇フランシスコ、バチカン外交、そしてアメリカのハルマゲドン』は2021年7月にロウマン&リトルフィールド社から出版された。2024年4月、本記事の研究のためガエタン氏が初来日した際にINPS Japanの浅霧理事長が東京、長崎、京都に同行。INPS Japanではナショナル・カトリック・レジスター紙の許可を得て日本語版の配信を担当した(With permission...
東京で沈黙を破る―ドキュメンタリー『ジャラ』を通して核の傷と向き合うカザフ人映画監督
【東京INPS Japan=浅霧勝浩】
東京・戸田記念国際平和会館の上映室が静まり返る中、カザフスタンの映画監督で人権擁護活動家のエイゲリム・シチェノヴァ氏が黒いTシャツと緑のスカート姿で壇上に立ち、31分のドキュメンタリー作品『ジャラ ― 放射能の下の家父長制:カザフスタンの女性たち』を紹介した。この上映会は、「カザフ核フロントライン連合(ASQAQQNFC)」、創価学会平和委員会、ピースポートが共催、核兵器をなくす日本キャンペーンが後援して開催された。
この会館自体が、日本の平和運動の象徴的な存在である。ここは仏教団体・創価学会の戸田城聖第2代会長の名を冠している。1957年、戸田会長は5万人の青年の前で「原水爆禁止宣言」を発表し、以後、創価学会の平和・軍縮運動の道徳的支柱となった。|ENGLISH|ARABIC|HINDI|
女性たちの声を取り戻すために
「この映画は、長く沈黙を強いられてきた女性たちの声を可視化するために作りました。彼女たちは被害者ではなく、語り手であり、変革者です。」とシチェノヴァ氏は、外交官、記者、学生、平和活動家らが集う会場で語った。
『ジャラ(カザフ語で傷という意味)』というタイトルの通り、この映画は、ソ連時代の1949年から1989年の間に456回の核実験が行われたセミパラチンスク(現セメイ)の女性たちの物語を描く。
従来の作品が核実験の肉体的被害を映し出してきたのに対し、映画『ジャラ』は、見えない世代間の傷―烙印、心の痛み、そして母になることへの恐怖―を静かに問いかけている。
「多くの映画がセメイを“地球上で最も被爆した場所”として描いてきました。私は恐怖ではなく、レジリエンス(困難を乗り越える力)を描きたかった。自分たちの声で、自分たちの物語を取り戻すために。」と彼女は言う。
https://www.youtube.com/watch?v=dGY5aHjiyTc
沈黙を破るということ
シチェノヴァ氏にとって、この問題は屈辱的な経験から始まった。
カザフスタン最大の都市アルマトイの大学に入学した際、自己紹介で「セメイ出身」と言うと、同級生に「尻尾があるのか」とからかわれたという。
「その瞬間が今でも忘れられません。核兵器の被害は肉体的なものにとどまらず、偏見や沈黙という形でも今も生き続けているのだと痛感しました。」
この体験が、沈黙を破る映画を制作する原動力となった。
家父長制と核権力構造
映画『ジャラ』に登場する女性たちは、無力な被害者ではなく、地域社会で、差別や沈黙の文化に立ち向かう主体的な存在として描かれている。
「軍事化した社会では、核兵器は他を支配する力の象徴とされます。一方、平和や協調は“弱さ”、つまり“女性的”と見なされます。そうした思考こそ、私たちが変えていかなければならないのです。」とシチェノヴァ氏は語る。
彼女のフェミニズム的視点は、核兵器と家父長制の共通構造―支配と他者への力の行使―を結びつけて分析している。
カザフのステップから世界へ――連帯の旅路
放射線被曝の影響を受けた家系の三世代目として生まれたシチェノヴァ氏は、沈黙の中で耐え続けてきた人々の姿こそ、自らの活動の原点だという。
https://www.youtube.com/watch?v=yU_BqiynALs
2018年には、カザフ政府主催の「Youth for CTBTO/GEM国際青年会議」に参加。核保有国・非保有国・核依存国の若者たちとともに、専門家らと夜行列車でカザフスタンの首都アスタナからクルチャトフへ向かい、旧核実験場を視察した。(左のドキュメンタリー参照)
「初めて、(悲劇や試練を含む)自分たち民族の歴史を形作ってきた不毛の大地を目の当たりにしました。」と振り返る。
数年後、映画『ジャラ』の撮影で再びセミパラチンスク旧核実験場の爆心地に立ったとき、それは彼女にとって、沈黙を抱えた記憶への静かな抵抗でもあった。
彼女は、トグジャン・カッセノワの『Atomic Steppe』や、レイ・アチソンの『Banning the Bomb,...