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関税と混乱――トランプ貿易戦争がもたらした持続的な世界的影響
【メルボルンLondon Post=マジッド・カーン】
2025年4月、ドナルド・トランプ米大統領は、代表的な保護主義的貿易政策を再燃させ、第一次政権時に始まった貿易戦争をさらに激化させた。中国、欧州連合(EU)、カナダやメキシコなどの主要経済圏からの輸入品に対し、広範な関税を課すことで、米国の経済的利益を優先した国際貿易の再構築を目指している。政権はこの政策を米国の製造業再生、貿易不均衡の是正、知的財産の窃取や技術移転の強要といった「不公正な慣行」への対抗と位置づけたが、経済的影響はより複雑かつ広範に及んでいる。
トランプの関税政策は、2017年~21年の第一次政権時に施行された貿易戦争政策の延長線上にある。2018年には国家安全保障を名目に鉄鋼に25%、アルミニウムに10%の関税を課す「セクション232」関税が導入された。また、貿易法301条に基づき、中国からの約3700億ドル相当の輸入品に懲罰的関税が課され、米中間の貿易緊張はかつてないほどに高まった。これらに加え、北米自由貿易協定(NAFTA)は再交渉され、より厳格な労働・自動車生産ルールを盛り込んだ「米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」が締結された。
こうした政策は米国の産業保護を掲げたが、経済データはより複雑な現実を示している。ペン・ウォートン予算モデルによれば、これらの関税は米GDPを長期的に6%、賃金を5%減少させるとされており、中所得層の世帯では生涯収入で最大22000ドルの損失となる可能性がある。また、ワシントン D.C. に拠点を置く国際的な研究シンクタンクタックス・ファウンデーションの報告では、これらの関税は「隠れた税」として機能し、2025年には米世帯あたり平均1300ドルの追加支出を強いることになると予測している。
このコストはサプライチェーン全体に影響を与え、消費者物価を押し上げている。電子機器や車両、食料品に至るまで、物価上昇により米世帯は年平均3800ドルの支出増が見込まれている。関税実施前の駆け込み需要によって一時的に小売売上高が伸びたが、持続的なインフレ圧力の前には影響は限定的と見なされている。
米国の金融市場への影響も深刻である。S&P500はピークから10%以上下落し調整局面に入り、ナスダックも2022年以来最も弱いパフォーマンスを記録した。企業収益の低下、サプライチェーンの混乱、景気後退への懸念が投資家心理を冷え込ませている。『タイム』誌は、こうした市場の動揺が米国の経済リーダーシップへの信頼低下を映し出していると指摘している。
国際的な反発も激しく、欧州連合(EU)、カナダ、メキシコ、日本などは米国の一方的な措置を批判し、報復関税を実施または検討している。EUは米国産バイクやバーボンなどに32億ドル相当の関税を課し、カナダやメキシコも農業・工業製品を標的に対抗措置を取った。世界貿易機関(WTO)は、こうした報復の連鎖が世界貿易量を2025年に0.2%減少させると予測しており、自由貿易が維持されていれば見込まれた3%成長との差は明らかである。
とりわけ中国は今回の貿易戦争の中心にある。電子機器や鉄鋼、消費財に最大145%の関税が課されており、中国政府は対抗措置を宣言するとともに、EUやASEAN諸国との貿易関係強化に動いている。さらに、半導体やAI、再生可能エネルギーといった戦略分野で自立を目指す「双循環戦略」を推進中である。米中対立の激化により、アップルやサムスンなど多国籍企業が製造拠点をベトナムやインドに移転するなど、サプライチェーンの再編が加速している。
欧州もこの余波に巻き込まれ、米国との間で続くボーイング・エアバスの補助金問題など、長年の貿易紛争が再燃している。アジアの同盟国である日本と韓国も戦略の見直しを迫られており、日本の自動車メーカーは関税回避のため米国内での生産を拡大し、韓国は貿易協定の再交渉を進めた。
一方で、新興国の中には恩恵を受ける国もある。ベトナムは米国向け輸出を30%増加させ、2023年にはメキシコが中国を抜いてアメリカ最大の貿易相手国となった。これは製造業の回帰と、USMCAによる北米供給網の深化によるものである。
米国の農業分野への打撃も深刻である。中国による報復関税により特に大豆農家が大きな打撃を受けた。2018年には中国向け大豆輸出が75%減少し、77億ドルの損失が発生。これにより米政府は280億ドルの補助金を支給したが、その規模は政策の影響の大きさを物語っている。
バイデン政権下でもトランプ時代の関税の多くは継続されており、特に3000億ドル以上の中国製品への関税は維持されている。ただし、バイデン政権は「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」などを通じて多国間協調に軸足を移し、CHIPS法などの国内産業育成策を進め、半導体などの戦略産業での自立を図っている。
今後を見据えると、こうした保護主義政策の長期的影響はますます明らかになりつつある。一部産業への一時的な保護効果はあるものの、消費者、企業、国際関係への負担は大きく、インフレ圧力や同盟関係の損傷、グローバル機関の弱体化といった深刻な副作用を伴っている。その一方で、中国やベトナム、メキシコなどの国々は変化に柔軟に対応し、新たな機会を捉えている。
政権を超えて続くこれらの政策は、経済ナショナリズムと戦略的競争がもはや党派を超えた米国の通商政策の柱であることを示している。今後の国際経済秩序の中で、米国が安定性を取り戻し、成長を促進し、世界貿易におけるリーダーシップを回復するには、国家利益と国際協調のバランスを取る巧みな外交が不可欠である。(原文へ)
INPS Japan/London Times
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小規模農家は「受益者」ではなくより良い未来を創るパートナーだ
【ナイロビIPS=ナウリーン・ホセイン】
エリウド・ルグットさんは何世代にもわたる農家の家系に生まれたが、家族は彼が家を出て別の職業に就くことを期待していた。彼は経済学を学び、ビジネスやマーケティングの仕事に就いたが、COVID-19パンデミックで職を失い、実家に戻ることになった。そして彼は、家族の農場の生産性を立て直したいと考えた。
粟、ソルガム、トウモロコシなどを育てていた農場は、長年で生産量が60%も減少していた。これは家族にとって深刻な打撃であり、その原因の一部は気候変動による土壌劣化や害虫被害にあった。また、両親が同じ種と農法を何年も変えずに使い続けていたことも一因だった。
「母は新しいアイデアに前向きでした」とルグットさんは語る。母の後押しで、父から1エーカーの土地を借りることができた。父は当初、収入源が減ることを理由に強く反対したが、最終的には認めた。ケニアのルグットさんの地域のように、男性が土地の所有や使用において大きな権限を持つ社会では異例のことだった。
この1エーカーの土地で、ルグットさんは温室を建て、自身の農法や技術、新しい種を導入した。ピーマン、在来野菜、果物など、家族が育てていた穀物とは異なる季節に育つ作物を栽培したところ、大きな成果を上げ、収益も大幅に増加した。父は最初その結果が信じられず、夜中に何度も温室の周りを歩いて確認したという。
また、ルグットさんは父のためにYouTubeの農業動画を見せ、他の農家の事例を共有することで父の意識も徐々に変わっていった。
ルグットさんはこうした経験を活かし、現在は小規模農家向けにスマート技術を搭載したサイロを製造・販売する「Silo Africa」の共同創業者として活躍している。これは家族の農場で害虫やコクゾウムシによる被害を防ぐための工夫が原点となっている。現在はケニア国内だけでなく、アフリカ全土への展開を目指している。
2022年、ルグットさんは潘基文世界市民センター(BKMC)の「ユース・アグリ・チャンピオンズ・プログラム」に参加し、それが人生の転機となったという。食と農業に関する気候対策やインパクトの拡大について学ぶ中で、仲間たちと土地所有の問題や農業実践について共通の課題を共有し、ベストプラクティスを分かち合った。
最も重要だったのは、BKMCが「自分たちの声を届ける場を与えてくれたこと」だとルグットさんは語る。「私たち若者には、声を上げる機会がこれまでなかったのです」と。
彼はCOP28などの国際会議にも参加し、世界の指導者や学者、政策立案者たちと同じ舞台で意見を述べることができた。初めは緊張したが、若い農業者も「自分たちの課題を伝えることができる」と知った。そして、その視点には重みがあると確信した。
小規模農家についての誤解を払拭できたことも嬉しかったという。農家は「学ぶ意欲がある」。気候変動の影響を受けながらも、既に適応の努力を重ねている。ただし、必要なのは「情報へのアクセス」であり、研究者たちにはその情報を現場に届く形で「翻訳」してほしいと訴える。
毎年、ユース・アグリ・チャンピオンズは国連気候変動会議で「要求文書(デマンドペーパー)」を提出し、気候資金の増加、能力開発、気候スマート技術へのアクセス拡大を求めている。「この文書が、そして私たちの代弁者が、私たちの声となってくれている。」とルグットさんは語った。
ただし、国連気候変動会議や国際農業研究機関(CGIAR)の科学週間などの場でも、農業の研究や支援を行う団体の関与はあるものの、当事者である農家──「受益者」と呼ばれる人々の参加はまだ少ない。発表される研究や解決策は、技術的な専門用語で語られ、一般の農家には届きにくいとルグットさんは指摘する。
「研究者、科学者、ドナーにしかわからない言葉で語られている。」と彼は言う。「だが、技術を必要とする当事者──“受益者”と呼ばれている人々──は、その場にいない。十分とは言えないが、これが私たちの出発点だ。」
「若者として、小規模農家として、私たちは『受益者』として見られがちです。しかし、私たちは単なる受益者ではなく、『より良い未来を創るパートナー(共に変革を担うパートナー)』です。私たちは非常に革新的であり、この業界のさまざまな関係者と対等な立場で協力し、農業をより良くしたいと考えています。」
農家を「解決策を待つ存在」と見なすのは危険だ。なぜなら、実際には現場の農家こそが日々革新し、貢献しているからだ。厳しい環境下で食料不安と向き合う彼らは、課題に最前線で取り組んでいる。
ルグットさんは、若い農家たちは食料安全保障をめぐる進歩と革新の担い手だと強調する。そのためには、政府、金融機関、農業関連のNGOなどのさらなる支援が必要だと語る。「大きなオフィスで働いている人たちは、毎日3食食べている。その3食を保証しているのは私たちだ。―それでも私たちは“受益者”なのだろうか? それとも変革の“担い手”なのか?」(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN BUREAU REPORT
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外交官としてのフランシスコ教皇──その個人的な出会いは世界へと広がった
【ワシントンDC/RNS=ヴィクトル・ガエタン】
歴代教皇の中でも最多の外遊を重ねた一人となったフランシスコ教皇は、かつては旅行を避け、週末にスラム街を訪れる程度だったことで知られていた。しかし彼は、常に予想を覆す存在だった。
2013年3月にアルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオがフランシスコ教皇として即位したとき、世界的な外交手腕を発揮するとは多くの人が予想していなかった。ブエノスアイレス大司教として、彼は外国への渡航を避けていた。なぜなら教区(スペイン語で「mi esposa(私の妻)」と呼んでいた)を離れることを好まなかったからだ。公共交通機関を利用し、週末には地元のスラム街に足を運ぶことを選んだ彼は、やがて世界を巡る教皇となった。
彼は「周縁(ペリフェリーア)」──ローマや欧米の権力の中心地から遠く離れた地域──を優先し、欧州にありながら普遍的な視点を持つ独立した存在としてバチカンの姿を回復させた。あまりに独立した彼の姿勢に、西側の諜報機関は警戒し、教皇選出前から監視し、中傷キャンペーンを展開したほどだった。
フランシスコの外交は、しばしば言語の壁を超えた象徴的なジェスチャーによって伝えられ、信仰を越えた国境をまたぐ新たな関係を築いた。
彼は外交的孤立政策に従うことも拒んだ。東西冷戦の緊張が再燃する中でも、フランシスコはロシア正教会のキリル総主教に「どこでも会いましょう」と申し出た。この願いは2016年、ハバナの空港で2人が歴史的な初会談を果たすことで実現した。会談は中東とアフリカにおけるキリスト教徒の虐殺に立ち向かう共通の努力によって実現された。
ロシアのウクライナ侵攻後も、フランシスコはキリルやロシアへの直接的批判を避け、「キリスト者同士の兄弟殺しの暴力」と表現した。NATOの「ロシアの扉を叩くような行動」が侵攻の一因になったとの発言により批判も受けた。
外交の土台は、前任のベネディクト16世とは異なり、彼のアルゼンチン時代の経験にある。36歳という若さでイエズス会アルゼンチン管区の責任者に任命され、1974~83年の「汚い戦争」時代には、反体制派の人々をかくまい、国外へ逃がした経験を持つ。
この経験により、彼は人間の尊厳を重視し、イデオロギーへの不信感を持つようになった。そして、政治家ではなく牧者として人々に寄り添う姿勢を貫いた。
2007年、ブラジル・アパレシーダで開催された中南米司教会議では、ベルゴリオ枢機卿が最終文書を編集。「福音の宣教者としての弟子たれ」と呼びかけたこの文書は、彼の教皇職の設計図とされる。
イエズス会士として初の教皇となったベルゴリオは、教会を「快適圏」から連れ出す運命にあった。教皇最初の使徒的勧告『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』では「周縁に出向くように」と信徒に呼びかけた。
教皇名「フランシスコ」の由来となったアッシジの聖フランシスコもまた外交官だった。1219年、聖地でイスラムのスルタン、マレク・アル・カミルと会談した逸話は有名である。
2014年、イタリア国外で最初に訪問した欧州の国はアルバニア。最大宗教がイスラム教のこの国を選んだのは、宗教間の調和を示すためだった。
イスラム世界への働きかけは、単なる対話以上の意味を持っていた。宗教を通じて平和を築こうとする意志だった。ベネディクト16世の発言が原因で2011年に断絶していたアズハル大学のアフマド・タイーブ総長との関係も、2015年の謝罪特使派遣、16年のバチカン招待、17年のカイロ訪問を経て修復された。
そして2019年、アラブ首長国連邦(UAE)アブダビにおいて「人類の友愛に関する文書」に共同署名。宗教の名を利用した暴力と過激主義に対抗する協力を宣言した。
その流れの中で、2020年の回勅『フラテッリ・トゥッティ(すべての兄弟たち)』が生まれ、教皇はバーレーン、バングラデシュ、イラク、ヨルダン、モロッコ、オマーン、UAEなどのイスラム諸国とも関係を深めた。
2021年、教皇はイラクの聖地ナジャフでシーア派の最高権威アリー・シスターニ師と会談。細い路地を歩いて訪問し、米国による「占領者」としての面会を拒んできた同師と誠実な対話を実現した。
2019年には南スーダンのキリスト教徒である大統領と副大統領3人をバチカンに招き、内戦後の和解を促す黙想会を開いた。そして会議後、彼らの足元にひざまずき、一人ひとりの足に口づけするという驚くべき謙遜の行動をとった。
2014年のベツレヘム訪問では、イスラエルの分離壁の前でポープモービルを降り、赤い「フリーパレスチナ」の落書きの上に手を当て祈りを捧げるという、全世界に中継された象徴的な行為もあった。イスラエル・ハマス戦争後には、ガザ唯一のカトリック教会へ毎晩電話をかけ続け、最後の電話は4月19日、彼の死の2日前だった。
外交は通常、秘密裏に行われるが、フランシスコはその実践を広く開かれたものとした。経済的・軍事的利害から自由なバチカンは、万人の共通善を追求できる存在として、政争に巻き込まれることなく行動した。教皇フランシスコは『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』の中で、外交団や信徒に向けて、世界との関わりにおいて指針となる4つの原則を示している。各原則がどのように実践されたかを簡単に見ることで、それらの意味がより具体的になる。
第一に、「時は空間に勝る」。教会は、神の働きは歴史の中に現れると信じているため、キリスト者の務めは結果を操作しようとするのではなく、善いプロセスを始めることにある。やがて時が経つにつれて、前向きな結果が現れるのだ。
その精神に基づき、フランシスコ教皇の外交チームは、1980年代から交渉が続いていた「司教任命に関する中国との合意」にこぎつけた。米国のマイク・ポンペオ国務長官などから批判を受けたものの、この合意は、使徒たちにまでさかのぼる司教職の継承を維持するという、カトリックの秘跡の一貫性にとって極めて重要な要素を守った。また、中国国内で並立していた「公認教会」と「地下教会」という2つの教会構造の分断を癒す第一歩にもなった。この合意により、これまでに11人の司教が共同任命されている。
次に、「現実は観念に勝る」という原則がある。この考えは、2014年にバチカンが仲介した米国とキューバの国交正常化において明確に示された。両国間には深い不信感があったが、ローマは保証人として介入した。フランシスコにとって、過去のイデオロギー論争は、キューバとアメリカ双方の人々の最善の利益には関係のないものだった。
第三に、「一致は対立に勝る」という原則がある。2016年、コロンビアの和平交渉が決裂寸前となった際、当時の現職大統領と前大統領の対立が一因だった。フランシスコ教皇は両者をローマに招き、2人のカトリック信徒の助けも得て、霊的権威による説得を試みた。その6か月後、コロンビア政府と主要な反政府組織FARCは和平協定に署名。教皇は約束通り、その3か月後に現地を訪問した。こうして「一致」が確認された。
最後に、「全体は部分の総和よりも大きい」という原則がある。ウクライナにおける教皇の外交努力は、主に西側諸国が対話を放棄したことで挫折を重ねた。教皇は、キリスト教全体が神聖なものであることを伝えようとし、争う派閥間でも平和が見出されるべきだと訴え続けたが、その在位中、情勢は対立へと向かっていた。それでも教皇は、すべての人々への人道支援を継続した。
そして、モスクワとワシントンという主要な当事国が外交によって戦争の終結に再び乗り出したとき、フランシスコ教皇の姿勢は正しかったことが証明された。(原文へ)
(ヴィクター・ガエタン氏は『ナショナル・カトリック・レジスター』の上級特派員であり、2021年刊行の著書『God’s Diplomats: Pope Francis, Vatican Diplomacy,...
フランス、英国・米国と一線を画し、パレスチナ国家承認へ
【国連IPS=タリフ・ディーン】
国連の中でも最も強力な政治機関である安全保障理事会の常任理事国(拒否権保有国)の一つであるフランスは、他の西側常任理事国である米国・英国と立場を分かち、パレスチナを国家として承認する方針を示している。
フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、今後数か月以内にパレスチナ国家を承認する意向を示し、6月にニューヨークで開催予定の国連会議に合わせてそれを実現する可能性に言及したと報じられている。
現在、国連加盟193か国のうち、147か国がパレスチナを主権国家として承認しており、その多くはアフリカ、アジア、中南米、中東諸国である。一方、米国、英国、フランス、ドイツ、日本などの主要西側諸国は依然として承認していない。
パレスチナは2012年11月以来、国連総会における「オブザーバー国家」の地位を有しているが、正式な国連加盟は米国による拒否権により阻まれてきた。
米国は長年、パレスチナの一方的な国家承認に反対しており、フランスの動きがあったとしても、その立場を変える可能性は極めて低い。
4月10日、米国務省のタミー・ブルース報道官は記者団に対し、「フランス政府の発言については承知しており、詳細はフランスに問い合わせてほしい」と述べた上で、「米国はイスラエルと共に、人質全員の解放とハマスの打倒を目指している。」と強調した。
さらに、米国の特使ウィトコフ氏の言葉として、「現在進行中の議論を見てほしい。」「私たちは今、ガザにとって何が最善か、人々の生活をどう改善できるかについて、実りある対話を行っている。この政権は、ガザに平和をもたらし、人質全員(その中にはエダン・アレクサンダーを含む5人の米国人も含まれる)の解放を確保するため、地域のパートナーと引き続き真剣に協力していくつもりだ。」と語った。
一方、サンフランシスコ大学の政治学教授スティーブン・ズネス氏は、「パレスチナ国家承認に関する質問に対して、ハマスの名前を持ち出すのは奇妙だ」と指摘。ハマスはパレスチナ自治政府(PA)とは異なる武装勢力であり、10月7日の攻撃とも無関係であるとした。また、アブラハム合意を強調することは、イスラエルの占領終結やパレスチナ国家樹立と引き換えにイスラエルを承認してきたアラブ諸国の従来の立場と対立するものだと批判した。
ズネス氏はさらに、トランプ政権とバイデン政権の間にこの問題に関する本質的な違いはないと述べ、2024年には米国がパレスチナの国連加盟を支持する安保理決議を拒否権で阻止したことを挙げた。米国はまた、「パレスチナは国家ではない」として、国際刑事裁判所(ICC)がガザやパレスチナにおける戦争犯罪を裁く権限を持たないと主張した。
ジャダリーヤ誌共同編集者ムーイン・ラバニ氏は、フランスがサウジアラビアと共催する6月の国連会議でパレスチナを承認する可能性があるが、実際に実行するかは不透明だと述べた。マクロン大統領の発言は一貫性に欠け、イスラエルの中東諸国による承認やパレスチナ政治からのハマス排除など、非現実的な条件を付けていると指摘した。
ラバニ氏は、「パレスチナ国家承認を掲げながら、実際にはイスラエル国家のみを認め、50年以上続くイスラエルの占領政策に何の制裁も課してこなかったフランスの姿勢は、説得力に欠ける。」と述べた。
さらに、マクロン大統領が戦争犯罪で起訴されているイスラエルのネタニヤフ首相の米国渡航のためにフランス領空を開放したことに触れつつ、そのネタニヤフ首相と息子ヤイル氏がマクロン氏をヴィシー政権のペタン元帥に例え、「くたばれ」と罵倒したことについて、「パリでは依然としてイスラエルが無条件に免責されている。」と批判した。
また、『パレスチナ・クロニクル』編集長のラマジー・バロウド博士は、フランスによる国家承認は興味深い動きである一方で、現在の状況ではその意義は限定的だと語った。「ガザでの壊滅的な戦争犯罪が17か月以上続き、西側諸国がそれを支持した今となっては、このような承認は象徴的、あるいは機会主義的とすら見える可能性がある。」と述べた。
バロウド氏は、2024年にノルウェー、スペイン、アイルランドがパレスチナを承認したことはパレスチナ人にとって精神的な励ましにはなったが、実際の状況改善や米・イスラエルの政策転換にはつながらなかったと指摘した。
さらに、フランス政府が本気で「パレスチナ支持」に転じるのであれば、フランス国内でパレスチナ連帯運動に取り組む市民活動家が自由に活動できる環境を保障すべきだと述べた。「現在の承認の動きは、過去と現在の対パレスチナ政策から目を逸らすための政治的操作と受け取られかねない。」と警鐘を鳴らしている。(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN BUREAU REPORT
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