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小規模農家は「受益者」ではなくより良い未来を創るパートナーだ
【ナイロビIPS=ナウリーン・ホセイン】
エリウド・ルグットさんは何世代にもわたる農家の家系に生まれたが、家族は彼が家を出て別の職業に就くことを期待していた。彼は経済学を学び、ビジネスやマーケティングの仕事に就いたが、COVID-19パンデミックで職を失い、実家に戻ることになった。そして彼は、家族の農場の生産性を立て直したいと考えた。
粟、ソルガム、トウモロコシなどを育てていた農場は、長年で生産量が60%も減少していた。これは家族にとって深刻な打撃であり、その原因の一部は気候変動による土壌劣化や害虫被害にあった。また、両親が同じ種と農法を何年も変えずに使い続けていたことも一因だった。
「母は新しいアイデアに前向きでした」とルグットさんは語る。母の後押しで、父から1エーカーの土地を借りることができた。父は当初、収入源が減ることを理由に強く反対したが、最終的には認めた。ケニアのルグットさんの地域のように、男性が土地の所有や使用において大きな権限を持つ社会では異例のことだった。
この1エーカーの土地で、ルグットさんは温室を建て、自身の農法や技術、新しい種を導入した。ピーマン、在来野菜、果物など、家族が育てていた穀物とは異なる季節に育つ作物を栽培したところ、大きな成果を上げ、収益も大幅に増加した。父は最初その結果が信じられず、夜中に何度も温室の周りを歩いて確認したという。
また、ルグットさんは父のためにYouTubeの農業動画を見せ、他の農家の事例を共有することで父の意識も徐々に変わっていった。
ルグットさんはこうした経験を活かし、現在は小規模農家向けにスマート技術を搭載したサイロを製造・販売する「Silo Africa」の共同創業者として活躍している。これは家族の農場で害虫やコクゾウムシによる被害を防ぐための工夫が原点となっている。現在はケニア国内だけでなく、アフリカ全土への展開を目指している。
2022年、ルグットさんは潘基文世界市民センター(BKMC)の「ユース・アグリ・チャンピオンズ・プログラム」に参加し、それが人生の転機となったという。食と農業に関する気候対策やインパクトの拡大について学ぶ中で、仲間たちと土地所有の問題や農業実践について共通の課題を共有し、ベストプラクティスを分かち合った。
最も重要だったのは、BKMCが「自分たちの声を届ける場を与えてくれたこと」だとルグットさんは語る。「私たち若者には、声を上げる機会がこれまでなかったのです」と。
彼はCOP28などの国際会議にも参加し、世界の指導者や学者、政策立案者たちと同じ舞台で意見を述べることができた。初めは緊張したが、若い農業者も「自分たちの課題を伝えることができる」と知った。そして、その視点には重みがあると確信した。
小規模農家についての誤解を払拭できたことも嬉しかったという。農家は「学ぶ意欲がある」。気候変動の影響を受けながらも、既に適応の努力を重ねている。ただし、必要なのは「情報へのアクセス」であり、研究者たちにはその情報を現場に届く形で「翻訳」してほしいと訴える。
毎年、ユース・アグリ・チャンピオンズは国連気候変動会議で「要求文書(デマンドペーパー)」を提出し、気候資金の増加、能力開発、気候スマート技術へのアクセス拡大を求めている。「この文書が、そして私たちの代弁者が、私たちの声となってくれている。」とルグットさんは語った。
ただし、国連気候変動会議や国際農業研究機関(CGIAR)の科学週間などの場でも、農業の研究や支援を行う団体の関与はあるものの、当事者である農家──「受益者」と呼ばれる人々の参加はまだ少ない。発表される研究や解決策は、技術的な専門用語で語られ、一般の農家には届きにくいとルグットさんは指摘する。
「研究者、科学者、ドナーにしかわからない言葉で語られている。」と彼は言う。「だが、技術を必要とする当事者──“受益者”と呼ばれている人々──は、その場にいない。十分とは言えないが、これが私たちの出発点だ。」
「若者として、小規模農家として、私たちは『受益者』として見られがちです。しかし、私たちは単なる受益者ではなく、『より良い未来を創るパートナー(共に変革を担うパートナー)』です。私たちは非常に革新的であり、この業界のさまざまな関係者と対等な立場で協力し、農業をより良くしたいと考えています。」
農家を「解決策を待つ存在」と見なすのは危険だ。なぜなら、実際には現場の農家こそが日々革新し、貢献しているからだ。厳しい環境下で食料不安と向き合う彼らは、課題に最前線で取り組んでいる。
ルグットさんは、若い農家たちは食料安全保障をめぐる進歩と革新の担い手だと強調する。そのためには、政府、金融機関、農業関連のNGOなどのさらなる支援が必要だと語る。「大きなオフィスで働いている人たちは、毎日3食食べている。その3食を保証しているのは私たちだ。―それでも私たちは“受益者”なのだろうか? それとも変革の“担い手”なのか?」(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN BUREAU REPORT
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外交官としてのフランシスコ教皇──その個人的な出会いは世界へと広がった
【ワシントンDC/RNS=ヴィクトル・ガエタン】
歴代教皇の中でも最多の外遊を重ねた一人となったフランシスコ教皇は、かつては旅行を避け、週末にスラム街を訪れる程度だったことで知られていた。しかし彼は、常に予想を覆す存在だった。
2013年3月にアルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオがフランシスコ教皇として即位したとき、世界的な外交手腕を発揮するとは多くの人が予想していなかった。ブエノスアイレス大司教として、彼は外国への渡航を避けていた。なぜなら教区(スペイン語で「mi esposa(私の妻)」と呼んでいた)を離れることを好まなかったからだ。公共交通機関を利用し、週末には地元のスラム街に足を運ぶことを選んだ彼は、やがて世界を巡る教皇となった。
彼は「周縁(ペリフェリーア)」──ローマや欧米の権力の中心地から遠く離れた地域──を優先し、欧州にありながら普遍的な視点を持つ独立した存在としてバチカンの姿を回復させた。あまりに独立した彼の姿勢に、西側の諜報機関は警戒し、教皇選出前から監視し、中傷キャンペーンを展開したほどだった。
フランシスコの外交は、しばしば言語の壁を超えた象徴的なジェスチャーによって伝えられ、信仰を越えた国境をまたぐ新たな関係を築いた。
彼は外交的孤立政策に従うことも拒んだ。東西冷戦の緊張が再燃する中でも、フランシスコはロシア正教会のキリル総主教に「どこでも会いましょう」と申し出た。この願いは2016年、ハバナの空港で2人が歴史的な初会談を果たすことで実現した。会談は中東とアフリカにおけるキリスト教徒の虐殺に立ち向かう共通の努力によって実現された。
ロシアのウクライナ侵攻後も、フランシスコはキリルやロシアへの直接的批判を避け、「キリスト者同士の兄弟殺しの暴力」と表現した。NATOの「ロシアの扉を叩くような行動」が侵攻の一因になったとの発言により批判も受けた。
外交の土台は、前任のベネディクト16世とは異なり、彼のアルゼンチン時代の経験にある。36歳という若さでイエズス会アルゼンチン管区の責任者に任命され、1974~83年の「汚い戦争」時代には、反体制派の人々をかくまい、国外へ逃がした経験を持つ。
この経験により、彼は人間の尊厳を重視し、イデオロギーへの不信感を持つようになった。そして、政治家ではなく牧者として人々に寄り添う姿勢を貫いた。
2007年、ブラジル・アパレシーダで開催された中南米司教会議では、ベルゴリオ枢機卿が最終文書を編集。「福音の宣教者としての弟子たれ」と呼びかけたこの文書は、彼の教皇職の設計図とされる。
イエズス会士として初の教皇となったベルゴリオは、教会を「快適圏」から連れ出す運命にあった。教皇最初の使徒的勧告『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』では「周縁に出向くように」と信徒に呼びかけた。
教皇名「フランシスコ」の由来となったアッシジの聖フランシスコもまた外交官だった。1219年、聖地でイスラムのスルタン、マレク・アル・カミルと会談した逸話は有名である。
2014年、イタリア国外で最初に訪問した欧州の国はアルバニア。最大宗教がイスラム教のこの国を選んだのは、宗教間の調和を示すためだった。
イスラム世界への働きかけは、単なる対話以上の意味を持っていた。宗教を通じて平和を築こうとする意志だった。ベネディクト16世の発言が原因で2011年に断絶していたアズハル大学のアフマド・タイーブ総長との関係も、2015年の謝罪特使派遣、16年のバチカン招待、17年のカイロ訪問を経て修復された。
そして2019年、アラブ首長国連邦(UAE)アブダビにおいて「人類の友愛に関する文書」に共同署名。宗教の名を利用した暴力と過激主義に対抗する協力を宣言した。
その流れの中で、2020年の回勅『フラテッリ・トゥッティ(すべての兄弟たち)』が生まれ、教皇はバーレーン、バングラデシュ、イラク、ヨルダン、モロッコ、オマーン、UAEなどのイスラム諸国とも関係を深めた。
2021年、教皇はイラクの聖地ナジャフでシーア派の最高権威アリー・シスターニ師と会談。細い路地を歩いて訪問し、米国による「占領者」としての面会を拒んできた同師と誠実な対話を実現した。
2019年には南スーダンのキリスト教徒である大統領と副大統領3人をバチカンに招き、内戦後の和解を促す黙想会を開いた。そして会議後、彼らの足元にひざまずき、一人ひとりの足に口づけするという驚くべき謙遜の行動をとった。
2014年のベツレヘム訪問では、イスラエルの分離壁の前でポープモービルを降り、赤い「フリーパレスチナ」の落書きの上に手を当て祈りを捧げるという、全世界に中継された象徴的な行為もあった。イスラエル・ハマス戦争後には、ガザ唯一のカトリック教会へ毎晩電話をかけ続け、最後の電話は4月19日、彼の死の2日前だった。
外交は通常、秘密裏に行われるが、フランシスコはその実践を広く開かれたものとした。経済的・軍事的利害から自由なバチカンは、万人の共通善を追求できる存在として、政争に巻き込まれることなく行動した。教皇フランシスコは『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』の中で、外交団や信徒に向けて、世界との関わりにおいて指針となる4つの原則を示している。各原則がどのように実践されたかを簡単に見ることで、それらの意味がより具体的になる。
第一に、「時は空間に勝る」。教会は、神の働きは歴史の中に現れると信じているため、キリスト者の務めは結果を操作しようとするのではなく、善いプロセスを始めることにある。やがて時が経つにつれて、前向きな結果が現れるのだ。
その精神に基づき、フランシスコ教皇の外交チームは、1980年代から交渉が続いていた「司教任命に関する中国との合意」にこぎつけた。米国のマイク・ポンペオ国務長官などから批判を受けたものの、この合意は、使徒たちにまでさかのぼる司教職の継承を維持するという、カトリックの秘跡の一貫性にとって極めて重要な要素を守った。また、中国国内で並立していた「公認教会」と「地下教会」という2つの教会構造の分断を癒す第一歩にもなった。この合意により、これまでに11人の司教が共同任命されている。
次に、「現実は観念に勝る」という原則がある。この考えは、2014年にバチカンが仲介した米国とキューバの国交正常化において明確に示された。両国間には深い不信感があったが、ローマは保証人として介入した。フランシスコにとって、過去のイデオロギー論争は、キューバとアメリカ双方の人々の最善の利益には関係のないものだった。
第三に、「一致は対立に勝る」という原則がある。2016年、コロンビアの和平交渉が決裂寸前となった際、当時の現職大統領と前大統領の対立が一因だった。フランシスコ教皇は両者をローマに招き、2人のカトリック信徒の助けも得て、霊的権威による説得を試みた。その6か月後、コロンビア政府と主要な反政府組織FARCは和平協定に署名。教皇は約束通り、その3か月後に現地を訪問した。こうして「一致」が確認された。
最後に、「全体は部分の総和よりも大きい」という原則がある。ウクライナにおける教皇の外交努力は、主に西側諸国が対話を放棄したことで挫折を重ねた。教皇は、キリスト教全体が神聖なものであることを伝えようとし、争う派閥間でも平和が見出されるべきだと訴え続けたが、その在位中、情勢は対立へと向かっていた。それでも教皇は、すべての人々への人道支援を継続した。
そして、モスクワとワシントンという主要な当事国が外交によって戦争の終結に再び乗り出したとき、フランシスコ教皇の姿勢は正しかったことが証明された。(原文へ)
(ヴィクター・ガエタン氏は『ナショナル・カトリック・レジスター』の上級特派員であり、2021年刊行の著書『God’s Diplomats: Pope Francis, Vatican Diplomacy,...
フランス、英国・米国と一線を画し、パレスチナ国家承認へ
【国連IPS=タリフ・ディーン】
国連の中でも最も強力な政治機関である安全保障理事会の常任理事国(拒否権保有国)の一つであるフランスは、他の西側常任理事国である米国・英国と立場を分かち、パレスチナを国家として承認する方針を示している。
フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、今後数か月以内にパレスチナ国家を承認する意向を示し、6月にニューヨークで開催予定の国連会議に合わせてそれを実現する可能性に言及したと報じられている。
現在、国連加盟193か国のうち、147か国がパレスチナを主権国家として承認しており、その多くはアフリカ、アジア、中南米、中東諸国である。一方、米国、英国、フランス、ドイツ、日本などの主要西側諸国は依然として承認していない。
パレスチナは2012年11月以来、国連総会における「オブザーバー国家」の地位を有しているが、正式な国連加盟は米国による拒否権により阻まれてきた。
米国は長年、パレスチナの一方的な国家承認に反対しており、フランスの動きがあったとしても、その立場を変える可能性は極めて低い。
4月10日、米国務省のタミー・ブルース報道官は記者団に対し、「フランス政府の発言については承知しており、詳細はフランスに問い合わせてほしい」と述べた上で、「米国はイスラエルと共に、人質全員の解放とハマスの打倒を目指している。」と強調した。
さらに、米国の特使ウィトコフ氏の言葉として、「現在進行中の議論を見てほしい。」「私たちは今、ガザにとって何が最善か、人々の生活をどう改善できるかについて、実りある対話を行っている。この政権は、ガザに平和をもたらし、人質全員(その中にはエダン・アレクサンダーを含む5人の米国人も含まれる)の解放を確保するため、地域のパートナーと引き続き真剣に協力していくつもりだ。」と語った。
一方、サンフランシスコ大学の政治学教授スティーブン・ズネス氏は、「パレスチナ国家承認に関する質問に対して、ハマスの名前を持ち出すのは奇妙だ」と指摘。ハマスはパレスチナ自治政府(PA)とは異なる武装勢力であり、10月7日の攻撃とも無関係であるとした。また、アブラハム合意を強調することは、イスラエルの占領終結やパレスチナ国家樹立と引き換えにイスラエルを承認してきたアラブ諸国の従来の立場と対立するものだと批判した。
ズネス氏はさらに、トランプ政権とバイデン政権の間にこの問題に関する本質的な違いはないと述べ、2024年には米国がパレスチナの国連加盟を支持する安保理決議を拒否権で阻止したことを挙げた。米国はまた、「パレスチナは国家ではない」として、国際刑事裁判所(ICC)がガザやパレスチナにおける戦争犯罪を裁く権限を持たないと主張した。
ジャダリーヤ誌共同編集者ムーイン・ラバニ氏は、フランスがサウジアラビアと共催する6月の国連会議でパレスチナを承認する可能性があるが、実際に実行するかは不透明だと述べた。マクロン大統領の発言は一貫性に欠け、イスラエルの中東諸国による承認やパレスチナ政治からのハマス排除など、非現実的な条件を付けていると指摘した。
ラバニ氏は、「パレスチナ国家承認を掲げながら、実際にはイスラエル国家のみを認め、50年以上続くイスラエルの占領政策に何の制裁も課してこなかったフランスの姿勢は、説得力に欠ける。」と述べた。
さらに、マクロン大統領が戦争犯罪で起訴されているイスラエルのネタニヤフ首相の米国渡航のためにフランス領空を開放したことに触れつつ、そのネタニヤフ首相と息子ヤイル氏がマクロン氏をヴィシー政権のペタン元帥に例え、「くたばれ」と罵倒したことについて、「パリでは依然としてイスラエルが無条件に免責されている。」と批判した。
また、『パレスチナ・クロニクル』編集長のラマジー・バロウド博士は、フランスによる国家承認は興味深い動きである一方で、現在の状況ではその意義は限定的だと語った。「ガザでの壊滅的な戦争犯罪が17か月以上続き、西側諸国がそれを支持した今となっては、このような承認は象徴的、あるいは機会主義的とすら見える可能性がある。」と述べた。
バロウド氏は、2024年にノルウェー、スペイン、アイルランドがパレスチナを承認したことはパレスチナ人にとって精神的な励ましにはなったが、実際の状況改善や米・イスラエルの政策転換にはつながらなかったと指摘した。
さらに、フランス政府が本気で「パレスチナ支持」に転じるのであれば、フランス国内でパレスチナ連帯運動に取り組む市民活動家が自由に活動できる環境を保障すべきだと述べた。「現在の承認の動きは、過去と現在の対パレスチナ政策から目を逸らすための政治的操作と受け取られかねない。」と警鐘を鳴らしている。(原文へ)
INPS Japan/ IPS UN BUREAU REPORT
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「プラスチック・マン」──ごみを宝に変える男
【ダカールIPS=フランク・クウォヌ】
セネガル・ダカール郊外のメディナ・グナスの静かな一角で、一人の男性が多くの人に見捨てられた場所に新たな命を吹き込んでいる。
かつてプラスチックごみの山が広がっていたその場所に、今では緑豊かなオアシスが生まれた。それは彼のたゆまぬ情熱の賜物だ。
「プラスチック・マン」の愛称で知られるモドゥ・ファルさんは、単なるリサイクル活動を超えた闘いに身を捧げている。彼は活動家であり、教育者であり、そしてよりクリーンで持続可能な未来を目指すキャンペーンの担い手だ。
ごみの山から緑の聖域へ
世界がCOVID-19のパンデミックに揺れていた2020年、ファルさんは別の使命に取り組んでいた。かつては活気にあふれていた彼の地元メディナは、洪水の被害と住民の流出によって荒廃し、やがてごみ捨て場と化してしまった。
「最初は、がれきと壊れかけた壁しかありませんでした」と彼は振り返る。「でも、私は何かできると信じていました。」
多くの人が見捨てた空間に、ファルさんは大きな可能性を見出した。彼はボランティアの仲間たちとともに、木を植え、教育展示を設置し、捨てられたものを再利用して空間を生まれ変わらせていった。
「ここにある一つひとつのものが物語を持っています。私たちはそれらを救い、新しい命を与えたのです」と、ダカールでの『アフリカ・リニューアル』の取材に語った。
ごみの清掃は始まりにすぎない。ファルさんは意識改革こそが必要だと強調する。「問題は、私たちが捨てるごみだけではなく、プラスチックとの関係そのものなんです。」
子どもたちの未来を変える教育
ファルさんは、教育プログラムやワークショップを通じて、子どもたちにリサイクルや再利用を教えている。彼は、廃棄物を「ごみ」ではなく、「創造と持続可能性のための資源」として見る目を育てたいと考えている。
たとえば、古いタイヤは椅子に、プラスチックボトルは装飾品に生まれ変わる。
「子どもたちに、廃棄物が新たな命を持つことを示す必要があります。今日それを学べば、明日には行動が変わるのです。」
しかし、教育だけでは十分ではない。ファルさんは、廃棄物管理の制度改革と環境規制の強化が不可欠だと訴える。「今すぐ行動しなければ、プラスチック汚染は手がつけられなくなるでしょう。」
揺るがぬ決意
幸いにも、ファルさんの活動は当局からも認められ、環境保護への功績で表彰を受けた。しかし、道のりは平坦ではなく、彼は業界からの反発にも直面してきた。
それでもファルさんは立ち止まらない。有害物質を水路に排出する企業を告発し続けている。
「数年前までは、ここにもカエルがいたんです。でも今では、一匹も見かけなくなりました。」
セネガルでは使い捨てプラスチックの使用が禁止されているにもかかわらず、街にはいまだにビニール袋があふれている現状に警鐘を鳴らす。
未来を担う世代への投資
ファルさんの夢は、地域にとどまらず広がっている。彼の次なる目標は、若者が持続可能な社会の構築方法を学べるエコロジートレーニングセンターの設立だ。
「ごみを拾うだけではなく、なぜこの状況になったのかを理解し、根本的な解決策を探さなければなりません。」
彼はまた、学生が環境に関するドキュメンタリーを鑑賞できる場所を設けたいと話す。「地球を守るのは、将来の彼らです。今のうちに何が起きているのかを知ってもらわなければ。」
さらに、地域のアーティストと協力して、廃材からアート作品を創出する試みも進行中だ。
「廃棄物が芸術作品に変わるのを見ると、その価値が一目でわかります。」
彼は毎月の清掃活動を地域ぐるみで行う計画も立てている。「これを習慣にすれば、環境そのものを変えることができるはずです。」
行動が変革を生む
「プラスチック・マン」は、口先だけの活動家ではない。彼は言葉ではなく、行動で示している。
「よく、『私たちがしていることなんて、海の一滴にすぎない』と言われます。でも、海とは無数の一滴が集まったものじゃありませんか?」
彼の取り組みは、一人の決意が社会に変革をもたらすことを証明している。リサイクルされたボトル、植えられた一本の木、教育された子ども──その一つひとつが未来への希望だ。
インタビューの最後に、彼はこんなメッセージを残した。
「私たちはこの地球の守り手です。誰にでも役割があります。出身や財産は関係ありません。大事なのは、何をするかです。」(原文へ)
INPS Japan /IPS UN BUREAU REPORT
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