Exclusive articles:

Breaking

ユキヒョウと人びとが共生するシッキムの高山地帯

【インド・シッキムIPS=ディワシュ・ガハトラージュ】 会話が始まる前に、まず紅茶が運ばれてくる。 ジャヤンタ・ムキアは木製のテーブルに2杯の紅茶を置き、その日の午後に到着したばかりの夫婦の向かいに椅子を引き寄せて座った。2人はトレッキングポールとリュックサックを携え、インドのカンチェンゾンガ国立公園の奥深くへと続くゴエチャラ・トレイルを歩くためにやって来た。出発は2日後。その前に、彼女には伝えておきたいことがあった。 ジャヤンタは、登山者が持ち込んだごみがその後どうなるか知っているかと尋ねる。持ち帰られるものもあれば、そうでないものもある。 高地の守護者 ユクソムの背後に広がる高山草原では、登山道が氷河へと続いている。岩に引っ掛かったビニール袋は冬を越してもそのまま残る。軍の駐屯地、観光客、トレッキング隊―誰もが何かを置き去りにする。そのごみは野犬の餌となり、野犬たちは夜になるとユキヒョウが行き来するのと同じ生態回廊を徘徊する。 ジャヤンタの夫、チュンダ・シェルパは、ゴエチャラ・ルートを知り尽くしたベテランのトレッキングガイドだった。2012年、ユクソムに「チュンダ・ヒドゥン・ファミリー・ホームステイ」を開業し、現在は予約管理や広報活動、さらにはオンラインでの情報発信を通じて遠方の都市から宿泊客を呼び込んでいる。 一方、ジャヤンタはそれ以外のすべてを切り盛りする。厨房、宿泊客の世話、木のテーブルを囲んだ語らい、そして「ここに泊まる人には、公園を訪れた時よりもきれいな状態で後にしてほしい」という静かな信念である。 「このホームステイの年間収入は約80万~100万ルピー(約8,400~1万500ドル)です。その収入があるのは、この国立公園があるからです。」と彼女は語る。 カンチェンゾンガ保全委員会(KCC)のツェリン・ウデン氏によれば、ユクソムには15のホテル、25のホームステイ、そして21を超える旅行会社が地元パンチャーヤト(自治組織)に登録されており、その収入はすべてカンチェンゾンガの生態系の健全性に直接依存している。住民たちの暮らしは、シッキム州に生息する21頭のユキヒョウが行き交う高地の生態回廊と密接に結び付いているのである。 この記事は、その大きな取り組みの一端を紹介するものであり、地域住民の参加と尽力がどのような成果を生み出したのかを描いている。 SECURE Himalayaは、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州、シッキム州、ラダック連邦直轄地の4地域で約7年間にわたり実施された。 シッキム州では、カンチェンゾンガ国立公園からテスタ川上流域までの約4,000平方キロメートルに及ぶ「カンチェンゾンガ-アッパー・テスタ景観地域」に重点が置かれた。 GEFからの1,150万ドルの助成金と、インド政府による6,000万ドル超の共同資金を背景に、事業は①重要生物多様性地域の保全、②地域社会の持続可能な生計確保、③人と野生動物の軋轢の軽減、④長期的な景観管理を支える知識基盤の構築――の4分野を柱として進められた。 シッキムでは、こうした取り組みがカメラトラップ網の整備や住民による巡回活動、女性による手工芸事業、廃棄物管理システムの構築などの形で実践された。 その根底にあった考え方は単純である。 「健全な自然環境から恩恵を受ける地域社会こそが、その自然を守る。」ということである。 プロジェクトは独立評価機関から、成果、妥当性、効率性の各分野で最高評価に近い「極めて満足(Highly Satisfactory)」の評価を受けた。カンチェンゾンガ国立公園では、管理体制の改善効果が対象地域の中でも特に高く評価された。 特に実践的な成果を上げた取り組みの一つが野犬対策である。北シッキムでは野犬が深刻な脅威となり、ユキヒョウから獲物を奪ったり、その主要な餌であるバーラル(青羊)やナキウサギを捕食したりしていた。 国連開発計画(UNDP)インド事務所でSECURE Himalayaの報告業務を担当したルチ・パント氏は次のように語る。 「プロジェクトはシッキム州の軍施設と協力し、食べ残しなどの生ごみを処理するバイオダイジェスターを戦略的な地点に設置しました。これが野犬問題への直接的な対策となりました。軍はその後、自らの予算でこの設備を拡充しています」 資金支援が終了した後も、この取り組みは自立的に継続されている。 また、若者たちは「ヒマル・ラクシャク(ヒマラヤの守護者)」として訓練を受け、カメラトラップの設置や国立公園の巡回、野生動物の目撃情報の報告を担った。現在、彼らの活動はシッキム森林局の通常業務に組み込まれ、防火帯の管理やモニタリング活動を森林警備員とともに行っている。 さらに州生物多様性委員会は、生物多様性法2002年に基づき州内196の生物多様性管理委員会(BMC)を設置した。その多くは女性たちによって主導されている。 発想の転換 シッキム森林局のウダイ・グルン氏は、このプロジェクトが同局の基本的な姿勢を変えたと語る。 「最も大きな変化は発想の転換でした」と同氏は言う。「森林局は、保護を中心とするモデルから、景観全体を対象とする共生型のアプローチへと移行したのです。」 プロジェクトは2024年に終了した。GEFの資金は当初から一時的なものとして設計されており、恒久的な支援ではなく、自立的に継続していく取り組みの呼び水となることを目的としていた。その観点から、最終評価では成果、妥当性、効率性の各面で「極めて満足」と評価された。一方、持続可能性についても「おおむね確保される見通し」とされ、目標はすべて達成され、一部ではそれを上回ったと指摘された。 すべてのGEFプロジェクトの設計思想に沿って、長期的には、プロジェクトを通じて培われた技術的能力や制度が政府に引き継がれ、維持されることが期待されている。 シッキムでは、その移行が着実に進みつつある。グルン氏は、実施期間を通じて最大の構造的課題だったのは資金不足ではなく、すでに配分された資金の執行が行政手続きの遅れによって滞ったことだと指摘する。高地のシッキムでは、現地で活動できる期間は数週間に限られる。承認を待つ間に、調査シーズン全体を失ったこともあった。 「能力はあります。しかし、長期的な持続可能性には継続的な財政的・制度的支援が必要です。」 その支援の責任は今、主に地方および州当局に委ねられている。ヒマル・ラクシャクはシッキム森林局の下で活動を続けている。生物多様性管理委員会(BMC)は州生物多様性委員会の管轄下にあり、ゼロ・ウェイスト(=ゴミゼロ)プログラムもユクサム・ブロック行政センターによって運営されている。 北シッキムでは、女性たちが現在もイラクサ繊維を織り、高付加価値市場への販路を自力で確保している。 2023年5月、シッキム州は初の生物多様性遺産地として、ゾングにある聖なる湖「トゥンキョン・ド」を指定した。この指定は地元の生物多様性管理委員会の支援によって実現した。UNDPは現在もドイツのIKI ICCAプログラムを通じて、より限定的な規模ではあるものの支援を続けており、その一部はヒマラヤの景観保全に充てられている。 依然として残る最も具体的な課題は、牧畜民への補償制度である。ガントクにあるアショカ生態学環境研究トラスト(ATREE)のヒマラヤ・イニシアチブで研究員兼プロジェクト・アソシエイトを務めるペマ・ヤンデン・レプチャ氏は、北シッキムのヤク牧畜民に対する聞き取り調査を数カ月にわたり続けてきた。 現地の牧畜民は最近、ユキヒョウによる捕食で5頭のヤクを失ったと同氏に語った。成獣のヤク1頭の価格は8万~10万ルピーに上る。政府の補償額はその一部にすぎず、しかも被害の多くは森林局の管轄地で発生している。そのため牧畜民は、森林局から補償の対象外だと告げられることが少なくない。 「彼らはユキヒョウに対して非常に否定的な感情を抱いており、しばしば報復に走りたいという強い衝動を感じています。」とペマ氏は語る。 共生のコストを負担している牧畜民が適切な補償を受けられるよう、このギャップを埋めることが、現在この景観の管理責任を担う地方当局にとって最も差し迫った課題となっている。 受け継がれる取り組み 登山道を歩くネドゥップ・ブティアさんは、11頭のゾとともに20年にわたりゴエチャラ・ルートを行き来してきた。トレッキングシーズンごとに訪問者の荷物を運び、10万~15万ルピーの収入を得ている。彼はこれまで一度もユキヒョウを見たことがない。 しかし3年前、国立公園周辺のジャムトン村で2歳の雄牛が死んでいるのが見つかった。ユキヒョウに襲われたのだった。ネドゥップさんにとって、それはこの自然が今なお息づいている証しだった。 ユクソムの「チュンダ・ヒドゥン・ファミリー・ホームステイ」では、ジャヤンタ・ムキアさんが木のテーブルで2杯の紅茶を注ぎ足している。宿泊客は明日出発する。彼らは自分たちのごみを持ち帰る。ジャヤンタがそうするよう徹底してきたからだ。 21頭のユキヒョウは今もそこにいる。地域社会も活動を続けている。プロジェクトは、あらゆる評価項目において成功を収めた。今後どうなるかは外部資金ではなく、この取り組みを受け継いだ制度や地域社会が、それをさらに発展させることを選ぶかどうかにかかっている。 SECURE Himalayaが残した遺産の真価が問われるのは、まさにこれからである。 注:この記事はGEFの支援を受けて掲載された。編集内容についてはIPSが全責任を負い、必ずしもGEFの見解を反映するものではない。 INPS Japan/ IPS UN...

米・イラン外交が変える新たな中東の勢力図―誰が利益を手にするのか

【メルボルンINPS Japan/London Post=マジット・カーン】 米米国とイランをより大規模な地域戦争の瀬戸際へと追い込んでいた数カ月にわたる対立の激化の末、予想外の外交的打開が実現し、中東情勢の力学は大きく変化した。地域の仲介国や欧州諸国による水面下の外交努力を含む集中的な交渉を経て正式な和平合意が発表され、長期化する不安定な状況の中で初めて、ワシントンとテヘランの直接的な軍事衝突に歯止めがかけられた。|英語版| この合意は国際社会の多くから歓迎されているものの、対立の根底にある構造的な緊張関係が解消されたわけではない。むしろ、この合意は現代地政学の本質的な現実を浮き彫りにした。すなわち、戦争が終結しても、それを支えてきた経済システムは消滅するのではなく、形を変えながら存続するという現実である。 米国とイランの和平合意は、すでにエネルギー市場を揺るがし、ペルシャ湾の海上安全保障を不安定化させ、世界的な防衛支出の急増を招いた対立の大きな転換点となった。しかし、外交関係者が当面の軍事的危機の回避を歓迎する一方で、専門家たちは別の問いに目を向けている。それは、戦争がいったん停止したとき、世界の「戦争ビジネス」はどうなるのかという問いである。 合意に至る数週間前まで、緊張は海上での軍事的事案や無人機の迎撃、さらには主要な戦略ルートにおける報復攻撃の応酬によって急速に高まっていた。世界のエネルギー輸送の大動脈であるホルムズ海峡が長期的な混乱に陥るリスクが意識されるなか、原油価格は大きく変動した。湾岸諸国は防空・防衛体制の警戒レベルを引き上げ、各国は事態のさらなる悪化に備えて軍事配備を強化していた。 ところが、その後情勢は急展開を見せた。中東全域のみならず世界経済の安定を脅かしかねない大規模紛争を回避しようとする地域諸国の働きかけと、水面下で進められた外交努力が突破口を開いたのである。 今回の和平合意には、緊張緩和措置、段階的な軍事的自制、さらには核監視体制や地域安全保障の枠組みに関する協議の再開が盛り込まれている。依然として脆弱な合意ではあるものの、すでに軍事活動は大きく沈静化し、主要な海上輸送路の安定化も進みつつある。 しかし、和平ムードが広がる一方で、この紛争がもたらした経済的影響は依然として国際経済の構造に深く組み込まれたままである。 現代の防衛産業は、戦争と平和の短期的な循環によって動いているわけではない。その基盤となっているのは、長期的な調達計画、複数年にわたる契約、そして継続的な軍事近代化プログラムである。戦時中に製造・配備された兵器システムは、戦闘終結とともに廃棄されることはほとんどない。むしろ維持・改良され、恒常的な防衛インフラの一部として組み込まれていく。 つまり、和平合意が成立した後も、戦争によって生み出された経済的な勢いは失われないのである。 米・イラン対立の期間中、米国や欧州、そして同盟国の防衛関連企業では需要が急増した。ミサイル防衛システムは複数の地域に展開され、海軍戦力は湾岸地域へ再配置された。監視・情報収集技術も急速に拡充された。こうした配備は、装備品そのものにとどまらず、保守、物流、ソフトウェア更新、さらには長期的なサービス契約に至るまで幅広い需要を生み出した。 こうした契約は和平合意の署名によって消えるわけではない。むしろ、その複雑性を増していく場合さえある。 紛争を直接経験した国々は、しばしば長期的な防衛即応態勢の予算を拡大することで対応する。敵対行為が終結しても、脅威認識は以前の水準には戻らない。代わりに、より警戒的な新たな基準が形成される。軍事計画担当者は類似の危機が再発すると想定し、それに応じて調達戦略を見直す。 この意味において、平和は軍事化を逆転させるのではなく、その形を再調整するのである。 その中心にいるのが米国である。世界最大の武器輸出国である米国の軍需産業基盤は、世界の安全保障体制に深く組み込まれている。米国の防衛企業は、航空機、ミサイルシステム、情報収集プラットフォーム、高度な海軍技術を欧州、アジア、中東の同盟国へ供給している。 イランとの対立の間、これらのシステムは事態のさらなる悪化に備えて配備・展開された。そして和平合意が成立した現在も、それらはより広範な抑止体制の一部として運用され続けている。 防衛産業にとって、これは縮小ではなく転換を意味する。戦時下における生産拡大は、平時の維持管理や近代化計画へと姿を変える。紛争中に軍備を拡充した各国政府は、その補充や更新、さらには危機の中で開発された新技術の統合へと重点を移している。 防衛産業を支える経済的な仕組みは、紛争の激しさが和らいだとしても需要が維持されるように成り立っているのである。 同時に、この和平合意は世界のエネルギー市場にも変化をもたらした。緊張が最高潮に達していた時期には、一部で航行が妨げられる懸念もあったホルムズ海峡は、現在では商業船舶の通航が全面的に再開されている。原油価格は安定を取り戻したものの、依然として地域情勢の動向に敏感に反応している。不安定な状況の長期化に備えていたエネルギー企業も、世界の需給見通しの見直しを進めている。 しかし、市場が改めて認識したのは、単に「平和がリスクを低減する」ということではない。むしろ、市場の変動そのものが国際システムの構造的な特徴となっているという現実である。 この対立以前から、ウクライナ戦争やガザ情勢、大国間競争の激化といった複数の危機を背景に、世界の防衛支出は増加を続けていた。米・イラン対立はそうした流れをさらに強め、地政学的リスクはもはや一時的な現象ではなく、常態化した課題であるとの認識を一段と広げることになった。 今回の和平合意は重要な成果ではあるが、この流れを反転させるものではない。むしろ、紛争と外交が同じ戦略環境の中で共存するという新たな章を加えたにすぎない。各国は平和を交渉しながら戦争に備え、防衛産業は危機の中で拡大し、平穏な時期には再編を進める。投資家は緊張の高まりと緩和の双方を市場変動のシグナルとして捉えている。 こうした力学は、紛争と利益の長期的な関係をめぐる根強い問いを投げかけている。 防衛支出は通常、抑止力の維持や国家安全保障の観点から正当化される。各国政府は、軍事的備えは戦争を助長するものではなく、むしろ戦争を防ぐためのものだと主張している。しかしその一方で、防衛調達を支える経済システムが、継続的な需要や長期契約、絶え間ない技術革新を前提として成り立っていることも否定できない。 平時においても、こうしたシステムは稼働し続けるのである。 今回の米・イラン和平合意は、その緊張関係を鮮明に示している。直接的な軍事リスクは低下したが、中東全域における防衛インフラの役割はむしろ固定化された。防空システムは引き続き配備され、海軍の哨戒活動も継続されている。情報共有協定も維持されている。軍事的即応態勢は解体されたのではなく、制度化されたのである。 そして、この制度化こそが、防衛支出を国家予算の恒久的な項目として定着させる。 世界の軍需産業に批判的な立場からは、ここに一つの逆説があると指摘される。和平合意は直接的な暴力を減少させるが、軍事支出を同じ割合で減らすことはほとんどない。支出は戦闘作戦から、長期的な即応態勢や調達、近代化へと姿を変えるだけである。 一方で、防衛投資を支持する側は、これを欠陥ではなく必要性と捉える。予測不可能な世界においては備えが不可欠であり、軍事力は戦争を期待して維持されるのではなく、不確実性を完全に排除できないからこそ維持されるのだと主張する。 その結果として、戦争と平和の境界線はますます曖昧になっている。 今回の米・イラン和平合意は、両国の直接対立という一つの局面に終止符を打ったかもしれない。しかし、それは過去10年間の国際政治を特徴づけてきた、より大きな地政学的現実からの脱却を意味するものではない。ウクライナやガザなどの紛争は、依然として各国の防衛戦略やエネルギー市場、さらには国際的な同盟関係に影響を与え続けている。 この意味において、戦争ビジネスは平和とともに終わるわけではない。むしろ、その姿を変えながら存続する。紛争中に締結された契約は、停戦後も長期にわたって収益を生み出し続ける。戦時下で開発された技術は平時の防衛システムへと組み込まれ、危機の中で形成された軍事同盟は恒久的な戦略枠組みへと発展していく。 世界の防衛体制は、外交が成功したからといって停止するわけではない。不確実性が常態となった世界の中で、それは調整と適応を繰り返しながら機能し続けるのである。 したがって、米国とイランの和平合意は危険な地域対立の一局面を終わらせたかもしれない。しかし同時に、それは現代地政学のより大きな現実を改めて浮き彫りにした。21世紀において、戦争の終結は、それを取り巻いて構築されたシステムの終焉を意味しない。そうしたシステムは存続し続け、戦闘が終わった後も経済や政策、産業のあり方を形づくっていく。 戦争は終わるかもしれない。 しかし、次の戦争に備える仕組みは終わらない。 Origianl URL: https://londonpost.news/the-new-middle-east-chessboard-who-gains-after-u-s-iran-diplomacy/ INPS Japan 関連記事: 血と巨利―米・イラン衝突の背後にある戦争ビジネス 「午前零時まで残り85秒」―新START条約の失効危機にどう向き合うか 世界の軍事紛争で「真の勝者」とは誰か?

ロシアのLGBTQ+コミュニティに対する組織的な中傷が人々を地下へ追いやる

【ブラチスラバ IPS=エド・ホルト】 ロシアのLGBTQ+当事者が、日常生活の中で自己検閲的な対応を強めざるを得ない状況に置かれていることが、同国最大級のLGBTQ+調査で明らかになった。|英語版| LGBTQ+支援団体「カミングアウト」と「スフィア財団」がロシア各地の6,000人以上を対象に実施した最新の年次調査によると、2025年のコミュニティを取り巻く状況は、大きく改善も悪化もしていなかった。 しかし調査は、LGBTQ+当事者の間で、既存の「適応戦略」がさらに定着していることを示した。具体的には、誰にカミングアウトするかを慎重に選ぶことや、自らの性自認や性的指向が明らかになる可能性のある状況を避ける傾向が強まっている。 また、特にオンライン上での嫌がらせが増加しているほか、暴力の脅迫や恐喝、密告、身近な人々からの圧力が、LGBTQ+当事者の脆弱な立場を日常的に強める要因となっていることも明らかになった。 両団体は、この調査結果について、ロシアのLGBTQ+当事者が今後も長期間にわたり高いリスクと不安の中で暮らさざるを得ない現状を改めて浮き彫りにしたものだと指摘している。ロシアでは近年、LGBTQ+コミュニティを標的とする一連の抑圧的な法律が制定されており、人々は自らのアイデンティティそのものを理由に攻撃や差別の対象となっている。 「私たちのデータが示しているのは、LGBTQ+への弾圧が、特定の行為を理由とした迫害から、その人の存在そのものを標的とする迫害へと変質しているということです。政府に反対したり、人権擁護活動を行ったりしているわけではなく、ただ日常生活を送っているだけの人々に対する法的措置が増えています」 LGBTQ+支援団体「カミングアウト」の事務局長デニス・オレイニク氏はIPSの取材に対し、このように語った。 同氏はさらに、「2025年に私たちが目にしたのは、“惨事の常態化”でした。LGBTQ+の人々は、こうした状況とともに生きることを余儀なくされています。まるでそれが日常の一部になってしまったかのようです。本当に恐ろしいことです。」と述べた。 ロシアのLGBTQ+コミュニティは、この10年以上にわたり差別と社会的排除の強化に直面してきた。 ロシア社会には以前から一定の反LGBTQ+感情が存在していたが、一連の法律制定と政府による敵対的な政策によって、それは大きく深刻化した。 2013年、ウラジーミル・プーチン大統領が政権に復帰して間もなく、「非伝統的な性的関係の宣伝」を18歳未満に対して禁じる法律が施行された。 批判者らが「クレムリンによるLGBTQ+周縁化キャンペーンの始まり」と位置付けるこの法律は、2022年に拡大され、年齢を問わずLGBTQ+の権利擁護や異性愛以外の性的指向を示すあらゆる情報発信や活動が規制対象となった。 さらに同性婚禁止が憲法に明記され、2023年にはトランスジェンダーの人々が法的・医療的に性別変更を行うことを禁じる法律も成立した。 同年、最高裁判所は実在しない「国際LGBT運動」を「過激派組織」と認定した。これにより、「非伝統的な性的関係」を促進していると解釈され得るあらゆる行為について、罰金や刑事訴追が可能となった。 一方で、クレムリンが「伝統的家族の価値観」を推進し、LGBTQ+活動を退廃した西側文化の産物でありロシアへの脅威だと位置付ける中で、同性愛嫌悪的な政治言説も常態化している。 こうした動きは社会の広い範囲でLGBTQ+への敵意を煽り、しばしば暴力的な拒絶反応を生み出している。その結果、多くの当事者が身体的・精神的健康への深刻な不安を抱えている。 ロシアの大都市に住むLGBTQ+学生のグリゴリー氏(仮名)は、自らの性的指向や性自認を明かす相手を慎重に選んでいると語る。常に暴力の恐怖を感じているわけではないが、危険を避けるため行動を変えているという。 「夕方になると、声や歩き方などで『典型的なゲイ』と見なされるかもしれない場所を避けることがある。人前で自分のセクシュアリティを隠しているわけではないが、あえて表現もしない。」と話した。 また、「トランスジェンダーの人々は最も深刻な問題に直面している。ロシアでトランスジェンダーとして生きることは本当に大変だと思う。彼らの勇気と強さには驚かされる。」と語った。 調査では、トランスジェンダーの人々は生活の質や福祉、差別経験など大多数の指標で他のLGBTQ+当事者より厳しい状況に置かれていた。特に身体的脅迫や実際の暴力、性的暴力や家庭内暴力を受ける割合が顕著に高かった。 オレイニク氏は、「現在、多くのトランスジェンダーの人々は、宅配サービスや親族・友人の支援があれば、買い物にさえ出かけず自宅だけで生活している。そのようなケースが増えている。」と指摘した。 グリゴリー氏は、直接的な暴力への恐怖よりも、自分たちに向けられた社会的な敵意を感じることが多いという。 「それは間接的に伝わってくる。政府のメディア報道や公共空間での言説、あるいは知人の何気ない発言を通してだ。ロシアのクィアフォビア(性的少数者への嫌悪)は主として政府によって作り出されたものだ。もちろん、こうした法律ができる前から存在していたが、今ほど強くはなかった。法律によってはるかに悪化した。」と語った。 LGBTQ+の権利擁護活動家らは、報告書で示された行動パターンは長年にわたる抑圧を考えれば当然の結果だと指摘する。 欧州のLGBTQ+権利団体ILGA-Europeの副代表兼プログラム・ディレクターであるアナスタシア・スミルノワ氏は、「社会的周縁化や犯罪視が長期間続けば、人々は日常的な危害への曝露を減らす方法を身につける」とIPSに語った。 ただし同氏は、ロシアのLGBTQ+当事者が直面する問題は特有のものであり、国家が厳罰化された法律や烙印を押すような言説を通じて、人権擁護者やLGBTQ+当事者同士を孤立させ、市民社会や異論表明の基盤そのものを解体しようとしていると指摘した。 「これは単なる社会的偏見ではない。国家が進めるプロジェクトであり、その標的は市民社会そのものだ。報告書に記された日々の自己検閲は、そのプロジェクトを生きる人々の現実である」と同氏は述べた。 こうした状況が個人やコミュニティにもたらす影響は深刻だ。孤立が進むことで精神的・身体的健康が損なわれるだけでなく、中には医療機関の受診をためらう人もいる。 スミルノワ氏は、とりわけ子どもたちへの影響を懸念している。学校現場を通じた国家主導の宣伝や、年齢に応じた性と人間関係に関する教育の欠如、さらにLGBTIに関する話題をめぐる恐怖感によって、LGBTI当事者の子どもやLGBTIの家族を持つ子どもたちはもちろん、LGBTIと見なされる可能性のあるあらゆる子どもたちが、深刻な孤立や危険にさらされているという。 報告書によると、多くの指標で前年からの大幅な悪化は確認されず、一部ではわずかな改善も見られた。しかし執筆者らは、この結果を過度に楽観視すべきではないと警告する。調査は、回答者が抑圧の強まる環境の中で機微な情報を提供することを前提としており、実際の差別や暴力の実態は、報告書が示す以上に深刻である可能性があるとしている。 現実の差別水準がどの程度であれ、多くの人々が深刻な苦しみを抱えていることに変わりはない。 グリゴリー氏は現在、ロシアでLGBTQ+として生きる困難に対処するため、心理療法を受けているという。 「コミュニティ内では、自殺願望や自殺未遂はかなり一般的だ。」と同氏は語った。 IPSの取材に応じた当事者や活動家によれば、アルコールや薬物への依存、あるいは抗うつ薬の自己判断による服用も少なくないという。 しかし、こうした問題への支援を求めることも容易ではない。医療従事者による同性愛嫌悪やトランスフォビア、さらには性的指向に関する個人情報漏洩への懸念から、国営医療機関への不信感が根強いためだ。 圧力が強まる中、多くのLGBTQ+当事者は国外移住以外に選択肢がないと感じている。 年次報告書には、2025年および過去数年間に国外へ移住した数百人の回答も含まれている。 移住理由として最も多かったのは深刻な不安や心理的苦痛(66%)であり、続いて検閲強化(59%)、身の安全への懸念(57%)、社会におけるホモフォビアやトランスフォビアの拡大(57%)が挙げられた。 また、移住者の63%がロシアへの帰国を選択肢と考えておらず、前年より8ポイント増加した。 コミュニティの多くは、今後何年も状況改善の見込みがないと感じている。 オレイニク氏は、「ここ数年で世界は大きく変わった。ロシアだけでなく、世界各地で極右勢力が勢いを増し、LGBTQ+の権利は各地で攻撃を受けている。ロシア国内で今後5年から10年の間に良い変化が起きるとは期待していない」と語った。 一方、スミルノワ氏は、だからこそロシア国内外のLGBTQ+当事者や支援団体による連帯と活動の継続が重要だと強調する。 「ロシアにおける民主主義の後退が近い将来に反転する見込みが乏しいことを認めるのと、その間は何もできない、あるいは何もすべきではないと結論づけることは全く別の問題です。豊富な資源とあらゆる抑圧手段を背景としたロシア国家の力は現実のものであり、過小評価することはできません。しかし、人権団体や活動家を支援する立場から私たちが目にしているのは、諦めではなく、現実を直視したうえでの強い意志です。」 そして、「人々は今も活動を続けています。将来を見通すことは難しく、その活動の価値を測る尺度も他国とは異なるかもしれません。しかし、市民参加や批判的思考、そして連帯の可能性を絶やさないこと自体が、重要な抵抗の形であり、長期的な意義を持っています。」と述べた。 オレイニク氏もまた、ロシアのLGBTQ+当事者への支援を続ける決意を示した。 「私たちは活動と支援を続けなければなりません。ロシアのLGBTQ+の人々が私たちを必要としているからです。今は前向きな変化の兆しがほとんど見えないかもしれません。しかし、それは私たちが活動をやめる理由にはなりません。」 ※グリゴリーは安全上の理由から仮名。

これはウクライナだけの問題ではない―ロシアによる占領地での犯罪を常態化させる世界的危険性

【キーウ(ウクライナ) IPS=ミハイロ・サヴァ、オレフ・マルティネンコ】 ロシアによるウクライナ侵略戦争は、しばしばドローンやミサイル、変化する前線、領土問題といった観点から語られる。しかし、この戦争にはもう一つの側面がある。それは人間の問題である。|英語版| 現在、9万人を超えるウクライナ人が「特別な事情のもとで行方不明」とされている。これは公式統計に基づく数字である。その一部は現在もロシアに拘束されている。そこには捕虜となった兵士だけでなく、民間人も含まれる。民間人の多くは、自らが暮らしていた地域がロシア軍の占領下に置かれたことで拘束された人々である。 2026年3月、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は米メディアAxiosとのインタビューで、ドナルド・トランプ米政権はドンバス全域をロシアに引き渡す以外に戦争を終結させる道はないとみていると語った。 しかし重要なのは、これは単なる領土の問題ではなく、そこに暮らす人々の問題でもあるということだ。そして、占領は決して平和ではない。 「迫害の連鎖」 民間人への恐怖支配は、ロシアがウクライナとの戦争で用いている戦術の一つである。占領当局が定めた規則に従わない者に対する処罰として、拘束と投獄が常態化している。 この仕組みの中核にあるのが、「迫害の連鎖」と呼ぶべきシステムである。このパターンは、すべての占領地域で繰り返されている。 第1段階:標的の特定 地方公務員、教師、ジャーナリスト、ボランティア、さらにはごく普通の住民であっても、わずかでも親ウクライナ的な考えを示せば占領当局の監視対象となる。 時には、偶然聞かれた会話やSNSへの投稿だけで十分である。 ロシアは2014年以降、この手法を用いてきた。まず占領下のクリミアで試し、その後すべての占領地域へと拡大した。 例えば2026年3月、クリミアのアルプカ在住の男性が、メッセージアプリへの投稿を理由に「テロ行為を正当化した」としてロシア治安当局に逮捕された。 第2段階:強制失踪 拘束された人々は公式に登録されない。 その所在は隠されるか、あるいは当局によって否定される。家族は何の情報も得られないまま取り残される。 これは、その後に起こるすべての出来事を家族の管理や監視の及ばないものにするため、意図的に行われている。 第3段階:残虐な扱い 拷問は例外ではなく、組織的に行われている。解放された人々は、殴打や電気ショック、模擬処刑、長期間にわたる食料や水の剥奪について証言している。性的暴力もまた、男女を問わず行われている。 「彼らは人を廊下へ連れ出した。そこには監視カメラがなく、周囲にいるのは皆、彼らの仲間だった。誰一人として止めようとはしなかった。そして彼らは気の済むまで殴り続けた。スタンガンも使った。そこには10人から12人、あるいはそれ以上の人間がいた。彼らはこう言った。『人生を少し味わえただろう。それでもう十分だ。どんなものかは経験したのだから、もう二度と味わうことはできない』と。」 そう語るのは、2022年9月25日、両親の自宅から占領当局によって連行された教師のヴィクトリア・アンドルシャ氏である。 家宅捜索の際、彼女の携帯電話からロシア軍の装備移動に関する通報ボットとのやり取りが見つかった。 ヴィクトリア氏は「スパイ行為」の容疑をかけられ連行された。まず隣村ノヴィ・ビキウのボイラー施設内に設けられた臨時拘束施設に収容され、その後、ロシア・クルスク州の勾留施設へ移送された。 彼女が解放されたのは2023年10月であった。 第4段階:見せかけの裁判 拘束者はしばしば遠方へ移送される。 こうした移送によって地域社会とのつながりは断たれ、所在の把握は困難となり、法的保護を受ける権利もさらに損なわれる。 その後に行われるのが「裁判」である。しかし、それは法的正当性を装った見せかけにすぎない。 民間人は、過激主義やテロリズム、スパイ活動といった捏造された罪で起訴される。 例えば、テレグラム・チャンネル「メリトポリはウクライナだ(Melitopol Is Ukraine)」の管理者ヤナ・スヴォロワ氏は、約2年間にわたる不法拘束の後、2025年10月23日、ロストフ・ナ・ドヌーの南部管区軍事裁判所から一般収容所での14年の刑を言い渡された。 第5段階:収監 人々は監視がほとんど、あるいは全く及ばない拘禁施設のネットワークに収容される。 施設の環境はしばしば非人道的であり、家族との連絡は厳しく制限されるか、完全に禁止される。 多くの人々にとって、この段階は終わりの見えないものとなる。 これを止められなかった場合、世界は何に直面するのか これらの各段階は、それぞれが人権と国際規範に対する重大な違反である。 しかし、それらが組み合わさることで、さらに深刻なものとなる。すなわち、人道に対する罪が連続的に発生し、互いを補強し合う一つのシステムが形成されるのである。 迫害、不法拘束、強制移送、強制失踪、拷問、性的暴力、投獄――これらは個別に起きている事件ではない。 それらは、統合され、意図的に構築された一つの抑圧システムを構成する要素なのである。 このシステムの目的は、占領地域に対する支配を強化し、恐怖を植え付け、人々に法制度、行政制度、教育制度を通じて押し付けられたルールへの服従を強いることにある。 そのメッセージは明白だ。人々には従順であることが求められている。 実際には、占領統治そのものが犯罪的な支配体制へと変質しつつある。 ここで国際社会は一つの問いを突き付けられる。もしこのような仕組みが何の責任も問われることなく機能し続けることを許せば、それは将来の紛争にどのような前例を残すことになるのだろうか。 「迫害の連鎖」を常態化することは、こうした手法を現代戦争の手段として定着させる危険をはらんでいる。 そして、その支配モデルはウクライナの国境をはるかに越えて広がっていくだろう。 したがって、責任追及の問題はウクライナだけの問題ではない。 課題は複雑だ。しかし、法は明確である。 残されているのは、行動する意思だけだ。 もしその意思が欠如すれば、このような行為は例外ではなく常態となる。 その代償を支払うことになるのは、現在獄中にいる人々だけではない。 国際法そのものの根幹が、その代償を負うことになるのである。 INPS Japan/ IPS UN Bureau Report 関連記事: ウクライナ、戦禍で妊産婦死亡が急増 助けられるなら、助けよう。―ウクライナ人支援に立ちあがったイスラエル人ボランティアたち(2)ダフネ・シャロン=マクシーモヴァ博士、「犬の抱き人形『ヒブッキー(=抱っこ)』を使った心のケアプロジェクト」 |ウクライナ|ロシアの攻撃と致命的な寒波で「生き延びるだけの生活」 家族を追い詰める