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暫定政権がバングラデシュにもたらしたもの
BNPは、2024年のGenZ主導の蜂起で長期政権のシェイク・ハシナ首相が退陣してから18か月後の金曜日、議会選挙で地滑り的勝利を収めた。
【ダッカ/カトマンズ=ファルハナ・スルタナ】
バングラデシュは驚くべき成果を成し遂げた。2月12日、観測筋が「この10年以上で初めて真に競争的な国政選挙」と呼ぶ選挙で、数百万人の有権者が各選挙区の数千に及ぶ投票所に列をつくった。多くの人々にとって、2008年以来初めて「意味のある一票」を投じる機会となったのである。
選挙が実施され、観察者と市民の双方が「概ね平和で整然としていた」と評するだけの手続き上の信頼性を伴い、予定通り行われたのは偶然ではない。
それは、危機に陥った国家を引き継ぎ、民主的再生へ導く責務を負った暫定政権が、18か月にわたり積み重ねてきた努力の成果である。
バングラデシュが新たなページをめくるこの局面で、ユヌス博士の政権が18か月で何を成し遂げ、どこに課題を残したのかを率直に点検する価値がある。
文脈は極めて重要である。2024年8月5日、学生主導の革命を経て(その過程で1,000人以上が命を落とした)、シェイク・ハシナは国外へ逃れた。国は単に「政権の空白期」にあったのではない。急速な崩落の只中にあった。
警察は大半が持ち場を放棄し、複数の地区で暴力が噴出した。銀行部門は、政治主導の融資が長年積み上げた不良債権に蝕まれていた。司法、官僚機構、選挙管理委員会、主要な規制当局は、いずれも15年にわたり、特定政党の利害に体系的に従属させられてきた。
ユヌス博士と助言チームが引き受けたのは、「機能する国家が暫定的な管理者を待っている」状況ではない。再建を要する制度の荒廃であった。
その後に続いたのは、制度を立て直す期間である。不完全さはあったとしても、この取り組みは評価に値する。
改革プロセスは、暫定政権にとって最も重要な取り組みであった。憲法設計、司法、警察、メディア、労働、女性の権利などを対象に、11の委員会が設置された。提言は整理・統合され、政党を交えた7か月にわたる全国放送の協議を経て、「7月憲章」としてまとめられた。これは84項目の改革提案パッケージであり、約24の政党が支持した。
二大勢力のゼロサム対立に特徴づけられてきた同国の政治文化を踏まえれば、これほど長期にわたる多党協議は近年ほとんど前例がない。憲章が不完全であっても、制度再設計をめぐって幅広い合意形成を試みた努力は、形式にとどまらず実質を伴うものだった。
選挙の制度と運営にも、制度整備の成果が表れた。選挙管理委員会は再編され、有権者名簿は刷新された。さらに在外バングラデシュ人の参加を可能にするため、郵便投票が初めて導入された。
欧州連合(EU)やコモンウェルス、国際選挙監視団体などからの代表団を含む約500人の国際監視員・記者が登録された。選挙管理委員会は全国投票率が60%を超えたと報告している。ハシナ政権下の直近3回の総選挙が自由・公正を欠くとして広く疑問視されてきたことを踏まえれば、これは質的転換である。
経済と外交の面でも、暫定政権は厳しい環境を切り抜けた。
バングラデシュ統計局によれば、2025年末にかけてインフレ率は低下した。ただし政府目標をなお上回り、家計を圧迫し続けた。為替制度改革は外貨準備高の安定化に寄与した。
外交面の実績はむしろ際立った。トランプ政権が2025年4月、バングラデシュ製品に37%の相互関税を課した際、暫定政権は8月までに税率を20%へ引き下げる交渉をまとめた。さらに選挙のわずか3日前、ワシントンと正式な相互貿易協定に署名し、税率を19%へ一段と引き下げた。特定の繊維・アパレル輸出については無関税でのアクセスも盛り込み、バングラデシュは南アジアで初めてこの種の協定を最終合意した国となった。
日本との経済連携協定(EPA)では、バングラデシュ製品の数千品目について無関税待遇を確保した。
ユヌス博士の2025年3月の北京訪問では、投資・融資・助成として20億ドル超を引き出し、河川・水管理の長期マスタープラン策定に関する中国側の関与も取り付けた。
国際社会の注視から自らを遠ざけてきた時期を経て、再び世界に門戸を開いたこと自体が、実質的な外交成果であった。
制度面では、政府発表によれば、暫定期間中に約130の法律が制定または改正された。国税庁(National Board of Revenue)はいったん解体されたうえで再編された。バングラデシュは「強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約」に署名した。前政権が拒んできた一歩である。
調査委員会は、ハシナ政権下の強制失踪について1,600件を超える申し立てを記録した。国家予算は2008年以来初めて生中継で公表された。
ただし、この期間を失敗のないものと捉えることはできない。治安は終始脆弱であった。記者への対応は国際的な報道の自由団体から批判を受けた。女性は経済的損失を不均衡に負担した。少数者の権利も課題として残った。若年失業は高止まりした。マクロの安定化は、何百万人もの家計にとって実感できる救済にはつながらなかった。
これらは現実の失敗であり、軽視できない。
それでも強調すべきは、暫定政権の基本姿勢である。この政権は、自らの使命を移行期の「修復」と位置づけ、権力の固定化を図らなかった。
ユヌス博士は就任時84歳で、革命を主導した学生リーダーの要請を受け、この役割を引き受けた。政治的野心からではない。相当の個人的犠牲を払いながらも、自由で公正な選挙の実施を約束し、それを果たした。日程は事前に示され、選挙は実施され、政権は退く準備を整えた。
民主的移行がしばしば頓挫し、指導者が「非常事態」を口実に任期延長や憲法操作に踏み込む例も少なくない地域において、自らの後継を生む仕組みを整え、実際に一歩身を引く政府は稀である。その点で、この移行が持つ意味は小さくない。
選挙が終わったいま、バングラデシュは政治の一章を閉じ、次の章を開いた。暫定政権の時代は終わり、選挙で選ばれた統治の時代が始まろうとしている。
今後は、次期議会でいかなる連立が形成されるか、その能力と意思、そして市民と市民社会が政府に説明責任を求め続ける力に左右される。
改革の枠組み、再編された選挙制度、7月憲章、回復した外交関係は、完成された成果ではない。次の政府が積み上げ、強化することも、放置することもできる「開かれた可能性」である。
多くのバングラデシュ人にとって、この選挙は、異例の章の終わりでもある。ノーベル賞受賞者が市民社会から招かれ、国家の再出発を監督するという展開が現実になったからである。
移行期の指導者が感謝されて去ることは稀だが、ユヌス博士はそうした別れを受けている。期間が完璧だったからではない。約束した形で移行を終えたからである。
博士と助言チームは、機能不全に陥った国家を引き受け、重要だが未完の修復作業を進めた。信頼できる選挙を実現し、多党間の改革合意を築き、国内の強い政治圧力の下で外交・経済の不安定局面を乗り切った。国が、多くの人々が恐れた破局的な混乱へ転落する事態を回避した点も見逃せない。
ユヌス博士は無謬ではない。しかし、その姿勢は一貫して説明責任と合意形成、そして「7月革命を起こした人々の民主的権利」に向いていた。
博士とチームは次へつなぐ土台を残した。支配ではなく対話を、布告ではなく協議を優先した。便宜よりも倫理的責任を重んじる公共奉仕のあり方を示したのである。
私は、グローバル・サウスの各地で、統治、権力、日常生活を形づくる構造要因を研究してきた。民主的移行がいかに脆いかを知っている。民主的移行は、成功よりも失敗が多い。
次の政府が引き継ぐ課題は巨大である。回復がようやく始まったばかりの経済、部分的にしか実装されていない制度改革、権威主義支配と革命的激動のトラウマを抱え続ける社会、そして継続する環境課題――。経済・政治・社会・生態の難題は相互に絡み合っている。
多元性と説明責任の空間が拡大するのか、縮小するのかは、改革がどう運用されるか、そして市民社会が透明性をどれだけ粘り強く求め続けるかにかかっている。
2024年7月と8月に街頭を満たした勇気は、いま、投票という形で表出した。その民主的エネルギーを持続する制度へ転化する作業は、数か月ではなく数年を要する。
担うのは新政府、市民社会、そして一人ひとりの市民である。選挙と国民投票は一定の手続き上の正統性を回復した。しかし、より難しい課題は、その正統性を日々の統治に埋め込むことである。
私たち全員に責任がある。建て直し、新たな指導者に説明責任を求め、7月の殉教者たちの犠牲が無駄にならぬようにする責任である。
バングラデシュは転機を越えた。ここからどこへ向かうかは、私たち次第である。(原文へ)
ファルハナ・スルタナ(シラキュース大学マクスウェル公共政策大学院/地理学・環境学教授)
※COUNTERPOINTに掲載された原文を許可を得て転載。
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亡命先で花開くミャンマー人の反軍政抵抗運動
【タイ・チェンマイIPS=ガイ・ディンモア】
建設現場やホテル、飲食業で働く人々まで―タイに住むミャンマー移民の数は最大で約600万人に達するとの推計もあり、2021年の軍事クーデター以降、新たな流入が急増している。
多くは、国連が世界の上位15の「巨大都市(メガシティ)」の一つに数える首都バンコクで新たな生活を築いている。タイ経済が、安価な労働力の供給源としてミャンマー人労働者を大量に受け入れてきたためだ。
しかし、ミャンマーの知識人や活動家、元戦闘員、さらには軍からの離反者(脱走兵)を数多く引き寄せてきたのは、タイ北部の都市チェンマイである。彼らは、ミャンマー国内で軍政と闘う人々を支える「亡命下の抵抗運動」の中核を形づくっている。
タイとミャンマーの社会は、長いあいだ文化的・社会的なつながりを共有してきた。1558年、チェンマイのラーンナー王国はビルマ(ミャンマー)のタウングー朝の支配下に入り、その統治は2世紀以上続いた。同王朝は、最盛期にはインドから中国、さらにカンボジアにまで勢力を広げていた。
近年、チェンマイはミャンマー亡命者の拠点として定着してきた。 1988年、学生主導の抗議運動が軍に弾圧された後、再結集のために避難してきた人々が最初の流入となった。いまでは、2021年のクーデターで追放された選挙選出議員らが樹立した「国民統一政府(NUG)」の幹部も、出入りしている。
しかし、観光客に愛され「タイで最も美しい都市」とも称されるこの街でも、穏やかな表情の陰で、 法的に不安定な立場に置かれた移民や活動家の暮らしは、決して容易ではない。
以下、亡命者の一部がIPSに語った、個人の経験、苛烈な内戦下でのしなやかな抵抗、そして未来像である。
アウグスト・モー*(LGBTQ活動家、元受刑者、雨季の豪雨の中で生まれた)「私は刑務所で6か月過ごした後、チェンマイに来ました。政治活動で逮捕歴があり、軍に抗議する『スプリング・レボリューション』に加わって資金集めに携わり、モン州では戦闘にも参加しました。私は芸術家で、肖像画や風景を描き、その収入で難民支援をしています。私たちの村は軍に焼き払われ、逃げるしかありませんでした。
私は検問所で兵士に拘束されました。刑務所はひどく、恐怖そのものでした。施設には3つの区画があり、男性、女性、そして性的少数者(LGBTQ)の区画です。私はその区画に送られました。毎日午後6時になると、看守から性的行為を強要されました。これ以上は話したくありません。コンドームも薬もなく、感染症への不安が常につきまといました。私はチェンマイで検査を受け、結果は陰性でした。私たちは看守の支配下に置かれ、奴隷のように扱われました。食事は虫やウジの混じったほうれん草で、病気になっても治療はありません。房には14人が押し込められていました。」
「刑務所にはハエや蚊、ゴキブリ、ウジがあふれていました。トイレはありません。用を足したくなれば隅で済ませ、翌朝それを回収して肥料にするのです。
軍にコネのある友人が助けてくれ、約2500米ドルを支払って釈放されました。母は家を売り、私がチェンマイに来られるようにしてくれました。私はここで稼ぎ、家族と、もう一つの家族であるスプリング・レボリューションの仲間に送金しています。
私たちは戦争を望んでいない。平和がほしい。でも、彼らのやっていることは非人間的です。兵士は洗脳され、戦うために薬物を使わされている。正気を失い、善悪の判断もつかない。薬が欲しいだけで、軍が戦わせるために薬を与えている—私はそう感じています。」
「クーデター前は、LGBTコミュニティも少しずつオープンになり始めていました。でも、クーデターでその流れが止まりました。チェンマイでは今月、『LGBT・ミス・フリーダム』コンテストの司会を務めました。声を上げて、世界に伝えたいのです。私たちは戦争ではなく平和を望んでいる、と。
私はミャンマーの大学で原子核物理学を教えていました。国の状況が良くなれば、また教えたい。
[アウグスト・モーは、ミャンマーのチャット紙幣の小さな束を取り出した。]「戦争で亡くなった友人が私に残したものです。3300チャット(1米ドル未満)。形見として持っています。」「(サムスンの携帯電話を見せながら)これは別の友人のものです。戦争で殺害されました。私は絶対に売りません。この戦争は、どちらかが勝って終わる形にはならないと思います。私たちは正義のために闘っている。勝ちたいと願っています。正義が実現したら、闘いをやめます。私たちが求めているのは、平和と正義、そして人間性です。」
ナイン・トゥン・アウン*(抵抗側に離反した軍人)「私はマンダレーの軍事訓練学校で大尉でした。この戦争は正しくない——そう理解するようになり、兵士として私にできることは離反しかありませんでした。それが抵抗を支える唯一の道だと思ったのです。逮捕の危険があったので、計画は友人にも一切話しませんでした。
SNSを通じて市民不服従運動(CDM)の関係者に連絡し、『Mother’s Embrace』がタイ国境の町メーソートへのルートを用意してくれました。マンダレーを出て、バスとバイクで移動し、最後はモエイ川の国境を越える不法越境のボートでした。私は他の人々と一緒に行動しましたが、互いの素性は知りませんでした。メーソートに6か月滞在した後、チェンマイに移りました。いまはミャンマー国内からの情報を検証する組織で働き、難民に食料や資金を届けています。
私の見方では、この戦争はどちらも決定的には勝てません。軍はロシア、中国、ベラルーシから公式に武器を調達できますが、抵抗側は同じことができず、より高い代償を払わねばならない。中国が供給を絞っているため、弾薬が尽きかけている抵抗部隊もあります。情勢を左右するのは中国だと、私は見ています。」
「戦争は長期化するでしょう。抵抗組織は数が多い一方で、十分に統一できていません。軍はその弱点につけ込んでいます。小規模な抵抗グループの中には、検問所で武器をちらつかせて通行人から金銭を取ったり、身代金目的で人を誘拐したりする例も出ています。
私は自分がCDM側の元兵士だとは人に言わず、目立たないようにしています。身元が漏れるのが怖いからです。私がしているスナック販売の仕事も、制度上は問題があります。許可証では建設労働者として登録されているのに、実際は別の仕事をしている。密告されれば、家族が危険にさらされかねません。」
サクラ*(軍政の悪名高い指名手配リストに載る人物)「私が最初に離反を支援したのはDでした。私はそれ以前から、携帯電話やノートパソコン、衣類など、離反者に必要な物資をミャンマー国内で届けていました。その後、シンガポールにいる支援者から資金提供を受け、友人の弟を離反させたいという相談を受けて、私が移動の手配をしました。
ただ、彼がどんな技能を持っているのかは分かりませんでした。階級は大尉でしたが、こちらで見つけられたのは清掃などの単純な仕事ばかりで、与えられた仕事は何でも引き受けました。同胞の中には彼を疑い、ひどく扱う人もいて、私は胸が痛みました。
2人目は警察の離反者で、私は移動から生活まで、すべての手配を担わなければなりませんでした。Dは飲食店で昇進し、後から入ったスタッフに声をかけて合流させました。警察の離反者も友人をつくりました。私は人と人をつなぎ、ネットワークをつくろうとしてきました。
ただ、いつもうまくいくわけではありません。ジェイソンは戦闘員で攻撃的で、店の他のスタッフに嫌がらせをするようになった。離反者はその後も増え、少佐が来たこともあります。」
「離反者は、周囲から信頼されにくく、密告者やスパイではないかと疑われることがあります。だから私は、同じ背景を持つ人たち同士がつながれるよう、ネットワークづくりを手伝っています。安心して打ち明けられる存在でありたい。56歳の人もいて、私よりずっと年上なのに、私が世話をしているので、いつも私のことを『ママ』と呼びます。
ミャンマーでは、クーデターから数か月後に『Force for Federal Democracy』に参加し、薬や物資の資金集めを手伝いました。上着を200着送ったこともあります。時には『Free Burma Rangers』からマラリア薬を入手することもありました。人民防衛隊(PDF)向けの資金集めにも、何度も関わりました。
「クーデターから2か月後の国軍記念日、兵士がデモ隊に発砲し、100人以上が殺されました。その日、ヤンゴンで従兄弟が逮捕されました。私は2ブロックほど離れた場所にいて逃げることができました。それ以来、政治犯に食料支援物資を届ける活動を始めたのです。」
「将来ですか? ヨーロッパかどこかのビザを申請しようと思っていましたが、いまは一人でできる自信がありません。チェンマイでできるだけ自力で暮らしています。プロジェクトの仕事をもっと見つけたい。タイのビザ制度は複雑になり、入国管理当局も厳しくなっています。
子どもの頃、祖母はもち米とココナツとジャガリー(粗糖)をバナナの葉で包んで蒸した『モン・ペッ・トック』をたくさん作りました。私たちや近所の人たちが集め、僧侶に配るのです。僧侶は家に来て、感謝として仏教の教えを語ってくれました。私は今もチェンマイでそれを食べるのが好きです。家は雨季の豪雨で2度浸水し、服をたくさん失いました。
ミャンマーに戻って自分の旅行会社を立ち上げたい。でも、それがいつ可能になるのか分かりません。」
テット・ミャット・ポーン・ナイン(大学生、ソー・モー・ナインの息子)「私の家族はエーヤワディ川沿いのピェー出身です。父のソー・モー・ナインは、無料の葬儀サービスや医療支援、酸素の確保、輸血用の血液提供などに取り組む、よく知られた実業家で慈善家でした。町で広く知られており、クーデター前はNLD(国民民主連盟)政権とも協力していました。コロナ禍は大変でした。父は、軍政の手配リスト——当局が『影響力のある人物』とみなす人々——に載りました。軍はピェーで若い抗議者2人を殺害し、私たちは無料葬儀サービスを提供しました。2人の墓碑には『革命の殉教者』と刻まれ、町中の人が集まりました。
父は逮捕され、運送業と関連団体は閉鎖されました。父は家族との面会を求め、その機会に逃げました。川を渡り、船で移動しながら10日間身を隠しました。しかし、知られた存在であることがかえって足かせとなり、ヤンゴン近郊へ移りました。
その後、警察が再び家に来ました。私は『まだ17歳で、軍のパイロットになりたい』と言いました。彼らは私を空軍基地に招きましたが、私たちは代わりにヤンゴンへ向かいました。今なら笑えますが、当時は本当に怖かった。
ピェーにはもう何も残っていません。軍がすべて押収しました。だから名前は出して構いません。失うものは何もありません。」
「父はヤンゴンのアパートで何か月も身を潜め、孤立のために精神的に不調をきたしました。そこで母は、気を紛らわせる工夫で父を支えました。箸とつまようじを買い、父はエッフェル塔の模型を作りました。時間を忘れて没頭するうちに、父は心の健康を取り戻したのです。ヤンゴンにはエッフェル塔を2つ残し、父はメーソートで3つ目を作って、資金集めイベントのチャリティー抽選会に出品しました。父はいま、ティッシュ箱やペン立てなどの注文もこなし、母の店では接客もしています。絵も描き、逃亡中にはオンラインのデッサン講座も受けました。講師は、同じく逃亡中だったCDMの教師でした。
私はメーソートのミャンマー移民向け私立学校に通い、チェンマイで卒業しました。その後、米国に登録されたオンライン大学『パラミ』に出願し、2023年に全額奨学金で合格しました。4年制の学士課程で統計学とデータサイエンスを学んでいます。母はピェー料理の屋台を営み、地元の特製ライスサラダを売っています。地元では有名です。
私たちの将来は不確かです。オーストラリアに庇護申請をしました。新しい場所で新しい人生を始めるのは簡単ではありません。しかし、ここでは人が人を助け合う連鎖が生まれました。」
*印は身元保護のため、話者が選んだ名前である。(原文へ)
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アフガン国境で緊張激化、パキスタンが反撃
【イスラマバード/カブールLondon Post】
パキスタン治安部隊は2月26日、係争地の国境線デュアランド・ライン沿いで、アフガニスタン側から「一方的な発砲」と越境攻撃があったとして、当局が「強力かつ抑制的な対応」と表現する対処に出た。
衝突は、パキスタンがアフガン国境付近で、テヘリケ・タリバン・パキスタン(TTP)の武装勢力キャンプとみられる拠点に対し「精密空爆」を行った数日後に起きた。イスラマバードは、空爆は国内で最近急増している襲撃の実行勢力を標的にしたものだと説明している。
アフガニスタン当局は、報復作戦を開始し、パキスタン軍の哨所(前哨拠点)を制圧したと主張した。これに対しパキスタン側は、主張は根拠がないとして強く否定し、いかなる軍の拠点も陥落していないと確認した。
情報相は、衝突でパキスタン兵2人が死亡し、3人が負傷したと明らかにした。さらに、治安部隊はアフガン側の武装勢力に相当の損害を与えたとし、パキスタン側に大規模な損失が出たとのアフガン側の主張や、要員が拘束されたとの見方を否定した。
「一方的な発砲に対し、パキスタンは強力かつ的確に対応している。」タラル情報相はこう述べ、領土防衛のための措置を継続すると強調した。
パキスタン当局によると、アフガン側から発射された迫撃砲弾が国境沿いの集落に着弾したが、民間人の死傷者は報告されていない。予防措置として、影響地域の住民は安全な場所へ避難したという。
緊張の再燃は、日曜日に実施されたパキスタン軍の航空作戦を受けたものだ。軍は、TTPに関連する武装勢力少なくとも70人を殺害したとしている。イスラマバードは以前から、TTPがアフガニスタン国内に安全な拠点を確保して活動していると非難してきたが、カブールとTTPはいずれも否定している。
パキスタン外務省報道官のタヒル・アンドラビ氏は、先の攻撃は「精密作戦」であり、武装勢力による暴力が激化する中で実施したと説明した。同氏は、越境の脅威から国民を守るため、パキスタンは対処を継続する考えを示した。
パキスタン国内の武装攻撃は近年急増しており、当局はその多くをTTPと、非合法化されたバルチ分離主義武装勢力によるものだとしている。パキスタン政府は、アフガン領が攻撃の拠点として利用されないよう阻止することをアフガン政府に繰り返し求めてきた。
カタールの仲介による停戦でここ数カ月は緊張が和らいだものの、全長2611キロの国境線では散発的な事件が続いている。過去の協議も恒久的な解決には至らなかった。
双方が非難を応酬するなか、パキスタン当局は、自国の行動は防衛的かつ限定的であり、紛争の拡大ではなく武装勢力への対処を目的としていると改めて強調している。
「パキスタンは、領土保全と国民の安全を確保するために必要なあらゆる措置を取る。」情報省はこう述べ、国境地帯の安定は、地域で活動する武装勢力に対する実効的な措置にかかっているとの立場を示した。(原文へ)
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核秩序が揺らぐなか、ラテンアメリカは『非核』59年を迎える
OPANAL加盟国は、いかなる主体であれ、いかなる状況であれ、核兵器を二度と使用しないよう求めた。さらに、世界には約12,241発の核弾頭が存在すると強調した。
【メキシコシティーINPS Japan=ギレルモ・アヤラ・アラニス】
ラテンアメリカ・カリブ海を「非核兵器地帯」とするトラテロルコ条約が、59周年を迎えた。世界各地で地政学的緊張と武力紛争が続き、科学者らが「終末時計」を「核による破局まで85秒」に進めるなかでも、その原則は揺らいでいない。|英語版|スペイン語|
2月14日に発表された声明で、ラテンアメリカ・カリブ海核兵器禁止機関(OPANAL)の33加盟国は、現下の国際情勢と国際秩序の再編に深い懸念を表明し、核兵器国による核兵器使用のリスクが高まっていると警告した。
加盟国は、「いかなる主体であれ、いかなる状況であれ、核兵器が再び使用されることはあってはならない」と訴えた。世界には約12,241発の核弾頭が存在し、その多くが高い即応態勢に置かれていると強調した。
メキシコ国立自治大学(UNAM)で国際関係学・ラテンアメリカ研究の博士号を持つマリア・クリスティーナ・ロサスは、トラテロルコ条約には、核兵器を国際システムにおける「生存の担保」とみなす発想そのものを断ち切る重要性を、世界に改めて思い起こさせる力があると語る。
「戦術核であれ戦略核であれ、核兵器が一度でも使用された日、私たちは後戻りできない閾値を越える。すべてが終わる―。」ロサスはこう述べた。あわせて同条約の起草を主導したアルフォンソ・ガルシア・ロブレスの言葉を引き、「国際安全保障を促進する最良の道は軍縮である。」と強調した。
新OPANAL事務局長が直面する課題
OPANAL事務局長にフアン・カルロス・オルテガ・ビグリオネ大使が新たに就任し、同機関は複数の課題に直面している。たとえば、核軍縮を国際アジェンダの中心に改めて据え直すことだ。米国とロシアが、自国の利益が脅かされると判断すれば核兵器の使用もあり得るとの言及を強める状況では、なおさらである。
国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」によれば、世界の核兵器の約90%は米国とロシアが保有している。
もう一つの大きな課題は、核保有国に対し「消極的安全保障(ネガティブ・セキュリティ・アシュアランス)」へのコミットと遵守を求めることである。核兵器を持つ国が、非核兵器国を核で威嚇したり攻撃したりしないという保証だ。ドナルド・トランプのように、米国の安全保障や防衛への脅威だと見なせば核兵器使用を排除しない指導者がいる現状では、この点はいっそう重みを増す。
この理屈に異を唱え、ラテンアメリカ・カリブ海地域は核兵器で他国を威嚇していない以上、核によって威嚇される理由もない―その点を明確にすることが重要だ。」多国間主義や軍縮を専門とするロサスはINPS Japanの取材に対してこう語った。
ラテンアメリカは「トランプ政権の作戦拠点」になったのか
米国がコロンビア、キューバ、メキシコなどに対する政策を厳格化し、より強硬な局面ではベネズエラをめぐって軍事的手段も辞さない姿勢を示してきたことに触れつつ、ロサスは、ラテンアメリカとカリブ海が「トランプ政権の作戦拠点になった。」との見方を示す。ベネズエラ産石油の確保やパナマ運河をめぐる対処、ハビエル・ミレイ政権下のアルゼンチンとの関係などを通じて利益を得る一方で、中国の地域内での存在感を弱めたという。
さらにロサスは、地域の結束の欠如が利用され、米大統領の利益拡大につながってきたとみる。「地域は分断され、私たちは呆然として対応できない。トランプは脅しの局面で関税を非常に効果的に使ってきた。『言うことを聞かなければ関税を課す』と言い、実際に課す。国々を分断するのがうまい。これは認めねばならない。彼は二極化させ、分断し、脅す」。
国連などの多国間枠組みにおいても、OPANALは軍縮を前進させるうえで重要な役割を担う。具体的には、4月27日から5月22日までニューヨークで開催予定の第11回核不拡散条約(NPT)運用検討会議、ならびに同じくニューヨークで11月30日から12月4日まで予定されている核兵器禁止条約(TPNW)第1回運用検討会議などが挙げられる。
トラテロルコ条約59周年に合わせ、メキシコ政府は、同条約が「諸国民の平和に向けた大きな一歩」として国際社会に広く認められていることを改めて強調した。メキシコのクラウディア・シェインバウム大統領は、トラテロルコ条約を同国外交の重要な柱の一つと位置づけ、メキシコが今後も世界の平和構築に積極的な役割を果たし続けるとの考えを示した。
トラテロルコ条約に対するラテンアメリカ・カリブ海諸国の妥当性とコミットメントは、発効から約60年を経たいまも、この種の兵器体系の廃絶が、実行可能な政治決定であることを示している。同地域の実績は、すでに他地域で設けられた4つの非核兵器地帯、ならびに「核兵器のない領域」としてのモンゴルと併せ、核という大量破壊兵器を前提としない集団安全保障が可能だという考えを補強している。(原文へ)
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