【キガリIPS=ノエル・E・キング】
ルワンダ大虐殺でGilbert Nshimyumukiza(21)の記憶に最も残っているのは、兄弟で重症を負った父親を家に運ぶ途中、突然雨が降り出してきたことである。
地面は泥で滑りやすくなり身動きが取れなくなった。しかも、父親の容態は悪くなる一方。彼らにできることは父親にシートを被せ、息を引き取るのを静かに待つことだけだった。
Nshimyumukizaは「雨が降ってきたんだ。私はとても幼くて、ただ座って泣いていたが、誰も助けてはくれなかった」と当時を振り返る。
ルワンダの多くの若者は、Nshimyumukizaと同様の悲惨な経験をしている。幼くして親を亡くし孤児となった若者たちは、学校を中退することが将来どのような影響を及ぼすかなど考えることもできなかったのだ。
大量虐殺が起きたのはNshimyumukizaが9歳の時である。ルワンダではフツ族民兵の武装組織『インテラハムウェ(interahamwe)』と強硬派のフツ政権により暴徒化した市民が、推定80万人のツチ族と穏健派フツ族を100日の間に殺戮した。
現在、失業中のNshimyumukizaは「将来の見通しは極めて厳しい」と打ち明ける。心理的・肉体的問題だけでなく、基礎学力の低下といった問題も彼を苦しめているのだ。
Nshimyumukizaは「政府は学力の平均点が3で中等学校を卒業した者に対して、国立大学への入学を許可するとしているが、私の成績は2.8だった」とIPSの取材に応じて語った。
大虐殺の勃発以後、Nshimyumukizaは授業に全く集中できなかったという。「政府は生き残った我々に学費を与えてくれたが、我々が欲しかったのは食べ物、衣服、靴といった生活に必要な最低限の物だ。私は路上で理髪の仕事をしていたため、学校にも満足に行けなかった」
Noel Munyarwaは当時10歳だった。いつか自家用車を持つことを夢見ている、数学の得意な悪戯好きの小学生であった。
Munyarwaは現在、ルワンダのNGO団体で(同年代の)外国人研修生のために料理や掃除を行うなど住み込みの仕事をしている。収入は食事付きで1ヶ月40ドルである。
(Munyarwaの暮らす)Nyaruguru郡で虐殺が始まった頃、Munyarwaの家族は地元の教会に逃げ込んだ。しかし、フツ族の民兵組織(インテラハムウェ)は教会を包囲し、窓から侵入して次々に人々を殺害したという。
IPSとの取材の中でMunyarwaは消え入るような小さな声で、苦悩に顔を歪めながら応じた。「私の母と2人の姉は手榴弾で死んだ。妹と私は無我夢中で走り、他の人々のあとを追ってブルンジ共和国まで逃げた」
6ヵ月後、彼らがルワンダに戻った時には学校などどうでもよかった。ルワンダ政府は若者に学費を支給したが、それ以上のことはしなかった。
Munyarwaは「本当に必要なものは靴と鉛筆、そして食糧だ」と語った。彼の家族は勿論これらを買うことはできなかった。そこで彼は、他の孤児仲間と共に道端でタバコやビスケットを売った。その後、料理・掃除・洗濯など住み込みの仕事もした。
Emmanuel Ngabanzizaは小学校の頃、授業中に騒ぎたくなることもあったと告白する。しかし、彼の父は厳格で、成績が下がればよく彼を殴っていたという。
大虐殺が勃発した当時、Ngabanzizaの両親は幼い彼の目の前で射殺された。彼と6人の兄弟・姉妹は家に逃げ込んだが、そのうち4人は銃で次々に殺害された。Ngabanzizaと2人の姉は村人たちと共にブルンジへ逃げた。
Ngabanziza はIPSとの取材に応じ「(我々を含む)約150人が野原を抜けて走ったが、そこにはすでにナタを持った多くの民兵が待ち構えていた。ブルンジに逃げることができたのは50人ほどだったと思う。残りは皆殺された」と話した。
ブルンジの難民キャンプで4ヶ月を過ごした後、Ngabanzizaはルワンダに戻り、学校にも行った。しかし、学校での成績は芳しくなかった。
「私はこれまでの悲惨な経験からすっかり意気消沈し、精神的にも不安定になった。しかし、こんな私を助けてくれる人はいなかった。学校から取り残されたような気分になった」と語る。
虐殺を逃れたルワンダの若者の中には、自分の生活を何とか軌道に乗せようと努力している者もいる。
Serge Rwigamba(26)はこれまでの自分の人生を3つに分けて振り返った。(1)大虐殺勃発以前の気楽な幼少期、(2)殺戮の中で体験した恐怖の時代、(3)現在の生活。
(1)Rwigambaは小学校の頃、ルワンダの民族的背景について全く知らなかった。ある日、先生がフツ族の生徒は起立するように指示した時、Rwigambaも立った。(当時、フツ族の生徒はサッカーが上手で生徒の間で人気があったからだ)。しかし、フツ族の先生は直ぐに彼に座るよう指示。そのとき初めてRwigambaは自分がツチ族であることを知ったのだ。
(2)大虐殺勃発時、13歳のRwigambaはキガリのSaint Famille教会で身を潜めていた。ツチ族とわかれば民兵によって引っ張り出され、射殺・撲殺されるためだ。Rwigambaは女性用のスカートで顔を隠していたため、危機一髪のところで命拾いした。しかし、彼の父と兄は殺害された。
(3)現在、RwigambaはKigali Free Universityの学生で『Kigali Genocide Memorial(キガリ虐殺記念館)』のガイドを務めている。彼は今も悲惨な暗い過去の記憶に苦しんでいる。
Rwigambaは25万8,000人の死者が眠る14箇所の共同墓地を眺めながら、「私の父と兄もこの墓地のどこかに埋葬されている。私はここで働くことができて幸せだ。毎日、彼らに会うことができるから」と取材に答えた。
虐殺の責任者を許すことができるかという質問に対しては、(多くのルワンダの若者と同様)Rwigambaも口を閉ざす。
「我々は天使ではない。『人間』なのだ。その質問は、まるで我々が『人間』ではないかのように振舞えと言われているのと同じだ」と述べた。
Rwigambaは他の若者よりも幸運なほうだ。彼の母親は虐殺を逃れ、その後赤十字で仕事を始めた。そして現在、彼女は仕事を引退したためRwigambaの学費を出すことができない。しかし、Rwigambaの記念館での仕事の収入は1ヶ月240ドルであるため、これらの費用を賄うことはできる。
Rwigambaは自分が(他の若者と比べると)幸運なほうであり、同じ境遇の仲間のことを共感できると語る。しかし一方で、彼は「虐殺を生き抜いてきた若者はけじめをつけるべきだ」と話す。「収入を得ることができるよう、彼らに対して少しでも仕事をするよう促していくべきだ。彼らこそが率先して悲劇を乗り越えていかなければならない」と述べた。
一方、希望を見出せない若者の多くは『言うは易し、行なうは難し』と話す。Munyarwaは「人生が変わっていたら思うが、(実際にどのように変わるのかと問われれば)私にもわからない」と述べた。(原文へ)
翻訳=IPS Japan