【ニューヨークIDN=和田征子】
長崎の被爆者として発言の機会を与えて頂き感謝いたします。
長崎が原爆によって甚大な被害を受けたとき、私は1歳10か月でした。爆心地から2.9キロ離れたところに自宅はありました。市街地は山に囲まれた長崎の地形のおかげで、直撃を受けることなく、これまで生きながらえました。当時の記憶はありません。母は何度も繰り替えし体験を語っていました。
母は山肌に爆心地から火事を逃れて、山越えして市街地に降りてくる蟻の行列のような人々の姿を見ました。体中の火傷のため茶色になり、着けているものもほとんどない、
髪の毛は、血で角のように固まった人たちでした。
家の隣の空き地には、毎日集められた遺体がごみ車(箱形の大八車)で運ばれ、毎日そこで焼かれました。母は誰もがその数にも、臭いにも何も感じなくなっていった、と言っていました。人間の尊厳とは何でしょうか?人はこんな扱いを受けるために造られたのではありません。
アメリカによる初めての核兵器の使用から77年が経ちました。被爆者の平均年齢は85歳となりました。毎年約9000人の被爆者がなくなっています。そのうち、被爆者はいなくなるでしょう。しかし、その前に三度目の核兵器の使用によって、新たな被爆者が生まれるかもしれない、そしてその人たちは私たち被爆者が経験したと同じ苦しみを経験することになるのです。
被爆者の痛み、苦しみ、それは深く、今なお続くものです。愛する者の死、生き残ったという罪悪感、脳裏に焼き付いたままの光景、音、臭い、原因のわからない病気、生活苦、世間の偏見、差別、諦めた多くの夢。それはきのこ雲の下にいた者に被爆者として死に、また生きることを強いるものでした。
2017年に核兵器禁止条約(TPNW)が採択されたとき、被爆者は生きていてよかったと
心から喜びを分かちあいました。長年叩き続けてきた、重い錆びついた扉が、開きはじめ廃絶への道への一筋の光が差し込んできたと感じました。
しかし、その扉の内側に見えたのは、巨大化する軍事費、日々開発進化する大量の兵器でした。
NPT発効から52年となります。世界は何をしてきたでしょうか。非核兵器国と被爆者は核兵器国が、NPTの条項履行を無視していることにいら立ちを感じました。
核保有国とその同盟国は、彼らの不誠実さと傲慢さのために、人類全体が核戦争の瀬戸際にあることを認識すべきです。
日本被団協は1956年の設立時の世界への挨拶で、「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と誓いました。核兵器は、非人道兵器です。無差別に広範囲に爆風、熱線、放射能の被害を、そして何年も続く後遺症をもたらすものです。
被爆者はほかの誰よりも知っています。もし三度、核兵器が使用されたらその結末を喜んで見届ける人は、誰一人残されないことを。
政治に携わる方で、どれだけが被爆者に直接会い、その証言を聞いたでしょうか。
核兵器使用の結末を、どうか知っていただきたい。国を代表してここに出席の皆さん、日本を含め、お一人お一人の良心と英知に訴えたいと思います。この再検討会議において2010年に再確認された核兵器廃絶の「明確な約束」の履行を、誠実に議論していただきたい。
核兵器は人が作り、そして人が使いました。そうであればなくすことができるのも、人の英知と公共の良心であり、そしてその責任にかかっております。
ノーモア 被爆者!
有難うございました。(英文へ)
INPS Japan
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