【ローマIDN=ロベルト・サビオ】
最後の偉大なステーツマンであるミハイル・ゴルバチョフ氏の死によって、ひとつの時代が終焉した。
私は、「ゴルビー(ゴルバチョフ氏の愛称)」が2003年にイタリアピエモンテ州と本部契約を結んでトリノに設立した「世界政治フォーラム(WPF)」の副代表として、彼と仕事をする機会に恵まれた。
このフォーラムには、ヘルムート・コール元独首相からフランソワ・ミッテラン元仏大統領、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ元ポーランド大統領からオスカー・アリアス元コスタリカ大統領まで、世界中から著名人が集まり、世界で何が起きているのかを議論し、それぞれの役割と過ちについて率直に語り合った。
2007年のWPFで、ゴルバチョフ氏が、コール氏との会談で北大西洋条約機構(NATO)の境界線を統一ドイツより先(=東側)に移動させないことを確約する代わりに、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー政権への支援を撤回することに合意したことを出席者に思い起こさせていたことが忘れられない。その際コール氏は、同席していたジュリオ・アンドレオッティ元イタリア首相を指して、「欧州最大の大国(=統一ドイツ)をつくることにそれほど熱心でない人もいる、それはマーガレット・サッチャー氏も同じ立場である。」と応えていた。
アンドレオッティ元首相は、「私はドイツを愛しているから、2つある方がいい。」と発言していた。そして米国の代表団は、このコミットメントを認めながらも、ジェームズ・ベーカー国務長官が、NATOを拡大し続け、ロシアを締め付けようとするタカ派に圧倒されたと不満を漏らしたのである。
こうした西側の対応に関するゴルバチョフ氏のコメントは秀逸で、「(西側諸国は)北方式の社会主義路線を続けようとする(ゴルバチョフ氏が率いる)ロシアに協力するのではなく、それを急いで崩壊させ、代わって条件付きで取り込めるボリス・エリツィン氏を迎えた。」というものであった。
しかし、エリツィン氏の後に登場したウラジーミル・プーチン氏は、違った見方をし始めた。
ゴルバチョフ氏はドナルド・レーガン大統領に協力し、冷戦を終結させた。米国の歴史学者らが、共産主義に対する歴史的勝利と冷戦の終結をレーガン大統領に帰結するのは滑稽である。ゴルバチョフ氏がいなければ、強力だが鈍重なソ連官僚機構は抵抗し続け、改革は間違いなく力を失っていただろう。また、ベルリンの壁は崩壊せず、東欧の社会主義諸国に自由の波が押し寄せるのは、紛れもなくレーガン大統領の任期後であっただろう。
レーガン氏以上に、ゴルバチョフ氏がいかに平和と軍縮の道を進もうとしていたかは、1986年のレイキャビク米ソ首脳会談で明らかになった。ゴルバチョフ氏がレーガン氏に核戦力の全廃を提案すると、レーガン氏は「時差があるから、後でワシントンに相談する。」と回答した。
翌日の会談でレーガン氏は、米国が核弾頭の40%を廃棄することを提案していると伝えた。するとゴルバチョフ氏は、「それ以上できないのであれば、そこから始めましょう。しかし、我々は今地球と人類を何百回も破壊できることを忘れないでください。」と答えた。辞任をちらつかせるほどだったキャスパー・ワインバーガー米国防長官が、当時もっと先を見据えていたならば、ロシアの核武装解除が間違いなく米国の利益になっていたであろうことは、いずれ時が証明するだろう。
エリツィン氏はゴルバチョフ氏に屈辱を与え、彼に取って代わろうと、あらゆる手を尽くした。ゴルバチョフ氏からあらゆる年金や役得、ボディーガード、公用車などを剥奪し、数時間でクレムリンを退去させた。しかし、プーチン氏の見方によれば、ゴルバチョフ氏は実質的に人民の敵になったのだ。
ゴルバチョフ氏に対するプロパガンダは、粗雑ながらも効果的であった。同氏はソ連の偉大な悲劇の終焉を指揮し、西側を信奉していたとされた。その結果ソ連はNATOに包囲され、プーチン氏は歴史の名の下に、ゴルバチョフ氏が放棄した偉大な力の少なくとも一部を回復することが自らに求められている義務だと考えていた。
エリツィン氏登場以来、ゴルバチョフ氏に寄り添ってきた人々は、歴史の流れを変えた長老政治家が、目前で起きている現実に深く苦悩している様子を目の当たりにした。もちろん、マスコミは、ロシア国民に多大な犠牲を強いるエリツィン時代の深い腐敗については、無視することを選んだ。
エリツィン政権下、米国の経済学者チームがロシア経済全体を民営化する政策を打ち出し、ルーブルの価値と社会サービスはたちまち崩壊した。平均寿命は一気に10歳も短くなった。私は、当時ホテルで食べる朝食が、ロシア人の平均的な月額の年金と同じ値段であることに大きな衝撃を受けたことを覚えている。黒装束の老婦人らが、わずかな貧しい持ち物を路上で売っているのを見たときは、深い悲しみに包まれたものだ。
その一方で、エリツィンの友人である一部の党幹部らが、売りに出された大型国営企業をバーゲン価格で買い占めていた。
しかし、金持ちのいない社会で、どうやってそれを実現したのだろうか。ジュリエッタ・キエーザ氏は、トリノの『ラ・スタンパ』紙の調査でこのことを記録している。
米国の圧力で、国際通貨基金(IMF)はドルを安定化するために50億ドルの緊急融資を行った(1990年)。このドルは、ロシア中央銀行には届かず、IMFからも何の疑問も呈されなかった。後のオリガルヒたちはこれを分け合い、突然億万長者になっていることに気がついたのである。
エリツィンは政権を去らなければならなくなったとき、自分とその取り巻き連中の免責を保証してくれる後継者を探した。
エリツィン氏のあるアドバイザーが、「チェチェンの反乱を収拾できる」人物としてプーチン氏を紹介した。そして、プーチン氏は、オリガルヒが政治に関与しないことを一つの条件に合意した。しかし、そのうちの1人であるミハイル・ホドルコフスキーは、この協定を守らず、政権に反対する動きを見せたため、財産を没収され、投獄されたのは周知の通りである。
ゴルバチョフ氏は最後のステーツマンである。トリノに右派政党の北部同盟(レガ・ノルド)が登場したことで、世界政治フォーラムを開催するという合意は、なんとキャンセルされてしまった。フォーラムはルクセンブルグに移り、その後、ローマのイタリア人財団が環境問題に関する活動の一部を(非常に先見の明があった)引き継ぐことになった。
ゴルバチョフ氏の右腕であり、ソ連共産党時代から民主化への移行期に同氏の報道官を務めた優秀な分析家であるアンドレイ・グラチョフ氏はパリに移り、ロシアに関する様々な分析を発信している。糖尿病を患うゴルバチョフ氏は、母親がウクライナ人であったため、ロシアによるウクライナ侵攻を個人的な悲劇として体験した。厳しい監視のもと病院に引きこもり、ついに8月30日命を落とした。ステーツマンの時代は終わり、歴史の主人公たちによる討論の時代も終わった。
ゴルバチョフ氏以降、政治家らはステーツマンの資質を失ってしまった。彼らは次第に議論を棚上げにする一方で選挙での成功や、短期的な成果を要求するレベルに後退するとともに、有権者の理性ではなく、容赦ないフェイクニュースキャンペーン等によって左右される彼らの本能に目を向けるようになった。
これは、9月4日のチリでの憲法投票から、ジャイル・ボルソナロブラジル大統領、ボンボン・マルコスフィリピン大統領、プーチン氏、ひいてはヴォロディミル・ゼレンスキー氏まで、米国のロナルド・トランプ前大統領が世界に輸出することに成功した流儀である。
そして、私は自分の苦渋と失望を書き留めることになった。ゴルバチョフ氏という私の師匠の一人の死に対してだけでなく、今や決定的に終焉を迎えたと思われる時代、つまり、大きなリスクを伴いながら、平和(Peace)と国際協力という大きな目標に向かって、世界を揺り動かすことができたPのつく政治という時代に対してである。
そして、書き続けること。ほとんどの人が気づいていない不快な真実は、敵対的な介入や嘲笑によってすぐに埋もれてしまうだろう。少し前にグラチェフ氏が電話で私に言ったことは正しかった。「ロベルト、私とあなたの犯した間違いは、私たちの時代を生き延びてしまったということだ。私たちも気をつけましょう。私たちは結局、厄介者になるのですから……。」(原文へ)
INPS Japan
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