【ブエノスアイレスIPS=マルセラ・バレンテ】
アルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がコンクラーベ(法王選挙)で第266代ローマ法王フランシスコに選出される中、本国では軍事独裁政権時代(1976~83)のカトリック教会に役割について、教会内部からも公然と批判が噴出してきている。
バチカンでベルゴリオ枢機卿の法王選出が発表されると、同氏が独裁政権に加担したのではないかとの疑惑報道が世界を駆け巡った。アルゼンチンでは2005年に最高裁が軍政下の犯罪を不問とする特赦法に違憲判決を下して以来、人権侵害に関与したとされる容疑者を裁く公判が各地で開かれているが、この報道も、過去数十年に亘って賛否両論を呼びながら未解決のまま経過してきた独裁政権時代の「汚い戦争」にまつわる数々の疑惑の氷山の一角に過ぎない。
アルゼンチン司教会議は独裁政権時代の教会の対応について数か月前に謝罪と事実関係の究明を表明しているが、「貧者への選択肢を求める聖職者の会(Curas en la Opción por los Pobres)」「第三千年紀を求めるクリスチャンの会(Cristianos por el Tercer Milenio)」「解放の神学集団(Colectivo Teología de la Liberación)」などの団体は、こうした教会側の対応について、自己批判が足りないと批判を強めてきている。
「こうした議論が公に行われ、私たちが真実を明らかにするため実際に何が起こったかを追求している現在の状況は健全なものだと言えます。」と、ブエノスアイレス大学の研究者で「現代アルゼンチンの宗教と社会に関するワーキング・グループ」を主宰するクラウディア・トーリス氏はIPSの取材に応じて語った。
アルゼンチンのカトリック教徒を2分することとなった、司教会議による声明は2012年11月に発せられた。同司教会議は「イエス・キリストへの信仰こそが、我らを真実と正義と平和に導く」と題された声明の中で、「独裁政権時代に本来であれば支援すべきであった人々を支援しなかったことを謝罪する」とともに、今後は「より徹底的な調査を行う」ことを約束した。
しかしこの声明は、独裁政権によって当時遂行された「国家によるテロ」を非難する一方で、「反体制ゲリラの暴力によってもたらされた死と破壊についても我々は知っている。」という文言も含んでいたことから、当時の独裁政権に反対した人々から、司教会議の認識を批判する声があがっている。
「第三千年紀を求めるクリスチャンの会」は、この声明は独裁政権と一部の高位聖職者の間の共謀関係について相変わらず否定していることから、「内容が不十分だ」と指摘したうえで、「教誨師として軍に従事していた聖職者達に情報を提供するよう要求するとともに、忠実な信徒を混乱させ苦しめたスキャンダルに満ちた状況に終止符を打つべきだ。」と語った。
一方、「貧者への選択肢を求める聖職者の会」は、クリスチアン・フォン・ウェルニヒ司祭が独裁政権に直接的に協力した人権侵害の罪で終身刑の宣告を受けたにもかかわらず、司祭職を解任されなかったことや、人道に対する罪で有罪判決を受けている元独裁者のホルヘ・ラファエル・ビデラ氏が、引き続き聖体拝領の儀式を受け続けている事実を挙げ、「カトリック教会がこれまで示してきた多くの姿勢は教義に反するものであり、憤りを覚える。」との声明を発した。
アルゼンチン北部のサンティアゴ・デル・エステロ州のフランシスコ・ポルティ司教は、司教会議の声明を批判した「貧者への選択肢を求める聖職者の会」が作成した抗議書簡に連署したロベルト・ブレル神父を、他の教区に移転させた。
ベルゴリオ枢機卿が新ローマ法王に選出される直前、アルゼンチンのスラム街で貧しい人々と生活や労働を共にしてきた神父らで構成する「貧者への選択肢を求める聖職者の会」は、このポルティ司教による報復ともとれる教会の措置に対して、激しく抗議の声をあげた。
神父らが司教会議に送付した抗議書簡には、「私たちはあなた方を”Estimados”(スペイン語の手紙で用いられる敬称)とは呼びません。なぜなら私たちは卑怯者を尊敬することはできないからです。」「あなた方が司教職を去った際に残念に思うのはこの国の権力者のみでしょう。なぜなら、貧しい人々や農民や先住民族らはこぞってあなた方の退任を祝っていることでしょうから。」等の痛烈な批判が記されている。
これが、3月13日にベルゴリオ枢機卿が史上初のラテンアメリカ出身のローマ法王に選出された頃の、本国アルゼンチンのカソリック教徒を取り巻いていた状況である。
トーリス氏は、「司教会議の声明は、独裁政権時代に広く行われていた強制失踪や政治犯の子どもの誘拐に関する情報を持っているものは名乗り出るよう呼びかけるなど、斬新な内容も含まれていたが、多くのカトリック教徒にとって全体的な内容はあまりにも消極的なものと受け止められた。」と語った。
「教会内の対立は今後も続くのか、また亀裂が一層深まるのか、見守っていかなくてはなりません。」とトーリス氏は付加えた。
トーリス氏は、独裁政権時代、カトリック教会の中には、軍を思想的に支え「いわゆる社会に浸透している共産主義者を排除する」とした政権側の政策を手助けした聖職者がいた一方で、抑圧された人々の立場に立って活動した聖職者もいた、と指摘したうえで、その理由として、当時独裁政権に対するカトリック教会としての統一した立場が存在していなかった、と指摘している。
前者の例が、ラウル・プリマテスタ枢機卿、ヴィクトリオ・ボナミン司教代理、そしてアドルフォ・トルトロ並びにアントニオ・プラザ両大司教のケースである。いずれも既に他界しているが、独裁政権が管理していた秘密収容所で彼らを目撃したとの証言が出てきている。
一方、ハイメ・デ・ネヴァレス、ホルヘ・ノヴァク、ミゲル・エサインら一部の司教と、数十人の神父や尼僧、神学生、在家信者が、独裁政権に抑圧されていた民衆とともに歩む選択をし、政権側による、拉致、強制失踪、殺害の対象にされたり、国外亡命を余儀なくされた。
その結果、2人の司教が独裁政権に反対して命を落とした殉教者と見做されている。一人目は、北部ラ・リオハ州のエンリケ・アンジェレリ司教で、1976年に当局による暗殺ではないかと疑われている交通事故で死亡した。2人目はブエノスアイレス・サンニコラス地区のカルロス・ポンセ・デ・レオン司教で、1977年に同じく疑わしい交通事故で死亡している。
当時、ベルゴリオ枢機卿は、イエズス会のアルゼンチン管区長を務めていた。貧困地区で活動していたイエズス会の司祭2人が(おそらく独裁政権の関係者によって)誘拐されたが、これについて、ベルゴリオ枢機卿が2人の身柄拘束に関与したという見方と、むしろ彼の力によって2人が後に解放されたという見方が対立している。
トーリ氏は、「イエズス会のペドロ・アルぺ第28代総長(広島の原爆直後に医師として被爆者の第一救護にあたった初代日本管区長)が、信仰と並んで社会正義の促進を掲げ、神父らに実践を促したため、貧しい人々とともに社会正義を求める一部のイエズス会士らの活動(=解放の神学運動)は、とりわけ1970年代のラテンアメリカ諸国の独裁政権による迫害(拷問、強制失踪)の対象になったのです。」と語った。
しかし当時アルゼンチンのイエズス会は、ベルゴリオ管区長の指導の下、信仰と政治問題に発展しかねない社会正義の問題の間には一線を画すべきとする伝統的な立場をとる選択をした。事実、ベルゴリオ枢機卿自身が当時の行動について自己弁護した証言の中で、社会正義を求める活動に邁進していた神父らに対して、独裁政権からの迫害を回避するために、活動を放棄するよう強く促した、と述べている。
人権活動家で1980年にノーベル平和賞を受賞したアドルフォ・ペレス・エスキベル氏によれば、「当時のアルゼンチンのカトリック教会には、独裁政権に対する統一的な立場が存在しなかった」と指摘したうえで、「司教の中には独裁政権に共謀した者もいました…しかし、ベルゴリオ枢機卿は違います。」と語った。
エスキベル氏は自ら設立した「奉仕、平和と正義の組織(Servicio de Paz y Justicia)」が最近発表した声明の中で、「ベルゴリオ枢機卿には、最も困難な時期に人権を守るための私たちの活動を支援する勇気がなかったと言えるかもしれませんが、独裁政権と協力したことはありません。」と述べている。(原文へ)
翻訳=IPS Japan
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