【ワシントンIPS=バーバラ・スラビン】
エジプトが、ムバラク独裁体制崩壊後の廃墟の中からより民主的なシステムを作ろうと、四苦八苦している現状は驚くにあたらない。
新たに刊行された中東の政治活動家に関する歴史書には、正義の追求がこの地域に深く根差している一方で、それがしばしば外国勢力の介入によって危機にさらされてきた事実を浮き彫りにしている。
バージニア大学教授で中東の歴史が専門のエリザベス・トンプソン氏は、新著『妨げられた正義:中東における立憲体制を求める闘争』の中で、2011年のアラブの春は「それまでは考えられなかった、しかも現在進行中の出来事」と記している。
タハリール広場に集い、米国が支援するホスニ・ムバラク独裁政権を退陣に追い込んだ若者たちは、1882年に大英帝国軍の軍事介入で革命が頓挫し流刑に処せられたアフマド・オラービー大佐(「エジプト民族主義の父」)の後継者である。しかし一方で、これまでのところ、その「2011年アラブの春」の恩恵に浴しているのは、女性、少数派宗教の信者、世俗派グループの権利抑制を正義と考える「ムスリム同胞団」の創設者ハサン・アル・バンナー氏の後継者たちである。
4月23日、ムハンマド・モルシ大統領自身の法律顧問が、モルシ氏をはじめとするイスラム主義政党の政治家の勢いを挫くためにムバラク大統領(当時)が任命した3000人を超える判事を強制的に引退させる法律に抗議して辞任した。
米国はモルシ新政権による人権侵害を批判しつつも、同政権がイスラエルとの平和条約を維持し続けることをより重視しているようだ。
バラク・オバマ大統領は、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「歴史の弧は正義に向かってしなっている」という言葉を好んで引用するが、だとするならば、中東におけるこの「弧」はきわめて長いものだ。第一次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊したことで、立憲体制に向けた運動は頓挫させられ、欧米列強の植民地主義とつながりを持った自由主義は汚された。そして軍事独裁者やナショナリスト、イスラム集団が権力の座を奪った。
トンプソン教授は、19世紀にエジプトの腐敗問題について批評したオスマン帝国の官僚ムスタファ・アリ氏から、グーグル社の幹部で、2011年にフェイスブックによって民主化闘争を組織したワエル・ゴニム氏まで、中東で正義を求めて奮闘した人々の歴史を書き連ねている。ゴニム氏が2010年にエジプト官憲に撲殺された青年を悼んで開設したフェイスブックには30万人がフォローし、そのうちの多くが、後にタハリール広場に集まった。
他には、トルコ共和国のムスタファ・ケマル・アタトゥルク初代大統領による独裁体制に当初は支持したものの後に抵抗した「トルコのジャンヌ・ダルク」として知られるハリデ・エディブ氏や、イラクの近代史上最大の政治的運動を組織したイラク共産党の創立者ユースフ・サルマーン・ユースフ氏、イランイスラム革命時に若者に大きな影響を与えた(しかし彼の理想はその後の聖職者による政権に乗っ取られた)アリー・シャリアティ氏などが取り上げられている。
新著の販売に際して、IPSは、「この書籍は『敗者の歴史』に関するものなのか?」、「一歩進んで二歩後退という悪循環から抜け出し、中東に機能する代議政治をもたらす方法があるのか?」という2つの質問をトムソン教授にぶつけてみた。
するとトンプソン氏は、最近の中東蜂起を、失敗に終わったもののその後の民主運動の重要な先駆となった欧州の1848年の革命(「諸国民の春」)と比較して、「長期的観点から見なければなりません。アラブの春についての楽観的な見方は、これによってアラブの政治文化に、数十年後にはその成果が実を結ぶような抜本的な変化がもたらされたというものです。」と語った。
またトンプソン氏は、「エジプトの現在の状況が好ましいものではない。」と指摘したうえで、「2011年のムバラク大統領追放の象徴であった女性達は、今では暴漢に襲われるのではないかとタハリール広場に集うことに恐怖を感じています。一方、イスラム政党『ムスリム同胞団』出身のモルシ大統領はイスラム法の厳格な適用を求めるサラフィー主義者に気兼ねしている。」と語った。
「しかし、エジプトのメディアはこれまでにない自由を謳歌しており、中東での情報流通は史上最も自由になりました。つまり、ベルリンの壁崩壊のニュースを国営メディアが国民に報じなかった1989年のシリアのような状況とは明らかに異なるのです。」とトンプソン氏は語った。
それでも、過去150年の間、安全保障と外国勢力からの独立を求める願望が、人権という自由主義的な観念に、幾度となく、優先されてきた。
トンプソン氏は新著の中で、外国勢力からの介入について、多くの興味深い「歴史のイフ」を提示している。
もしフランスが、第一次世界大戦後にシリアを占領することなく、ファイサル一世の下での立憲君主制を認めていたらどうだったであろうか?しかし現実には、フランスは誕生間もないシリア・アラブ王国を認めず、軍事力で圧倒し、第二次世界大戦後までフランス委任統治領シリアとして占領下に置いた。
もし、アラブ社会党のアクラム・ハウラーニー党首が1958年にエジプトのガマル・アブデル・ナセル大統領との間に、アラブ連合共和国の樹立(シリアとエジプトの合邦)に合意しなかったらどうなっていたであろうか?ナセル大統領はシリアの諸政党を非合法化し、エジプト人による強権的な支配を進めたため連合は間もなく解消。シリアでは63年にバース党がクーデターをおこし今日に続くアサド政権樹立へと繋がった。
また本書は、ヤーセル・アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長のナンバー2でアブー・イヤードとして知られるサラーフ・ハラフ氏などの重要人物に光をあてている。ハラフ氏は1991年にアブ・ニダル派に暗殺されたが、かつてのテロ活動の首謀者からイスラエルとパレスチナ2国家解決の支持者へと変貌を遂げた人物である。かつてハラフ氏の助言を頼りにしていたアラファト議長は、1988年にPLO司令官のアブ・ジハード氏をイスラエルに暗殺されたのに続いて、ハラフ氏を失っていなければ、晩年の活動をより賢明に導いたかもしれない。
トンプソン氏が言うように、もしアラブの春が「二次の世界大戦と冷戦によって頓挫させられた闘争の反復」であるとしたならば、それは、いまだに勝利したとは言い難い闘争なのである。(原文へ)
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩