【ワシントンDC/RNS=ヴィクトル・ガエタン】
歴代教皇の中でも最多の外遊を重ねた一人となったフランシスコ教皇は、かつては旅行を避け、週末にスラム街を訪れる程度だったことで知られていた。しかし彼は、常に予想を覆す存在だった。
2013年3月にアルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオがフランシスコ教皇として即位したとき、世界的な外交手腕を発揮するとは多くの人が予想していなかった。ブエノスアイレス大司教として、彼は外国への渡航を避けていた。なぜなら教区(スペイン語で「mi esposa(私の妻)」と呼んでいた)を離れることを好まなかったからだ。公共交通機関を利用し、週末には地元のスラム街に足を運ぶことを選んだ彼は、やがて世界を巡る教皇となった。
彼は「周縁(ペリフェリーア)」──ローマや欧米の権力の中心地から遠く離れた地域──を優先し、欧州にありながら普遍的な視点を持つ独立した存在としてバチカンの姿を回復させた。あまりに独立した彼の姿勢に、西側の諜報機関は警戒し、教皇選出前から監視し、中傷キャンペーンを展開したほどだった。
フランシスコの外交は、しばしば言語の壁を超えた象徴的なジェスチャーによって伝えられ、信仰を越えた国境をまたぐ新たな関係を築いた。
彼は外交的孤立政策に従うことも拒んだ。東西冷戦の緊張が再燃する中でも、フランシスコはロシア正教会のキリル総主教に「どこでも会いましょう」と申し出た。この願いは2016年、ハバナの空港で2人が歴史的な初会談を果たすことで実現した。会談は中東とアフリカにおけるキリスト教徒の虐殺に立ち向かう共通の努力によって実現された。
ロシアのウクライナ侵攻後も、フランシスコはキリルやロシアへの直接的批判を避け、「キリスト者同士の兄弟殺しの暴力」と表現した。NATOの「ロシアの扉を叩くような行動」が侵攻の一因になったとの発言により批判も受けた。
外交の土台は、前任のベネディクト16世とは異なり、彼のアルゼンチン時代の経験にある。36歳という若さでイエズス会アルゼンチン管区の責任者に任命され、1974~83年の「汚い戦争」時代には、反体制派の人々をかくまい、国外へ逃がした経験を持つ。

この経験により、彼は人間の尊厳を重視し、イデオロギーへの不信感を持つようになった。そして、政治家ではなく牧者として人々に寄り添う姿勢を貫いた。
2007年、ブラジル・アパレシーダで開催された中南米司教会議では、ベルゴリオ枢機卿が最終文書を編集。「福音の宣教者としての弟子たれ」と呼びかけたこの文書は、彼の教皇職の設計図とされる。
イエズス会士として初の教皇となったベルゴリオは、教会を「快適圏」から連れ出す運命にあった。教皇最初の使徒的勧告『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』では「周縁に出向くように」と信徒に呼びかけた。
教皇名「フランシスコ」の由来となったアッシジの聖フランシスコもまた外交官だった。1219年、聖地でイスラムのスルタン、マレク・アル・カミルと会談した逸話は有名である。
2014年、イタリア国外で最初に訪問した欧州の国はアルバニア。最大宗教がイスラム教のこの国を選んだのは、宗教間の調和を示すためだった。

イスラム世界への働きかけは、単なる対話以上の意味を持っていた。宗教を通じて平和を築こうとする意志だった。ベネディクト16世の発言が原因で2011年に断絶していたアズハル大学のアフマド・タイーブ総長との関係も、2015年の謝罪特使派遣、16年のバチカン招待、17年のカイロ訪問を経て修復された。
そして2019年、アラブ首長国連邦(UAE)アブダビにおいて「人類の友愛に関する文書」に共同署名。宗教の名を利用した暴力と過激主義に対抗する協力を宣言した。
その流れの中で、2020年の回勅『フラテッリ・トゥッティ(すべての兄弟たち)』が生まれ、教皇はバーレーン、バングラデシュ、イラク、ヨルダン、モロッコ、オマーン、UAEなどのイスラム諸国とも関係を深めた。
2021年、教皇はイラクの聖地ナジャフでシーア派の最高権威アリー・シスターニ師と会談。細い路地を歩いて訪問し、米国による「占領者」としての面会を拒んできた同師と誠実な対話を実現した。

2019年には南スーダンのキリスト教徒である大統領と副大統領3人をバチカンに招き、内戦後の和解を促す黙想会を開いた。そして会議後、彼らの足元にひざまずき、一人ひとりの足に口づけするという驚くべき謙遜の行動をとった。
2014年のベツレヘム訪問では、イスラエルの分離壁の前でポープモービルを降り、赤い「フリーパレスチナ」の落書きの上に手を当て祈りを捧げるという、全世界に中継された象徴的な行為もあった。イスラエル・ハマス戦争後には、ガザ唯一のカトリック教会へ毎晩電話をかけ続け、最後の電話は4月19日、彼の死の2日前だった。
外交は通常、秘密裏に行われるが、フランシスコはその実践を広く開かれたものとした。経済的・軍事的利害から自由なバチカンは、万人の共通善を追求できる存在として、政争に巻き込まれることなく行動した。教皇フランシスコは『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』の中で、外交団や信徒に向けて、世界との関わりにおいて指針となる4つの原則を示している。各原則がどのように実践されたかを簡単に見ることで、それらの意味がより具体的になる。
第一に、「時は空間に勝る」。
教会は、神の働きは歴史の中に現れると信じているため、キリスト者の務めは結果を操作しようとするのではなく、善いプロセスを始めることにある。やがて時が経つにつれて、前向きな結果が現れるのだ。

その精神に基づき、フランシスコ教皇の外交チームは、1980年代から交渉が続いていた「司教任命に関する中国との合意」にこぎつけた。米国のマイク・ポンペオ国務長官などから批判を受けたものの、この合意は、使徒たちにまでさかのぼる司教職の継承を維持するという、カトリックの秘跡の一貫性にとって極めて重要な要素を守った。また、中国国内で並立していた「公認教会」と「地下教会」という2つの教会構造の分断を癒す第一歩にもなった。この合意により、これまでに11人の司教が共同任命されている。
次に、「現実は観念に勝る」という原則がある。
この考えは、2014年にバチカンが仲介した米国とキューバの国交正常化において明確に示された。両国間には深い不信感があったが、ローマは保証人として介入した。フランシスコにとって、過去のイデオロギー論争は、キューバとアメリカ双方の人々の最善の利益には関係のないものだった。
第三に、「一致は対立に勝る」という原則がある。
2016年、コロンビアの和平交渉が決裂寸前となった際、当時の現職大統領と前大統領の対立が一因だった。フランシスコ教皇は両者をローマに招き、2人のカトリック信徒の助けも得て、霊的権威による説得を試みた。その6か月後、コロンビア政府と主要な反政府組織FARCは和平協定に署名。教皇は約束通り、その3か月後に現地を訪問した。こうして「一致」が確認された。
最後に、「全体は部分の総和よりも大きい」という原則がある。
ウクライナにおける教皇の外交努力は、主に西側諸国が対話を放棄したことで挫折を重ねた。教皇は、キリスト教全体が神聖なものであることを伝えようとし、争う派閥間でも平和が見出されるべきだと訴え続けたが、その在位中、情勢は対立へと向かっていた。それでも教皇は、すべての人々への人道支援を継続した。
そして、モスクワとワシントンという主要な当事国が外交によって戦争の終結に再び乗り出したとき、フランシスコ教皇の姿勢は正しかったことが証明された。(原文へ)

(ヴィクター・ガエタン氏は『ナショナル・カトリック・レジスター』の上級特派員であり、2021年刊行の著書『God’s Diplomats: Pope Francis, Vatican Diplomacy, and America’s Armageddon(神の外交官たち─フランシスコ教皇、バチカン外交、そしてアメリカのハルマゲドン)』の著者である。本稿に示された見解は、必ずしもRNS(Religion News Service)の公式見解を反映するものではない。)
INPS Japan/RNS
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