【National Catholic Register/INPS JapanワシントンDC=ヴィクトル・ガエタン】
教皇ベネディクト16世の偉大さは疑いようがない。学識、謙虚さ、そして伝統的な典礼形式を高く位置づけて新しい世代の信徒にも語りかけたことなど、司牧上の的確な判断によって、彼は広く称賛されてきた。教皇在位中には、イエス・キリストの生涯と宣教を扱ったベストセラー三部作『ナザレのイエス』を刊行し、「知の巨人」としての評価を世界的に確立した。

だが、外交面での功績が語られることは多くない。
ベネディクト16世の「世俗的」な成果を正当に位置づけ直すことは、バチカンが長年にわたって続けてきた、目立たない国際活動の連続性を示すうえでも重要である。とりわけ価値が大きい領域は三つある。①キリスト教の諸教派の和解と協力を進める取り組み(エキュメニズム)の推進、②イランのシーア派指導者との関係強化、③ベトナムおよび中国との二国間関係の改善である。
キリスト教の諸教派の和解と協力を進める取り組み
ベネディクト教皇の下で、キリスト教の教派を超えた対話と協力(教派間対話)は着実に前進した。とくにギリシャ正教会、ロシア正教会(ROC)との関係改善は顕著である。在位8年の間に、他のキリスト教諸派との歴史的な溝を埋めようとする取り組みは、これまでになく進んだ。
こうした関係がいっそう重要になった背景には、三つの世界的潮流があった。第一に、とりわけ西側で進むキリスト教の周縁化。第二に、とりわけ中東で深刻化する教会と信徒への暴力。第三に、旧共産圏のロシアにおけるカトリックと正教会の緊張である。

2006年、ベネディクトはトルコ・イスタンブールで、全地総主教バルトロメオ1世と会談した。イスタンブールは、かつて正教会コンスタンティノープル総主教座が置かれた歴史的中心地だが、いまは信徒が数千人規模にとどまる。両者は、カトリックと正教会の双方が崇敬する元主教、聖ヨハネス・クリュソストモスと聖グレゴリオス・ナジアンゼンの聖遺物の前で祈りを捧げた。
滞在中、ベネディクトとバルトロメオ1世は共同声明に署名し、ヨハネ・パウロ2世の時代に中断していた「カトリック—正教会神学委員会」(双方の専門家による協議体)を再始動させた。両者はその後も、教派を超えた対話を継続した。
さらに大きな転機となったのは、ロシア正教会で新たな指導者が選出されたことである。スモレンスク・カリーニングラード府主教キリル(のちの総主教)の登場が、関係改善の流れを強めた。
ローマとモスクワ
ロシア正教会は、世界最大の正教会共同体である。カトリック教会とロシア正教会(ROC)—後者はクレムリンに近いとされる—の関係は、2002年に深刻な低迷を迎えた。ロシア当局が、シベリアで世界最大級の教区を率いていたポーランド人カトリック司教の再入国を拒否したためである。

この冷え込んだ関係を立て直す転機となったのが、ベネディクト16世の即位と、2009年のキリル総主教の選出だった。キリルは20年間、ROCで「外相」に当たる対外部門を率いており、ベネディクトは以前から面識があった。両者は、西側社会の不安定化をめぐる危機感を共有していた。全体主義や権威主義の抑圧を身をもって経験した彼らにとって、行き過ぎた世俗化は社会の揺らぎの兆しであり、新たな抑圧を招きかねないものに映った。さらに、急進的なイスラム主義が少数派キリスト教徒に及ぼす脅威にも警戒感を抱いていた。
両者の下で協力は拡大した。バチカンは「ロシア文化・霊性の日」を後援し、ROC側はベネディクトに献呈するローマでのコンサートを企画した。そして2009年、ベネディクトはロシア(国家)との外交関係を樹立した。
こうした意思疎通の改善は、ポーランドのカトリック教会とロシア正教会の関係にも影響を及ぼした。2012年、ベネディクトの勧めを受けて、ポーランドのローマ・カトリック司教団とロシア正教会総主教(4日間ポーランドを訪問)は共同声明に署名し、第二次世界大戦の惨禍を踏まえつつ、両国民に「相互の偏見」を乗り越えた和解を呼びかけた。この声明は、1965年の「ポーランド—ドイツ和解」の象徴的交換に着想を得たとされる。
ベネディクトがこの合意を重視したのは、教会が和解のモデルを示し得ることを示す事例になると考えたからだった。もっとも、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻は、バチカンとモスクワの関係を冷却させた。それでも教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ2世以来積み上げてきた相互尊重の進展を守るため、ROCを一方的に悪者扱いすることは避けようとした。
ベネディクトとイランのシーア派指導部
聖座(教皇庁)とイランの外交関係は、1954年から続いている。

2006年12月27日、ベネディクト16世はマヌーチェル・モッタキ外相を含むイラン高官代表団と非公開で会談した。モッタキはアフマディネジャド大統領の書簡を教皇に手渡した。バチカンは内容を明らかにしなかったが、当時は国連が「ウラン濃縮停止に応じない」として対イラン制裁を科しており、核問題と結びついたやり取りだった可能性がある。ウィキリークスで公開されたバチカン市国発の米国務省公電は、この問題をめぐるバチカンの動きを米政府が注意深く追っていたことをうかがわせる。
神学者でもあったベネディクト16世は、シーア派イスラムが(教義は別として)実践面ではスンニ派よりキリスト教に近い、という見方があることも念頭に置いていた。モッタキとの会談から5か月を待たずに、教皇は元イラン大統領ともバチカンで会談する。名目は「文明間対話」だったが、教皇は原子力にも触れ、平和目的での原子力利用には権利があるとの趣旨を述べた。また、イランにおける宗教の自由にも言及した。
こうした「対話を重ねる姿勢」は、カトリック教会にとっては新しいものではない。源流は、第2バチカン公会議(教会が現代社会との関係を見直した世界会議)にある。のちにベネディクト16世となるラッツィンガー神父は当時、神学顧問として議論に関わった。公会議では、キリスト教徒とイスラム教徒が、ともにアブラハムの信仰に連なり、唯一で慈しみ深い神を礼拝し、終末の日の審判を信じるという共通点が確認された。さらに1965年の宣言『ノストラ・エターテ』(他宗教との関係を示した文書)は、過去の偏見を離れ、相互理解を進めるよう信徒に促した。こうした流れの延長線上で、2012年にはカトリックの聖職者とシーア派学者が、イランの聖地コムやナジャフで会談するなど、対話は具体的な形でも続いている。
西側諸国がイラン指導部を強く批判していた時期にも、ベネディクト16世がシーア派を含む他宗教共同体との関係を重視したことは、後にフランシスコ教皇が、とりわけイスラム世界の宗教指導者との対話に力点を置く外交を進めるうえでの土台にもなった。
ベトナムと中国

2008年、各国の聖座(教皇庁)駐在大使らとの年次会合で、ベネディクト16世は外交を「希望の技芸」と呼んだ。成果がすぐに見えなくても、何十年単位で粘り強く関係を築く。教会外交の特徴は、この言葉に象徴されている。
ベネディクト16世はアジアを歴訪しなかった(例外は大陸間国家のトルコ)。それでも、ベトナムや中国との関係では、重要な前進の糸口をつくった。
2005年7月、ベトナムの公式代表団がバチカンを訪問した。同じ週、サンピエトロ大聖堂でのミサでは、ハノイ大司教を含む32人の大司教が教会の手続きにより任命される場面もあった。さらに4か月後には、教皇庁で宣教を担当する部門の責任者級の枢機卿がハノイを訪れ、新たに57人の司祭を任命した。
ベトナムには約700万人のカトリック信徒がいる。この厚い信仰共同体が、共産主義体制の下でも信仰が途絶えなかった背景にある、とされる。
2007年1月には、グエン・タン・ズン首相が代表団を率いてローマを訪れ、教皇と会談した。社会主義共和国ベトナムの成立後、政府首脳が教皇と会うのは初めてだった。バチカンはこの会談を「新たで重要な一歩」と表現した。さらに10か月後には、ベトナム国家主席も初めてバチカンを訪問した。
1989年から2011年にかけて、聖座は17回にわたり代表団を派遣し、ベトナム国内の教区を訪れるなど、対話と現地交流を積み重ねた。その結果、ベトナムにおける教会活動の環境も徐々に広がった。節目となったのが、2011年1月の「非駐在の教皇代表」の任命である。常駐ではないが、教皇側の公式窓口を置くことで、政府との連絡を継続的に保てる。ベネディクト16世が築いた土台は、その後、フランシスコ教皇がハノイに常駐の教皇使節を置く流れへとつながった。
中国での和解

中国に関して、ベネディクト16世はバチカンの対中外交を大きく方向転換することはなかった。ただ一方で、中国政府や、いわゆる「愛国教会」に対して、対話を促す配慮ある働きかけを認め、関係者をローマに招くなどの対応も進めた。
2006年6月には、バチカン代表団が北京を訪れ、実務レベルの協議を行った。国際メディアが注目したのは、バチカンと北京の交渉の動きが、約5年ぶりに「表に見える形」で確認できたためである。協議はまず、連絡ルートを開くための慎重な試みだった。同じ頃、中国政府は国内最大の神学校を開設するなど、神学校整備を含む教会の基盤づくりも進めていた。
2007年1月、バチカンは内部会合を開き、中国の教会関係者を枢機卿から宣教師までローマに集めた。参加者には、ベネディクト16世が中国のカトリック信徒に宛てる書簡の草案をまとめた資料が配布された。
この書簡は、聖霊降臨祭(ペンテコステ)に「中華人民共和国のカトリック教会の司教、司祭、修道者など奉献生活者、ならびに信徒各位への 教皇ベネディクト16世の書簡」として公表された。そこでは、信者が一致に向けて歩むことが大きな目標として示された。
これは、ベネディクト16世の対中姿勢の中でも、外交的にも霊的にも最も重い「意思表示」だったと言える。書簡は緻密で明晰であり、寛大な精神に貫かれている。一方で脚注では、「愛国教会」は「カトリック教義と両立しない」と率直に退けてもいる。

書簡の公表から数か月後、関係改善をうかがわせる動きが見られた。北京の大司教が党幹部向けの病院で死去した後、中国政府はその要職に当局寄りの人物を据えるのではなく、ローマの事前承認を得ていた教区司祭ヨセフ・リー・シャン神父を任命した。北京出身で代々カトリックの家系に連なるリー神父は、海外経験はなく、国家管理下の愛国教会に対して時に異議を唱えることもあったため、信徒の間で支持を集めていた。
ベネディクト16世の書簡は、中国のカトリック信徒の一致という大目標に向けた重要な節目となった。そこでは、政府との協議を前提としつつも、最終的には教皇が司教を選び、その司教が教会を導くべきだという考え方が示されていた。
フランシスコ教皇は就任後まもなく、この流れを受けて取り組みを前に進めた。
十分に評価されてこなかったベネディクト16世の外交は、次の教皇職において、その成果が形となって表れていった。(原文へ)
INPS Japan
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