メディアやジャーナリストは、世界市民の育成につながる環境を整えるうえで重要な役割を果たす。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、この観点から、12月14日から15日にバンコクでアジアの学者・メディア関係者が参加して開催されたシンポジウムを承認し資金提供を行った。参加者らは、紛争よりも調和を促進し、世界市民の育成に役立つメディアを創出するような21世紀のジャーナリストを訓練するために、旧来からのアジア人のコミュニケーション作法をいかに利用しうるかについて検討した。
【バンコクIDN=カリンガ・セレヴィラトネ】
「マインドフル(=周囲に気を配るの意)・コミュニケーション」ブームが現在米国を席巻しているが、ここバンコクに集ったアジアの学者やメディア関係者らは、旧来からのアジア人のコミュニケーション作法を、紛争よりも調和を促進するメディアを創出するような21世紀のジャーナリストを訓練するためにいかに利用しうるかについて検討した。
チュラロンコーン大学の大学院でコミュニケーション・アートを専攻した元ジャーナリストで、現在はタイ北部で「森の僧侶(町や村の寺に住む僧侶ではなく、瞑想を実行するために静寂な場所を求めて歩く僧侶)」でもあるプワドル・ピヤシオ・ビック師は、シンポジウムの開会講演の中で、「欧米で実践されている『マンドフルネス』には『やや問題があります。』なぜならそれは、主に個人のレベルでストレスから解き放たれるために使われているからです。」と指摘した。
「欧米におけるマインドフル・コミュニケーションの実践は世俗的であろうとするため、いかなる宗教的な価値も含めずに実践されています。しかしそのような実践にはパナ(智恵)が伴っていなくてはなりません。この道徳的な智恵なしでは、たとえ実践したところで、社会を正しい方向へと導くためには十分なものとはならないでしょう。」
ビック師は、ジャーナリズムへの実践的なアプローチとして、仏教の根本には苦しむ者への思慮(=同苦の精神)によって苦しみを取り除く必要性を説いていることから、分断と紛争を煽らなくてもある問題について報じることはできる、ということを説明した。
「東南アジア諸国連合(ASEAN)統合に向けたマインドフル・コミュニケーション」と題されたシンポジウムは12月14日・15両日、チュラロンコーン大学コミュニケーション・アート学部がユネスコの「コミュニケーション開発のための国際プログラム」(IPDC)との協力で開催した。この集まりは、アジアの古代からの仏教、ヒンズー教、儒教の哲学からの思想や概念、考え方を統合したアジアの新たなジャーナリズム養成カリキュラムを発展させるプロセスの一環である。
もう一人の基調講演者で著名なタイの社会活動家スラク・シバラクサ氏は、マインドフルネスに固執すればマイナスの結果が生まれる可能性もあると警告した。シバラクサ氏はまた、マインドフルネス・トレーニングが米国の企業経営者の間で流行っていることを指摘したうえで、「この訓練に倫理的訓練が伴っていなければ、一層利益を追求する無謀な行動を導きかねません。シラ(倫理)や貪欲、憎しみ、思い違いについて学ぶことが、持続可能な開発に向けたマインドフル・コミュニケーションのために必要です。」と論じた。
シンポジウムでは多くの発表者が、「アジアの哲学的思想は2000年前と同じく今日でも有効だが、現在の『マインドフル・コミュニケーション』ブームに見られるように、その起源に十分な考慮が払われることなく、欧米の知的社会で利用されている。」と指摘した。同時に、アジアの若者たちもまた、近代的ないかなるものも欧米を起源とし、自分たちの古くからの哲学は近代的な生活様式を形成するうえで無関係であるという誤った考えに囚われたまま成長している。
ヒムギリ・ジー大学(インド)元副学長のビノッド・アガルワル博士は、「途上国」のためにジャーナリズムのカリキュラムを組もうというユネスコのかつての試みは、「アプローチにおいて概して欧米的であり、欧米で追求されてきた理論的・イデオロギー的観点を組み込もうとするものだった」と指摘した。アガルワル博士はまた、この問題について、もっぱら欧米で教育を受け、こうした知識をアジアの知的社会に無批判に持ち込もうとしたアジアの知識人を、とりわけり厳しく批判した。
ある発言者が述べたように、コミュニケーションに関するアジアの学者は、15世紀にグーテンベルクによって聖書がドイツで印刷されたことにマスメディアの端は発すると教える一方で、それよりも600年も前に、印刷された言葉を通じてアジア全体に仏教が伝播するのに一役買った「金剛般若経」を中国人が印刷したという事実を無視している。
アジアのメディアは、この地域の紛争につながりかねない南シナ海での対立に関する欧米メディアの注目に無批判に追随する一方で、地域に大きな経済的進歩をもたらし、アジア全体で協力と繁栄をもたらす可能性がある、中国提案の「海と陸のシルクルート」プロジェクトへのリップサービスを行っている。
センセーショナルな取り上げ方を止めて、根本に迫る
マレーシアの元外交官アナンダ・クマラセリ博士(人間開発・平和財団)は、ジャーナリストを「脱文化化(de-culturalise)」する必要があると考えている。クマラセリ博士は、「メディアは問題をセンセーショナルに扱い、欲望と消費主義を煽ることによって、人々の心情に影響を及ぼしているのです。」と指摘したうえで、「つまり問題は人間が作り出しているものですから、人間の精神がどのようなものかを理解しなくてはなりません。そしてそのためには、(センセーショナルに取り扱うのではなく)問題の根本に迫るよう、ジャーナリストを訓練する必要があるのです。」と語った。
圓光大学宗教研究センター(韓国)のパク・ガンス教授は、北朝鮮報道に関して同じような傾向が韓国メディアにあると指摘した。「韓国メディアはいつも北朝鮮の核兵器については報じますが、両国間の家族再会や経済関係のような問題については無視しています。」と述べ、「(韓国)メディアはこれらの問題をより深く理解する必要があります。」と付け加えた。
チュラロンコーン大学コミュニケーション・アート学部のスパポーン・フォカウ教授も同じ意見だ。彼女は、仏教の教えの基本的な側面である、生きとし生けるものに対する情けと共感という観念に関する知識を持つことで、ジャーナリストは、(自分たちが報道する)対象に対する深い共感を持つことができるでしょう。」「私たちは学生に読み書きの能力は教えていますが、耳を傾けるスキルは教えていません。マインドフルなコミュニケーションの実践として、他人に深く耳を傾けることを教え始めなくてはなりません。社会とつながっていくためには他人に耳を傾けなくてはならないのです。」と論じた。
人権に対する欧米の信条もまた、アジアの学者らからは大いに批判を浴びた。彼らは、「欧米諸国が独善的な解釈による『個人の権利』概念を傲慢に適用したことから中東に混乱が引き起こされ、『アラブの春』は『憂鬱な寒い冬』に変質してしまった。」と論じるとともに、「デンマークやフランスで発生した預言者ムハンマドの風刺画をめぐるテロ事件を例に挙げながら、言論の自由にも限界がある。」と指摘した。学者らはまた、「こうした欧米の信条は、アジアにおいては批判的に検討されねばならない。」と論じた。
欧米の既存のジャーナリズムモデルと置き換わるソーシャルメディア
王立ティンプー大学(ブータン)のドルジ・ワンチュク渉外部長は、欧米からの良いものは、「私たちのニーズと価値観に見合う形で」アジアで適用可能だと考えている。ワンチュク氏は、ブータン王国の国是である「国民総幸福量」(GNH)は「価値観を伴う開発」であると説明した。ワンチュク氏はまた、「欧米ジャーナリズムの『第四の権力』モデルは、異なったものの見方や社会的相互作用を生み出しつつあるソーシャルメディアの隆盛によって、急速に姿を消しつつあります。アジアのメディアは、商業モデルというよりも、充足感(contentment)を基礎にしたモデルの発展を目指すべきです。」と論じた。
ワンチュク氏は、充足感を基礎としたメディアモデルを「中庸の道」だと呼んだ。「ブータンは、幸福、共同体、共感、ブータン社会の中核的価値観を称揚するジャーナリズムの形態を作り上げつつあります。『中庸の道』のジャーナリズムは、ニュースを、商品ではなく社会財として発展させていきます。そうすることで、ジャーナリズムは、紛争や対立、商業主義を肥やしにするのではなく、共同体の発展、コンセンサスの形成、幸福の増進に資する役割を果たしていくことができるのです。」とワンチュク氏は語った。
オープンな議論と討論は健全な人間社会にとって不可欠なものだが、マレーシア人で「仏教チャンネル」のリム・クーイ・フォン代表は、「それには責任が伴っていなくてはならない」と論じた。フォン氏はまた、「この点については、仏教の哲学から学ぶべきことは多いが、同時に、1990年代の『アジア的諸価値』論議に見られたような、権威的な支配エリートに対する批判の矛先をそらす手段として使われることを避けなくてはならない。」と指摘した。
リム氏はまた、「アジアの声の底流にあるのは、自由で個人主義的なエートスが、過度に法遵守的で、攻撃的で、消費主義的な態度と結びついた場合、アジア社会の伝統的な諸価値、すなわち、社会の調和や家族や権威の尊重、とりわけ、権利の主張よりも義務や責任の強調といったことに抵触するのではないかという深い懸念があるのです。」と指摘したうえで、「『アジア的諸価値』の代表と『西洋リベラリズム』の擁護者は、互いから学び、ある意味では補い合うことができるのではないでしょうか。」と語った。
倫理と徳
タイの作家で詩人のクニイン・チャンノングスリ・ハンチャンラッシュ氏は、「責任とアカウンタビリティは、道徳的行い(シラ)・精神の平静(サマディ)・洞察(パナ)という仏教実践の三原則において鍛えられた心に自然に宿るものです。」と論じた。
ハンチャンラッシュ氏はまた、「マインドフルネスは、実践によって生み出される特質です。」と指摘するとともに、「コミュニケーションにとってマインドフルネスとは、実際のコミュニケーション行為が起こる以前の、感情・偏見・動機など、自分の心の中に湧き上がってくる探求のことです。それは、何かに反応するというよりも自らが決定できる『知ること』の領域に他なりません。」と語った。
ベトナムのあるカトリック学者は、ASEAN社会に対してマインドフルなジャーナリズムを提示するにあたっては注意が必要で、それが宗教的な概念だと見られないようにしなければならない、との見解だ。「仏教徒以外の人々に対してこの概念を納得させようとする場合、他の宗教的な伝統にも反映されている倫理や徳に結び付けられる必要があります。」と論じた。
パク教授は、「倫理や徳はアジアの伝統の重要な部分です。仏教だけではなく儒教哲学においてもこれらの実践は立派な位置づけを与えられています。」と語った。教授はまた、道教の哲学者・荘子の言葉を引用しつつ、「対立的なスタイルのジャーナリズムは、より協力的で問題解決を志向するスタイルのジャーナリズムに転換することが可能です。」と論じた。
韓国仏教テレビネットワーク(BTN)のハヤカワ・エミ氏は、これをいかに実践に移しうるかについて具体的な事例を示した。2014年4月に韓国でフェリー転覆事故が起こった際、韓国放送公社(KBS)は死者の数や救助作戦、死体袋や人々が悲しむ様子を集中的に報じたが、BTNは仏教社会がいかに生存者の安全な帰還を祈り、家族の救済計画を練り、癒しのプロセスに役立ったかに焦点を当てた。
「ジャーナリストには、(人類の抱える)巨大な(開発の)問題に対処するうえで、共同体や世界の宗教指導者らが重要な役割を果たしうるということを伝える重大な役割があります。ジャーナリストは、グローバル経済において弱く貧しい人々に利益を与える新しい倫理的価値への関心を呼び起こし、世界的な金融危機を避けるには自分たちのライフスタイルを皆が変えることが必要だと指摘すべきです。」と、パク教授は論じた。
マインドフルなジャーナリズムの実践は宗教的ではなく世俗的な実践であると論じるハンチャンラッシュ氏は、肯定的なつながりとしての個人への共感と尊重は、文化と信条の美しきモザイクとしてのASEAN共同体の創出において必要不可欠であると考えている。「ユーザーのマインドフルネスによって、マスコミという強力なツールは、非利己的で建設的な社会の構築における効果的な主体となることが可能です。」とハンチャンラッシュ氏は論じた。
INPS Japan
関連記事: