【ルンドIDN=ジョナサン・パワー】
史上最も残酷な人間の一人が9月2日、カンボジアの首都プノンペンで亡くなった。通称「ドッチ」として知られるカン・ケク・イウ(享年77歳)で、カンボジア特別法廷で起訴された5人の被告の中で、唯一虐殺への関与を認め、人道に対する罪等で有罪を宣告された人物である。私は、2010年7月の法廷で彼が終身刑を宣告される場面を直接目撃している。
『クメール・ルージュ』を率いたポル・ポトがカンボジアを支配した民主カンプチア時代(1975年~79年)にニューヨーク・タイムズの同国特派員を務めたセス・マイダンズ記者によれば、「彼は、クメール・ルージュが政権を握る前は数学の教師だった。彼は自らの通称『ドッチ』を児童書に出てくる従順な少年の名前からとっている。『先生を尊敬し、良い行いをし、躾のよくできた男子になりたかった。』と彼は法廷で証言した」という。
「ドッチはその従順さでクメール・ルージュの指導層にとって使える構成員となった。命令を実行しなければ、自身の命も危なかった、というのが彼の主な言い分だが、拷問が蔓延る収容所を運営するうえで彼が発揮した熱心さや創造性、残虐さを考慮すれば、そうした自己弁明は見合わない。収容所ではドッチの命令で約1万5000人が亡くなった。また彼が法廷の場で見せた自己主張の強さと傲慢さは、当時の罪を『若気の至り』などで説明できるものではない。」
カンボジアの人々は、ドッチが当時の主要な政治犯収容所(S-21トゥールスレン)を取り仕切った指揮官の中でもとりわけ残虐な人物であったことを知っている。「たとえ死に至らしめたとしても、熱い方法を使え」という命令を実際に発した人物であった。ドッチは、17人の子どもたちのリストの端に、「皆殺しにしろ」と書いた。皮肉なことに、彼は後に、「脅して取った自白は信じるに足らない。なぜなら真実はその中の4割に過ぎないという結論を拷問を通じて得たからだ。」と述べている。
しかし、ひとたび捕えられると、彼は自身を別の人間として印象付けようとした。「私の自叙伝は聖パウロのようなものだと思う。」とドッチは記者のネト・サイヤーに語った。サイヤーはこの奇妙な話を『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』誌に掲載した米国人記者である。「殺害と過去については、残念に思っている。私はよき共産主義者であろうとしただけだ。人生の折り返し地点を過ぎて私は、人々を助ける神の仕事を行うことで、神に仕えたい。」しかし、ドッチは実際には余暇の大半を豪華なレストランで過ごしていたようだ。
カンボジアは、ベトナム戦争中、ヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)の方針により、米軍の激しい爆撃(投下総量は第二次大戦で日本に投下したものの約3倍にのぼり、数十万人の農民が殺害された)に晒された。これは戦争犯罪に他ならないが、キッシンジャー氏は今日でも米国の政治エリートの間で称賛されている。
北ベトナムは対米戦争の間、隣国で中立のカンボジア領を通過して南ベトナムの協力者に武器を送っていた。カンボジアは、米軍の大規模な爆撃によりほぼ全土が荒廃した。その政治空白を埋めたのがポル・ポト率いるクメール・ルージュであった。彼らは、1979年にベトナム軍に追われるまで3年9カ月にわたってカンボジアを支配した。
クメール・ルージュが権力を奪取して1週間後、首都の住民200万人に対して街を退去して農村で働くよう命令が下された。強制移住は、性急かつ無慈悲な形で行われ、人々は着のみ着のままで家を後にするしかなかった。子どもたちは親から引き離され、老人や病人の多くを含む数千人が道中で斃れた。約170万人が、処刑や拷問、飢餓、医療放置、過労によって死亡した(映画『キリング・フィールド』はこの問題を扱ったものである)。
共産主義のクメール・ルージュは、これこそが、カンボジアを階級のない農業社会に変革する平等化のプロセスだと信じて疑わなかった。彼らは、貨幣や自由市場、通常の教育、外国由来の服装、宗教的慣行、伝統文化を廃した。公的・私的交通機関もなく、私有財産も、革命と関係のない娯楽も存在しなかった。人々は1日12時間の労働と党が決めた相手との集団結婚を強制された。また、家族に愛情を示すことは禁じられ、抵抗するものや異議を申立てる者は、数千人単位で後頭部を撃ち抜かれて処刑された。
クメール・ルージュによる残虐な支配は、(ソ連に支援された)ベトナム軍と、カンプチア救国民族統一戦線がプノンペンを陥落させた1979年1月にようやく終わりを告げた。
クメール・ルージュはカンボジア西部に逃れ、難民を装ってタイ国境近くで勢力の再構築を図った。ユニセフやその他の国連機関、西側諸国のNGOは、この殺人的な集団の言い分に騙されて、彼らに医療支援を提供し、勢力温存に加担させられてしまった。
北ベトナムに敗北した痛手を引きずっていた米国は、「敵の敵は友」という古い格言に従って行動し、クメール・ルージュに国連でのカンボジア代表の資格を与えるよう国連に要求した。ソ連ブロックは反対したが、スウェーデンを除く欧州の西側諸国も米国の主張を支持したため、1979年から1990年の間、クメール・ルージュがカンボジアを代表する唯一の正当な政権とみなされ、民主カンプチアの国旗がニューヨーク国連本部の外に翻った。
その後ジェラルド・フォード、ジミー・カーター、ロナルド・レーガン政権を通じて、この方針は継続された。ジョージ・ブッシュ(父)政権になって初めて、この寛容政策は終わりを告げた。
この茶番がようやく終わった後も、クメール・ルージュは1990年まで存在し続けた。それまでに、指導層は既に亡くなるか、ベトナムが支援するカンボジア政府に逮捕されるか投降していた。現在もカンボジア首相であるフン・セン氏はその代表格である。
欧米諸国がクメール・ルージュを国連で擁護していた時期、西側の多くの左派系知識人や活動家もクメール・ルージュを支援し続けた。彼らは、クメール・ルージュは古い秩序を一掃しようとしている道徳的に正しい共産主義勢力であるとみていた。彼らは、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』、『ル・モンド』、そして私も寄稿していた『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』が大量虐殺について報じていたにも関わらず、見て見ぬふりをした(その他のメディアは、多かれ少なかれこの問題を無視した)。
米国が親クメール・ルージュの方針を撤回した直後、国連の五大国は、カンボジアを国連の保護下に置く決定を下して世界を驚かせた。対立する各派の軍隊は武装解除させられ、公正な投票を通じて選ばれた民主的な新政府が樹立されることとなった。国連はかつてこのような行動に出たことがなかった。
1991年10月、カンボジアの国内4派と19カ国の代表がパリに一堂に会し、和平協定を結んだ。ブッシュ政権のジェイムズ・ベーカー国務長官はパリ和平協定で「この問題がいかに特異であり、国際的な支援を切実にしているのは、カンボジアの人々が被ってきた苦しみの大きさにある。」と述べた。
にもかかわらず、まもなく米国の関心は対イラク戦争に向かい、カンボジアへの関心は失われることになった。次のビル・クリントン大統領は、カンボジアには無関心か、あるいは既に忘れてしまっているかのようだった。
正義が行われたのは、国連がフン・セン政権に対して、カンボジア人と国連が指名した裁判官から成る戦犯法廷の設置に同意するよう説得してからのことだった。カンボジア特別法廷が本格的に運営開始したのは、クメール・ルージュが崩壊してから実に7年後のことだった。
カンボジア当局はついに、「ドッチ」と、クメール・ルージュの外相だったイエン・サリ、その妻で元社会問題相でもあったイエン・チリト、他に2人の重鎮(ヌオン・チアとキュー・サムファン)を逮捕した。アルツハイマー病により裁判を赦免されたイエン・チリトを除く全員に有罪判決が下された。
こう問う者もあるかもしれない。外部の世界はこの問題にどの程度関心を持ち、あるいはどの程度知っているのか。クメール・ルージュは歴史の中に消えてしまった。手遅れになるまで世界が無視するような大量虐殺(ジェノサイド)が今後も起こるのだろうか、と問う者もあるかもしれない。ありうる話だ。1994年にルワンダで起きたジェノサイドは無視され、外部の世界ではその実情はほとんど知られていない。マーチン・ルーサー・キング牧師がかつて言ったように、「我々は沈黙の夜を破らねばならない……どんな嘘も永遠に生き続けることはない……真理は、地に押しつぶされても、再び昇るのだ。」(原文へ)
INPS Japan
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