【タイ・チェンマイIPS=ガイ・ディンモア】
建設現場やホテル、飲食業で働く人々まで―タイに住むミャンマー移民の数は最大で約600万人に達するとの推計もあり、2021年の軍事クーデター以降、新たな流入が急増している。

多くは、国連が世界の上位15の「巨大都市(メガシティ)」の一つに数える首都バンコクで新たな生活を築いている。タイ経済が、安価な労働力の供給源としてミャンマー人労働者を大量に受け入れてきたためだ。
しかし、ミャンマーの知識人や活動家、元戦闘員、さらには軍からの離反者(脱走兵)を数多く引き寄せてきたのは、タイ北部の都市チェンマイである。彼らは、ミャンマー国内で軍政と闘う人々を支える「亡命下の抵抗運動」の中核を形づくっている。
タイとミャンマーの社会は、長いあいだ文化的・社会的なつながりを共有してきた。1558年、チェンマイのラーンナー王国はビルマ(ミャンマー)のタウングー朝の支配下に入り、その統治は2世紀以上続いた。同王朝は、最盛期にはインドから中国、さらにカンボジアにまで勢力を広げていた。
近年、チェンマイはミャンマー亡命者の拠点として定着してきた。 1988年、学生主導の抗議運動が軍に弾圧された後、再結集のために避難してきた人々が最初の流入となった。いまでは、2021年のクーデターで追放された選挙選出議員らが樹立した「国民統一政府(NUG)」の幹部も、出入りしている。
しかし、観光客に愛され「タイで最も美しい都市」とも称されるこの街でも、穏やかな表情の陰で、 法的に不安定な立場に置かれた移民や活動家の暮らしは、決して容易ではない。
以下、亡命者の一部がIPSに語った、個人の経験、苛烈な内戦下でのしなやかな抵抗、そして未来像である。

アウグスト・モー*(LGBTQ活動家、元受刑者、雨季の豪雨の中で生まれた)
「私は刑務所で6か月過ごした後、チェンマイに来ました。政治活動で逮捕歴があり、軍に抗議する『スプリング・レボリューション』に加わって資金集めに携わり、モン州では戦闘にも参加しました。私は芸術家で、肖像画や風景を描き、その収入で難民支援をしています。私たちの村は軍に焼き払われ、逃げるしかありませんでした。
私は検問所で兵士に拘束されました。刑務所はひどく、恐怖そのものでした。施設には3つの区画があり、男性、女性、そして性的少数者(LGBTQ)の区画です。私はその区画に送られました。毎日午後6時になると、看守から性的行為を強要されました。これ以上は話したくありません。コンドームも薬もなく、感染症への不安が常につきまといました。私はチェンマイで検査を受け、結果は陰性でした。私たちは看守の支配下に置かれ、奴隷のように扱われました。食事は虫やウジの混じったほうれん草で、病気になっても治療はありません。房には14人が押し込められていました。」

「刑務所にはハエや蚊、ゴキブリ、ウジがあふれていました。トイレはありません。用を足したくなれば隅で済ませ、翌朝それを回収して肥料にするのです。
軍にコネのある友人が助けてくれ、約2500米ドルを支払って釈放されました。母は家を売り、私がチェンマイに来られるようにしてくれました。私はここで稼ぎ、家族と、もう一つの家族であるスプリング・レボリューションの仲間に送金しています。
私たちは戦争を望んでいない。平和がほしい。でも、彼らのやっていることは非人間的です。兵士は洗脳され、戦うために薬物を使わされている。正気を失い、善悪の判断もつかない。薬が欲しいだけで、軍が戦わせるために薬を与えている—私はそう感じています。」
「クーデター前は、LGBTコミュニティも少しずつオープンになり始めていました。でも、クーデターでその流れが止まりました。チェンマイでは今月、『LGBT・ミス・フリーダム』コンテストの司会を務めました。声を上げて、世界に伝えたいのです。私たちは戦争ではなく平和を望んでいる、と。
私はミャンマーの大学で原子核物理学を教えていました。国の状況が良くなれば、また教えたい。
[アウグスト・モーは、ミャンマーのチャット紙幣の小さな束を取り出した。]
「戦争で亡くなった友人が私に残したものです。3300チャット(1米ドル未満)。形見として持っています。」「(サムスンの携帯電話を見せながら)これは別の友人のものです。戦争で殺害されました。私は絶対に売りません。この戦争は、どちらかが勝って終わる形にはならないと思います。私たちは正義のために闘っている。勝ちたいと願っています。正義が実現したら、闘いをやめます。私たちが求めているのは、平和と正義、そして人間性です。」

ナイン・トゥン・アウン*(抵抗側に離反した軍人)
「私はマンダレーの軍事訓練学校で大尉でした。この戦争は正しくない——そう理解するようになり、兵士として私にできることは離反しかありませんでした。それが抵抗を支える唯一の道だと思ったのです。逮捕の危険があったので、計画は友人にも一切話しませんでした。
SNSを通じて市民不服従運動(CDM)の関係者に連絡し、『Mother’s Embrace』がタイ国境の町メーソートへのルートを用意してくれました。マンダレーを出て、バスとバイクで移動し、最後はモエイ川の国境を越える不法越境のボートでした。私は他の人々と一緒に行動しましたが、互いの素性は知りませんでした。メーソートに6か月滞在した後、チェンマイに移りました。いまはミャンマー国内からの情報を検証する組織で働き、難民に食料や資金を届けています。
私の見方では、この戦争はどちらも決定的には勝てません。軍はロシア、中国、ベラルーシから公式に武器を調達できますが、抵抗側は同じことができず、より高い代償を払わねばならない。中国が供給を絞っているため、弾薬が尽きかけている抵抗部隊もあります。情勢を左右するのは中国だと、私は見ています。」
「戦争は長期化するでしょう。抵抗組織は数が多い一方で、十分に統一できていません。軍はその弱点につけ込んでいます。小規模な抵抗グループの中には、検問所で武器をちらつかせて通行人から金銭を取ったり、身代金目的で人を誘拐したりする例も出ています。
私は自分がCDM側の元兵士だとは人に言わず、目立たないようにしています。身元が漏れるのが怖いからです。私がしているスナック販売の仕事も、制度上は問題があります。許可証では建設労働者として登録されているのに、実際は別の仕事をしている。密告されれば、家族が危険にさらされかねません。」

サクラ*(軍政の悪名高い指名手配リストに載る人物)
「私が最初に離反を支援したのはDでした。私はそれ以前から、携帯電話やノートパソコン、衣類など、離反者に必要な物資をミャンマー国内で届けていました。その後、シンガポールにいる支援者から資金提供を受け、友人の弟を離反させたいという相談を受けて、私が移動の手配をしました。
ただ、彼がどんな技能を持っているのかは分かりませんでした。階級は大尉でしたが、こちらで見つけられたのは清掃などの単純な仕事ばかりで、与えられた仕事は何でも引き受けました。同胞の中には彼を疑い、ひどく扱う人もいて、私は胸が痛みました。
2人目は警察の離反者で、私は移動から生活まで、すべての手配を担わなければなりませんでした。Dは飲食店で昇進し、後から入ったスタッフに声をかけて合流させました。警察の離反者も友人をつくりました。私は人と人をつなぎ、ネットワークをつくろうとしてきました。
ただ、いつもうまくいくわけではありません。ジェイソンは戦闘員で攻撃的で、店の他のスタッフに嫌がらせをするようになった。離反者はその後も増え、少佐が来たこともあります。」
「離反者は、周囲から信頼されにくく、密告者やスパイではないかと疑われることがあります。だから私は、同じ背景を持つ人たち同士がつながれるよう、ネットワークづくりを手伝っています。安心して打ち明けられる存在でありたい。56歳の人もいて、私よりずっと年上なのに、私が世話をしているので、いつも私のことを『ママ』と呼びます。
ミャンマーでは、クーデターから数か月後に『Force for Federal Democracy』に参加し、薬や物資の資金集めを手伝いました。上着を200着送ったこともあります。時には『Free Burma Rangers』からマラリア薬を入手することもありました。人民防衛隊(PDF)向けの資金集めにも、何度も関わりました。
「クーデターから2か月後の国軍記念日、兵士がデモ隊に発砲し、100人以上が殺されました。その日、ヤンゴンで従兄弟が逮捕されました。私は2ブロックほど離れた場所にいて逃げることができました。それ以来、政治犯に食料支援物資を届ける活動を始めたのです。」
「将来ですか? ヨーロッパかどこかのビザを申請しようと思っていましたが、いまは一人でできる自信がありません。チェンマイでできるだけ自力で暮らしています。プロジェクトの仕事をもっと見つけたい。タイのビザ制度は複雑になり、入国管理当局も厳しくなっています。
子どもの頃、祖母はもち米とココナツとジャガリー(粗糖)をバナナの葉で包んで蒸した『モン・ペッ・トック』をたくさん作りました。私たちや近所の人たちが集め、僧侶に配るのです。僧侶は家に来て、感謝として仏教の教えを語ってくれました。私は今もチェンマイでそれを食べるのが好きです。家は雨季の豪雨で2度浸水し、服をたくさん失いました。
ミャンマーに戻って自分の旅行会社を立ち上げたい。でも、それがいつ可能になるのか分かりません。」

テット・ミャット・ポーン・ナイン(大学生、ソー・モー・ナインの息子)
「私の家族はエーヤワディ川沿いのピェー出身です。父のソー・モー・ナインは、無料の葬儀サービスや医療支援、酸素の確保、輸血用の血液提供などに取り組む、よく知られた実業家で慈善家でした。町で広く知られており、クーデター前はNLD(国民民主連盟)政権とも協力していました。コロナ禍は大変でした。父は、軍政の手配リスト——当局が『影響力のある人物』とみなす人々——に載りました。軍はピェーで若い抗議者2人を殺害し、私たちは無料葬儀サービスを提供しました。2人の墓碑には『革命の殉教者』と刻まれ、町中の人が集まりました。
父は逮捕され、運送業と関連団体は閉鎖されました。父は家族との面会を求め、その機会に逃げました。川を渡り、船で移動しながら10日間身を隠しました。しかし、知られた存在であることがかえって足かせとなり、ヤンゴン近郊へ移りました。
その後、警察が再び家に来ました。私は『まだ17歳で、軍のパイロットになりたい』と言いました。彼らは私を空軍基地に招きましたが、私たちは代わりにヤンゴンへ向かいました。今なら笑えますが、当時は本当に怖かった。
ピェーにはもう何も残っていません。軍がすべて押収しました。だから名前は出して構いません。失うものは何もありません。」

「父はヤンゴンのアパートで何か月も身を潜め、孤立のために精神的に不調をきたしました。そこで母は、気を紛らわせる工夫で父を支えました。箸とつまようじを買い、父はエッフェル塔の模型を作りました。時間を忘れて没頭するうちに、父は心の健康を取り戻したのです。ヤンゴンにはエッフェル塔を2つ残し、父はメーソートで3つ目を作って、資金集めイベントのチャリティー抽選会に出品しました。父はいま、ティッシュ箱やペン立てなどの注文もこなし、母の店では接客もしています。絵も描き、逃亡中にはオンラインのデッサン講座も受けました。講師は、同じく逃亡中だったCDMの教師でした。
私はメーソートのミャンマー移民向け私立学校に通い、チェンマイで卒業しました。その後、米国に登録されたオンライン大学『パラミ』に出願し、2023年に全額奨学金で合格しました。4年制の学士課程で統計学とデータサイエンスを学んでいます。母はピェー料理の屋台を営み、地元の特製ライスサラダを売っています。地元では有名です。
私たちの将来は不確かです。オーストラリアに庇護申請をしました。新しい場所で新しい人生を始めるのは簡単ではありません。しかし、ここでは人が人を助け合う連鎖が生まれました。」
*印は身元保護のため、話者が選んだ名前である。(原文へ)
INPS Japan/IPS UN Bureau Report
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