地域アジア・太平洋アフガニスタンという不安

アフガニスタンという不安

【IDN-InDepth Newsオピニオン=ジュリオ・ゴドイ】

米国がベトナム戦争での大失敗から学んだことのひとつは、戦争を始める前に「出口戦略」を策定しておくのが必須だということだ。もっとも、「出口戦略」というのは婉曲表現で、実のところ、「自国兵士の死体が積み上がり、戦争に勝つ見込みがなくなってきた際に、体面を失わずにいかに戦争を終わらせるか」ということだ。

1980年代には、出口戦略はいくつかの形を取っていた。かたや、徴兵制をやめて志願兵制に移行した。こうして、1960年代から70年代の平和運動の中核を占めた中産階級の若者は戦地に行く必要がなくなり、戦争はテレビで見るものになった。そのかわり、「ルンペンプロレタリアート」とでも呼ぶべき貧しい黒人、そして後にはラテンアメリカからの移民の若者たちが兵士となった。因みに2003年、イラク戦争における米軍最初の戦死者は、グアテマラ生まれの、ほぼ文盲で身寄りのない不法移民の青年だった。彼は熱望したグリーンカード(米国の外国人永住権及びその資格証明書)を獲得するための最短距離と考え、米軍に入隊したのだった。

Julio Godoy


他方で、米軍の出口戦略は3つの形を取るようになった。

第一は、セオドア・ルーズベルト大統領時代の「すばらしい小戦争」(splendid little war)という考え方を復活させること。「ゆっくりと話し棍棒を運べば、あなたはずっと遠くへ行くだろう。」の発言で有名なルーズベルト大統領は、19世紀末に棍棒(=軍事力)を使って、弱いスペイン軍を瞬く間に撃破しキューバ、プエルトリコ、フィリピンの支配権を手に入れた。スペイン政府が和平を乞うてきた時、ジョン・ヘイ国務長官は、この「すばらしい小戦争」を称賛した。つまり米西戦争は、敵が弱く、戦争期間は短く、そして戦利品は莫大だったからだ。80年代にロナルド・レーガン大統領は軍拡を推し進めたが、軍事攻撃を仕掛けたのは、グレナダリビアという小国であった。

第二は、米国の敵と戦う代理を創り出すことだ。ニカラグアではコントラがサンディニスタ革命と戦い、中東ではサダム・フセインがイランと戦い、アフガン戦争では地元の軍閥がロシアと戦った。

第三は、地上軍を使わず空爆を仕掛け、死者を減らすことだ。ジョージ・ブッシュ(父)大統領は、パナマシティを空爆した後、湾岸においてサダム・フセインをクウェートから追い出した。90年代にはビル・クリントン大統領がバルカン半島に空爆を加えた。しかし、ソマリアのように何も爆撃する対象がないところでは、この戦略は行き詰まり、地上部隊を投入せざるを得なかった。

手段に関わらず米軍が敵を殺害した場合、作戦の成功に誇りを覚えるとともに、兵士たちは自由の価値観の擁護者として称賛される。しかし逆に敵が米兵を虐殺した場合、突然戦争の野蛮な現実に疑問を呈することとなる。血まみれの米兵がモガデシュ市街の泥道を引きずられて殺害された映像は、米国にとってあまりにショッキングなもので、即ソマリアからの撤退に踏み切ったクリントン大統領には、もはや出口戦略や体面にこだわる余裕されなかった。

そして2000年、ジョージ・W・ブッシュ政権と共に「テロとの戦い」という際限のない概念が登場した。ブッシュ大統領の顧問たちは明らかに世界最強の米軍の無敵性を確信し、出口戦略や戦死者の問題を考慮することなく、イランとアフガニスタンに軍事介入していった。

特に、アフガニスタンに関しては、歴史と地元社会の独自性が軽視されていた。もし彼らが事前にウィンストン・チャーチルの自叙伝を研究していたりロシアからアフガン戦争の教訓を学ぶ努力をしていたならば、周到かつ体面を保てる出口戦略なしに、急いで泥沼に足を踏み入れるという事態は避けていたであろう。また、軍事介入に合わせて開発、国造り、民主化という議論も避けていたであろう。

しかし実態は、度重なる爆撃によって首都カブールと周辺地域をかろうじて確保したほかはそれとった成果もなく、その代償として数千人の市民の犠牲者を出しただけであった。そして史上最強の軍事同盟と謳われた米軍を中核とした連合軍は、介入から10年が経過した今日、アフガニスタン紛争からの出口をそろって模索している。

米国が撤退に際して、かつて軽蔑していた軍閥たちによる支配をそのままに、腐敗が支配し麻薬にまみれた崩壊国家に何を残すかということは、もはや問題ではない。いま重要なことは、アフガニスタンという「帝国の墓場」に葬り去られないようにするということである。

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

*ジュリオ・ゴドイ氏は、グアテマラ出身の調査報道記者。常に危険な現場から声なき声を伝える報道が評価されヒューマンライツ・ウォッチ等より表彰される。ゴドイ氏自身、誘拐や設立に尽力した週刊メディアが爆破されるなどの試練を経験している。当局の言論弾圧から1990年に亡命。以来、主にドイツを拠点に活動中。国際協力評議会(GCC)役員。元IPSパリ支局特派員。

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