【東京IDN=イェルラン・バウダルベック・コジャタエフ】
40年で456回の核実験
─カザフスタン共和国は、国際社会の中で積極的に核不拡散と軍縮に取り組んできました。
旧ソ連邦下のカザフスタンにあったセミパラチンスク核兵器実験場の名前は聞いたことがあると思います。この地で、ソ連邦初の核兵器実験が実施されたのは1949年8月29日のことでした。地域全体を包んだ眩い光は、ソ連が原子爆弾の開発と実験に成功したことを意味していたのです。
それから89年までの40年もの間、セミパラチンスク実験場は、ソ連の地上・地下の核実験の主要な場所の一つでありました。累計でじつに456回の核実験(340回の地下核実験と116回の大気圏内核実験)が実施されたのです。
国内外の専門家によると、この地域は、甚大な環境被害に苦しみました。その結果すべての住民は、放射線の被による病気の発症や死亡、さらに遺伝的損傷等を被ったのです。旧実験場跡地の最も危険な場所の放射能レベルは、現在でも毎時1万~1万マイクロレントゲンにも達しています。
─そうした状況をカザフスタンの人々は受け入れていたのでしょうか。反対の声はなかったのですか?
それは、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が冷戦終結を宣言した89年のことです。その年の2月、地下核実験の失敗で放射能が環境中に放出されたことが明るみになりました。それまでもカザフ国民の不満や不安は高まっていましたが、この事件をきっかけにカザフ最大の都市であるアルマトゥイの作家組合の建物の周辺で抗議集会が開催されました。これこそが国際的反核運動「ネバダ・セミパラチンスク」の発端となったのです。
─その翌年、独立したカザフスタン共和国初の大統領にヌルスルタン・ナザルバエフ氏が選出されます。
90年4月24日に、初代大統領となったヌルスルタン・ナザルバエフが、大統領として最初に行った重要な政治行動が、「核兵器に反対する平和の有権者会議」の開催です。同年5月24日から3日間、カザフだけでなく世界約30カ国の反核運動家や団体の代表が、アルマトゥイの地に集結しました。さらに10月25日には、最重要文書「国家主権宣言」を採択します。この第1条では、カザフにおける核兵器開発と実験の禁止が、高らかに謳われています。
その後もナザルバエフ大統領は、議会の特別会合を招集し、ソ連の同意なしに核実験場の閉鎖を議論することを発表。さらにこの特別会合の閉会の辞で、大統領は自身の責任で実験場の閉鎖を宣言するのです。こうして91年8月29日、彼は法規命令409「セミパラチンスク実験場閉鎖について」に署名しました。
─こうしてみると、核実験場閉鎖までの道のりは順調だったように思えますが。
そんなに簡単なものではなかったと思います。なにしろソビエト時代にこの深刻な問題について公言するには、周到かつ大胆さが必要でした。それに、旧ソ連の共産党首脳部や軍産複合体の代表の見解と相反する考えを打ち出すには、相当な勇気を持たなくてはならなかったはずです。
なぜなら、政府の決断に対して公然と抗議する人間は、どんな仕打ちを受け抑圧の対象になったか、ソ連に住んでいた誰もが覚えていたからです。それを恐れずに成し遂げることができたリーダーは、ナザルバエフ以前にはいませんでした。
私が日本の大学で講義の機会をいただく際には、常に核軍縮と核不拡散の問題に留意し、核実験について詳しく伝えるとともに、セミパラチンスク実験場を閉鎖したナザルバエフ大統領の歴史的な決断についても紹介しています。日本の学生は、大変に関心を持ってくれます。なんといってもカザフスタンと日本は、ともに自国民が核兵器の破滅的な力を経験しているからでしょう。両国民にとって核兵器問題の解決は、いまだ根元的な重要課題であると思います。
ナザルバエフのリーダーシップ
─その後、91年の12月にソ連邦は崩壊しますが、カザフ共和国はソ連から引き継いだ核兵器も自発的に放棄しました。
独立を果たした初日から、ナザルバエフ大統領は、人類が核兵器から自由になるための政策を実行し、核不拡散体制を強化してきました。アメリカの安全保障分野で著名な元上院議員サム・ナン氏は、核拡散防止体制におけるカザフスタンが示したリーダーシップについて、こう力説しています。
「当時のカザフスタンは、140以上、つまりフランスと英国と中国を合わせた数よりも多い核兵器を所有していた。それがどれほど重要なことであるのか、よく記憶している。同時に、ルーガー上院議員と私はカザフスタンを訪れて大統領と会見した。大統領は、核兵器を手放す意思を伝えてくれた。そのことが、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの核兵器放棄の全体的な決断に、どれだけ大きなインパクトを与えるのかについても、私はよく分かっていた」
名前の出た元上院議員のリチャード・ルーガー氏も、旧ソ連諸国の軍縮プロセスに関与した当時をこう回想しています。
「90年代初頭、私はナザルバエフ大統領やウクライナ、ベラルーシの首脳が、自国の兵器解体を米国の支援のもとで実施し、核兵器不拡散条約(NPT)に非核国として加盟することを受け入れてもらうべく私的外交に携わった。(ナザルバエフ)大統領は、直ちに自国におけるそのメリットを理解したのみならず、近隣諸国の、また、すべての国々が享受できるメリットも認識していた」と。
ソ連崩壊後、カザフスタンは世界で四番目に多い数の核兵器を持つ国となる可能性がありました。にもかかわらず、ナザルバエフ大統領は、核兵器を放棄するという前例を見ない英断を行ったのです。それは、紛れもなくカザフスタンの歴史において重要な決断でした。
─核保有国となる誘惑を、ナザルバエフ大統領が断ち切ったわけですね。
ナザルバエフの後を受けて第2代大統領に就任したカシム=ジョマルト・トカエフによると、92年春に、リビアのカダフィ大佐からナザルバエフ大統領に対して、カザフの核兵器を保持したいとの提案があったそうです。トカエフは当時副外務大臣を務めていたので、はっきり覚えているそうですが、在モスクワのリビア大使館からカザフスタン外務省に送られてきた書簡には、ナザルバエフが初のイスラム教徒の原子爆弾所有者になれる千載一遇の機会が到来したと記されており、共にそれを実現する方法について、また財政支援の可能性までも言及されていました。しかしトカエフによると、カダフィの書簡が届く前に核兵器不拡散条約に加盟する「主要な決定」がすでに下されていたこともあり、真剣に取りあうことはなかったそうです。元より、誇大妄想じみたこの提案は、不適切かつ無責任であると、カザフスタンは明確に理解していたと、トカエフは述懐しています。
─今も昔も、核抑止論には根強い支持があります。その中で、ナザルバエフ大統領の決断は、非常に重いものだと感じます。
そうですね。ナザルバエフ自身が、核兵器の放棄は容易ではなかったと述べています。まずは国内において、核兵器保持の推奨者が存在しました。彼らの主張の第一は、敵対する可能性がある国からの侵攻を阻止する効果的な抑止ツールであるという、反論が難しい意見です。次に核兵器の保有は、カザフスタンが地域の超大国となるステータスを得ることにつながる。その上、基礎科学、応用科学分野を引き合いに出し、科学や技術発展を目的とした核施設の重要性も強調されました。しかしナザルバエフ大統領が指摘した通り、核実験の黙示録的な影響に、どこよりも苦しんだ場所は、おそらくカザフスタンなのです。だからこそ、核兵器保有と引き換えに、自国民と国土を破壊し続けるような権利は、道徳的に持ち得なかったのです。
カザフスタンと日本の使命
─カザフスタンと日本は、核不拡散の分野でどのように協力してきたのでしょうか?
両国は、98年の国連総会の席上、共同で決議案を起し、同決議に基づき、翌99年にセミパラチンスク支援東京国際会議が開催されました。また核実験がもたらす結果についての共同研究活動も行ってきました。核実験場があったセメイと、広島、長崎の三都市における医療・公共機関との間では、緊密な相互連携も確立しています。
さらに日本は、セミパラチンスク核実験場が閉鎖された8月29日を記念して、同日を「核実験に反対する国際デー」と宣言する国連総会決議に、先進国で唯一の共同起草国として加わりました。また2015年から2年間にわたった、第9回包括核実験禁止条約(CTBT)発効促進会議においても、カザフスタンと日本は共同議長を務めました。
─被爆国日本と、核実験に苦しんだカザフスタンは、核不拡散へのリーダーシップが最も期待される国ですね。
15年10月27日、ナザルバエフ大統領と安倍晋三首相は、包括的核実験禁止条約に関するカザフスタン・日本首脳共同声明に署名しました。また翌16年4月1日には、アメリカのワシントンにて、二回目のカザフスタン・日本共同声明を発出しました。
安倍首相が、15年にナザルバエフ大学で行った政治講演でも、核不拡散と軍縮の分野においての二国間協力の重要性を強調されています。「いまやカザフスタンと日本は、核軍縮・不拡散という人類史的課題の先頭を、手を携えて歩んでいます。(中略)本日のナザルバエフ大統領との会談では、一緒に頑張ろうという意思を、文字にしてお互いに確かめました。(中略)思えば、必然の成り行きでした。広島と、長崎、それからセミパラチンスク。(中略)思いは同じだからです。核軍縮・不拡散への意思、その不退転の決意です」(首相官邸ホームページより)
カザフスタンの行動は、国際社会の一員となる上での重要な過程を示しています。核兵器の放棄により、カザフスタンは、侵略者や、「ならず者国家になる可能性のある国」として国際社会からレッテルを貼られることもなくなったのです。ロシアや中国といった、近隣の核保有国とも敵対せず、むしろ圧倒的な平和関係を築くことができましたし、貿易関係も堅固です。いまや、カザフスタンは、近代的国家として認められ、地域と世界の平和と繁栄に対して実体のある貢献ができる国となったのです。
核放棄がもたらした賞賛と国の繁栄
─日本の読者へ向けてのメッセージをお願いします。
最後に強調したいのは、世界から大いに賞賛され、国連の公式文書にもなり、世界のリーダーや専門家の間で反響を呼んだ、マニフェスト「The World. XXI century 21(世界:21世紀)」の重要性についてです。このマニフェストが、16年にワシントンで開催された「核セキュリティ・サミット」の中でナザルバエフ大統領から発表されると、カーネギー国際平和基金本部をはじめ、ナザルバエフ大統領と米国の著名人や政治家との対話の中で大変な話題となりましたし、国際社会から熱烈に支持されました。カザフスタンが中央アジアの国として初めて、国連安全保障理事会の非常任理事国に選出(2017~18年)されたきっかけとしても、このマニフェストは象徴的でした。なにしろ平和と安全保障を維持する主要15カ国の一員として選ばれた事実は、ナザルバエフ大統領が世界の安全保障の強化に向けて尽力し、個人としても大きく貢献したことに対する、国際社会の高い評価を意味するものだからです。
カザフスタンは、戦争のない時代に核兵器がもたらした最悪の結末にどこよりも苦しみましたし、大きな犠牲を払うこととなりました。しかし、この経験があったからこそ、確実に世界をより安全な場所にするための重要な貢献をすることができたのです。
カザフスタンは、軍縮、平和推進、グローバル安全保障を拡大する努力によって、地域の非核大国としての地位を強固なものにしました。核兵器の放棄が、経済や政治の発展への重要な要因となったばかりではなく、国内の安定にもつながったことは、声を大にして、国際社会に訴えていかねばなりません。
INPS Japan/『月刊「潮」2020年10月号より転載』
イェルラン・バウダルベック・コジャタエフ在日カザフスタン共和国特命全権大使。1967年生まれ。カザフ国立大学卒業後、モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科を卒業。92年からカザフスタン共和国外務省アジア・アフリカ課に勤務。93年、国際交流基金日本語国際センター(埼玉県)に、96年には同沖縄国際センターに留学。2004年カザフスタン外務省アジア・アフリカ局長、08年在シンガポール全権大使を経て16年より現職。
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