地域アジア・太平洋|カンボジア|数十年の時を経てS-21刑務所の生存者が語る真実

|カンボジア|数十年の時を経てS-21刑務所の生存者が語る真実

【プノンペンINPS=ロバート・カーマイケル】

「私は手錠をかけられ床にうつ伏せになって横たわるよう命じられた。」と老人は裁判官に向かって証言した。 

「看守たちは棒の束を持ってきて床に放り投げました。棒の束は床に落ると大きな音が響きました。そして好きな棒を選ぶように言ったのです。私は彼らに、『兄弟、たとえどれを選んでもその棒で私を殴るのだろう。それならどれにするかは君次第だよ。』と応えました。」

 これらは、カンボジア特別法廷(ECCC)として知られる現在公判中の国連支援の裁判において、ポルポト時代を生き延びたボウ・メン氏が先週プノンペンで終日に亘って行った悲惨な証言のほんの一部である。 

ボウ・メン氏はトゥール・スレン(S-21)刑務所と呼ばれた重警備刑務所において拷問された際の経験について語った。民主カンプチアとして知られるクメール・ルージュ政権に国家の敵と目された人々は、1975年から同政権が崩壊した1979年までの間、S-21刑務所に収監され、拷問のうえ惨殺された。 

この時期、15000人以上が同刑務所に送られ生き残ったのはほんの一握りの人達だった。 

1980年代初頭に撮影された有名な写真にはS-21刑務所を生き延びた7名が建物前で互いに腕を組んで立っている。以来、4名が既に他界した。 

彼らが生き残れた唯一の理由は、S-21刑務所長の「ドッチ同志」が利用できると認めた技術を持っていたからだった。 

先週、その生き残った3人に、人道に対する罪に問われているドッチ(本名:カン・ケ・イウ)の裁判で自らの経験について証言する機会が巡ってきた。ドッチはもし有罪になれば終身刑に処されることとなる。 

彼らの証言は約200万人のカンボジア人が殺された1975年から1979年の恐怖の時代の記憶を生々しくよみがえられることとなった。 

3人は、1970年代のカンボジアというクメール・ルージュ政権支配下の恐怖の時代に翻弄された、ごく普通の人々である。逮捕時、ボウ・メン氏は農業組合で農機具を作る仕事に、そして彼の妻は水田で稲作に従事していた。 

ボウ・メン氏は、法廷での証言で、「1977年中旬に夫婦そろって逮捕され、S-21刑務所に収監された」と語った。彼の妻は刑務所到着時に引き離され、その後2度と再会することはなかった。彼は写真を撮られ、服を脱がされたうえ、元小学校(=S-21刑務所)の教室だったところに他の囚人と共に鉄棒に繋ぎとめられた。 

「その部屋には30人から40人が収容されていました。私の近くの部屋の隅に背の高い白人の外国人が収監されているのを見ました。彼も私たちと同じ薄い粥の配給を受けていました。私たちには米は殆ど与えられず、私は当時痩せ細り、体力が殆どありませんでした。」とボウ・メン氏は語った。 

証言台に立った3名とも耐えられないほどの食料と水の不足、そして動物以下の扱いをうけたことを語った。S-21刑務所の囚人は、当然のこととして、殴打、鞭打ち、電気ショック等の拷問に晒された。 

拷問の目的は専ら囚人たちが「犯したはずの罪」を自白させるさせることでした。1977年中旬から1978年にかけて別々に逮捕された3名の証言者の容疑は、いずれも政府転覆を狙ってCIAかKGBに参画したというものだった。 

当時の独裁主義体制下では、S-21刑務所に収監されたことはすなわち有罪を意味していた。従って、囚人たちにとって自らの無罪を証明する機会は無きに等しいものだった。囚人に与えられた唯一のオプションは「罪を自白するか」(その後結局殺されることとなるが)或いは当時の言葉で云う「粉砕されるか」(=惨殺されるか)しかなかった。 

ボウ・メン氏が法廷で述べたように、自分がなぜ逮捕されたのか質問することは全く無意味だった。クメール・ルージュ体制の下で「革命組織(オンカー)」と呼ばれた党幹部達は、決して判断を間違えない、全てを見通し、全てを知る全能の存在とされていたからだ。 


ボウ・メン氏は、「私は(看守に向かって)『私も妻も孤児なんです。私たちがどんな間違いを犯したのでしょうか?』と問いかけたところ、彼らは『そのような質問は必要ない。知っての通りオンカーにはパイナップルのように多くの眼があるのだ。そもそもお前が間違いを犯していなければ、オンカーがお前を逮捕することはないのだ。』と言っていた。)と証言した。 

S-21刑務所において地獄の18か月を生き延びたボウ・メン氏は、先週証言台に立った他の2人の元囚人と同じく、無実の罪により逮捕・収監された人物である。 

ヴァン・ナト氏は今日カンボジアで最も有名な画家であるが、証言台に立ったナト氏は「民主カンプチアは私から人間の尊厳を奪った」と語った。 

ナト氏は、S-21刑務所で60人の囚人が大きな部屋の中でどのように鎖で繋がれていたかについて語った。囚人たちの死は日常茶飯事だったが、夜遅く死体が取り払われるまで生きた囚人と鎖でつながれたまま放置された。一日の食料は僅かティースプーン3杯ほどの薄い粥で、ナト氏が収監後約1ヵ月間そのような環境でなんとか生き延びていたある日、看守に呼び出された。その時、彼は看守の呼び出しは殺されることを意味していると知っていたので生きる望みをあきらめた。 

しかしナト氏は殺されなかった。それはドッチ所長がナト氏の画家としての腕前について評判を耳にしたからだった。当時オンカーは指導者(ポル・ポト)の肖像画を制作する人材を必要としており、結果としてナト氏はボウ・メン氏と共に巨大なキャンバスに向かって肖像画を描く仕事に従事させられた。 

3人目の証言者で機械工のチュン・メイ氏(79歳)は、彼がどのように逮捕されS-21刑務所に連行されていったかについて語った。また、刑務所での拷問に耐えられず、ありもしないKGB/CIAの陰謀に加担したと自白させられたことについても語った。 

しかしメイ氏は、殺されるどころか、彼のミシンを修理できる技術がドッチ所長の目にとまり、生き延びることが許された。ドッチ所長は当時機械修理ができる人材を必要としており、メイ氏はミシン、水道管やタイプライター等を修理する仕事に従事させられた。 

3人の男たちは、民主カンプチアに侵攻したベトナムが支援する解放軍が1979年1月7日にプノンペンを陥落させた後、S-21刑務所から釈放された。 

3人の生存者が失ったものは、当時のカンボジアに降りかかった大惨事の縮図と言えるものだった:ボウ・メン氏の妻はS-21刑務所でドッチ所長の指揮の下ほぼ確実に殺害されたと見られている。チュン・メイ氏の妻と4人の子供はクメール・ルージュの手により殺害された。ヴァン・ナト氏の妻はクメール・ルージュ時代を生き延びたが、夫妻の2人の子供たちは死んでしまった。 

3人のうち、いずれも当時の経験を忘れられるものはいないが、裁判で証言できたことで、心の負担をある程度軽減することができたようだ。ボウ・メン氏は裁判官に向かって「私はようやくカンボジア特別法廷(ECCC)の証言席に立つことができました。ECCCは私に正義を見つけることができるのです。私は、その正義がたとえ100%でなく60%であっても十分幸せなのです。」と語った。 

ヴァン・ナト氏もECCCに対する希望を表明した。「私は今日この裁判の証言に立って若い世代の人々に私の苦境や経験についてお話をする機会があるとは夢にも思っていませんでした。私はこのような機会を頂いたことを大変名誉なことと思っていますし、これ以上のことは望むべくもありません。私の唯一の希望は、当時亡くなった人達に対する正義がなされること。それこそがこの法廷ができることだと思います。」と語った。 

それでもクメール・ルージュ時代を生き延びた多くの人々は、「なぜ私がこのような酷い目に逢わなければならなかったのか?」というおそらく最も重要な疑問に対して満足のいく回答を得られることはないだろう。 

元画家のボウ・メン氏は「協同組合では妻と私は毎日懸命に働いていました。今振り返っても当時私がどのような失敗を犯したのか思い当たらないのです。」と語った。 (原文へ

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩 

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