【ハバナIPS=ダリア・アコスタ】
キューバでは、12月の訪れはハリケーン・シーズンの終わりであり、酷暑の到来であるが、キューバの現代史においてもっとも劇的な時期のひとつを思い出す時でもある。1975年から88年まで35万人余のキューバ人が参戦したアンゴラ紛争である。
キューバ軍の派遣は、1975年11月11日にポルトガルからの独立後大統領に就任した左派「アンゴラ解放人民運動(MPLA)」の指導者アゴスティニョ・ネゴの要請で同年10月に初めて実施された。キューバ軍の到着は、首都ルアンダがMPLAの対抗勢力でザイール、米国、南アフリカ支援のアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)の手中に落ちるのを阻む決め手と考えられた。
キューバ軍の活躍は現在、それをたたえるスポット放送が国営テレビやラジオで日々流されているが、多くのキューバ人は戦争が兵士たちに及ぼした影響に思いを致す。
「弟が戦争の話をしたことはない」とIPSの取材に応じて語ったアンヘル・サンティエステバンは、「弟ヴィラソンの手紙を読んで、死の恐怖が彼の人格を奪ってしまったこと、体だけでなく、心も死ぬものであることを知った」と言い添えた。1988年初頭の南ア軍との激戦を生き抜いた退役軍人ラファエル・アレマーニ(60)は、アンゴラ参戦部隊の大半はこうした精神的トラウマに苦しむことはなかったと主張する。
しかし、砲撃から遠く1万キロ離れたキューバでも、残された家族は戦争の影響を実感していた。ヴィラソンの母親は息子のクローゼットを開け、息子の好きな料理を作るたびに涙を流していたという。キューバ政府の統計によれば、1960年代初頭から91年5月25日にアンゴラから完全撤退するまでに2,077人のキューバ人が死亡した。
キューバの左派政権に対する援助は、軍事に留まらず、保健医療、教育、建設などにも及び、5万人以上の文民も参加した。1977年からアンゴラで教員の訓練に当たったオルガ・ザヤス(62)は、やりがいのある2年間だったと振り返る。
アンゴラ内戦がキューバの人々の心に残した足跡を追う。(原文へ)
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩
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