14日間の日本滞在で学んだ4つのこと
【National Catholic Register/INPS JapanワシントンDC=ヴィクトル・ガエタン】
桜のピークだった4月、私は飛行機や新幹線、地下鉄等を乗り継いで、日本各地のカトリック教会を探訪する有意義な14日間を過ごした。今回の日本滞在は、ローマ教皇フランシスコとのアドリミナ訪問を控えた東京カテドラル聖マリア大聖堂の菊池功大司教との面談から始まり、9月にパリで開催される聖エジディオ共同体主催の平和会議に出席予定の三井紳作神社本庁教化広報部国際課課長との面談で終えた。
統計だけではわからない。約1億2500万人の日本の人口のうち、約53万6000人がカトリック信者である。また、日本で働くカトリック信者がさらに50万人いる。3つの大司教区(長崎、大阪、東京)を含む15の教区は、1つの神学校が奉仕する850の小教区を擁している。
繊細ながら壊れない…謙虚で誇り高い…日本の文化と社会は、相反するもののバランスをとっている。多くの印象の中で、私は日本のカトリック教会についての4つの現実を抽出し、共有することとした。それはつまり、①新しいカトリック信者はますます多文化化が進む社会の一部であること、②カトリック学校が教会の影響力を拡大していること、③イエズス会は1549年にカトリック信仰を日本にもたらし依然として影響力を持っていること、そして④平和がバチカンと日本の世界観を融合させる共有の課題であること、である。
移民要因
日本のカトリック教会についての決まり文句は、全般的な人口減少を考えれば、規模が小さいカトリックコミュニティーは、さらに小さくなるに違いないというものだ。日本の人口は減少の一途をたどっている。例えば、政府のデータによると、日本では1日に2,293人が亡くなっており、明らかに存亡の危機に直面している。
悲惨なことに、長崎は世界で最も急速に人口が減少している都市である。一方、政府は国家存続のインセンティブよりも軍事力強化を優先しているようだ。岸田文雄首相は、軍事予算を2倍以上の560億ドルに増やす一方で、子育て支援に250億ドルしか割り当てていない。
しかし、教会の動向は紙面上のデータよりもダイナミックである。日本はますます多文化国家となっており、最近海外から移住してきた人々の多くがカトリック信者である。
「1913年に創立された日本最古のカトリック大学である上智大学で神学の教授を務めるイエズス会のアントニウス・フィルマンスヤ神父は、「東京のカトリック教会はますます普遍的になっており、ここでは世界中からのカトリック信者と出会います。」と語った。
「隣の教会(聖イグナチオ教会)には、多くの国籍や民族が集まっていて、とても活気があります。今、一番多いのはベトナム人です(現在、日本には約52万人のベトナム人が住んでいる)。カトリック教会が繁栄しているのは、私たちが異文化との協力にオープンだからです。」と、インドネシア出身のフィルマンシア神父は語った。
2002年に来日し、最初の2年間を言語の習得に費やしたフィルマンシア神父は、「適切な用語を使用しないと日本人の心に触れることはできません。」と語った。
上智大学のイエズス会センターの指導にも携わっているフィルマンシア神父によると、多くのカトリック信者が雇用契約で世界中から日本にやってくる。日本の市民にはなれないかもしれないが、何年も滞在し、日本の生活に溶け込むことが少なくない。
移民について、菊池大司教はこう語ってくれた。
「2007年に教皇ベネディクト16世に初めて謁見した際、法王は私に『あなたの教区での希望は何ですか?』とお尋ねになりました。私の心に浮かんだのは日本の農家に嫁ぐフィリピンからの移民の存在でした。日本の農家は日本人の妻を見つけることが困難なため、カトリック教徒のフィリピン人女性を探しているのです。彼女たちは教会のない村に住んでいますが、希望に満ちています。フィリピンのタグレ枢機卿も同じことを言っているのですが、彼はフィリピンからの移住者たちに『あなたたちは神から遣わされた宣教師だ!』と励ましています。そして、それは真実なのです。」
フィルマンシア神父は、教会の歴史的な宣教的アプローチは、福音のメッセージにうまく役立っていると考えている。 「1549年に日本にカトリック信仰をもたらした聖フランシスコ・ザビエルは、非常に実り多い人でした。彼は対話を重視しました。征服するのではなく、調和させるのです。」
在日フィリピン人の人々にどこで礼拝しているのか尋ねると、東京では聖アンセルム目黒カトリック教会で、タガログ語、インドネシア語、英語、日本語でミサが行われていることがわかった。教会長のアントニオ・カマチョ神父はメキシコシティで生まれ、神学を学ぶために1991年に来日した。助任司祭のマルティン・アクウェティ・デュマス神父はガーナで育ち、2010年に叙階された。所属する神の御言葉宣教会から日本に派遣された。
美しい古都・京都で、70人ほどの信者とともに聖フランシスコ・ザビエル大聖堂のミサに参列したが、祭壇にいたのはインド人の修道女だけだったため、最初は困惑した。
カルメル修道会のテシ・ジョージ修道女はミサの後、「今日は3人の司祭が忙しいんです。彼らはすでにホスト(聖体拝領のためのパン)を聖別しましたので、これは聖体拝領の儀式であり、ミサではありませんでした。」と簡潔に語った。
教育による影響力
カトリック教会が幼稚園から大学まで運営する学校を通じて影響力を拡大するというのは、宣教地における定説で、日本はその一例である。
菊地大司教の母親は、北部の宮古市にあるカトリック幼稚園で教鞭をとっていた。「幼稚園は教会よりも有名でした。」「教育を福音化の道具として活用することは、日本のカトリック教会の長年の方針であり、うまくいっています。卒業生は官公庁や企業にいるので、名門大学である上智大学のような学校があることは重要です。」と、菊池大司教は説明した。
新学期の初日に、私は東京の中心部にある上智大学の立派なキャンパスを訪れた。この大学はローマ教皇ピウス10世の発案で設立された。ピウス10世は1906年、ドイツのイエズス会に日本で教育機関を設立するよう命じた。
第二次世界大戦中、米軍の空襲でキャンパスの大部分は焼け野原になったが、その後再建された。現在、80カ国以上から集まった約14,000人の学生が学んでいる。
「上智大学で英語と文学を教えている米国人のマリア・ルパス教授は、「カトリック教会は日本社会の一部と考えられています。彼女は、今上天皇の母である上皇后様がカトリックの学校で教育を受け、東京の聖心女子大学を卒業しています。」と指摘した。美智子上皇后は1989年から2019年まで在位し、皇室に嫁いだ最初の一般人だった。
もう一人の聖心女子大学出身者は曽野綾子氏で、日本で最も尊敬されている小説家の一人である。曽野氏は長崎に修道院を設立し、1930年から36年まで長崎で生活した聖マクシミリアノ・コルベ神父についての歴史小説『奇跡』(1973年)を書いた。
イエズス会の影響
イエズス会の共同創立者である聖フランシスコ・ザビエルは、1549年に日本にキリスト教を伝えた。数十年後に豊臣秀吉による厳しい迫害が始まるまで、キリスト教信仰は急速に広まった。イエズス会が幕末に再び日本に戻るまで約300年の空白があったものの、イエズス会の影響は今日に至るまで強く残っている。
上智大学以外にも、イエズス会は広島で音楽大学と4つの名門中等学校を運営している。
イエズス会は日本列島における教会の歴史の守護者であるかのようだ。イエズス会の川村信三神父は、17世紀初頭に日本の東北地方に住むカトリック信者が教皇パウロ5世に宛てた驚くべき感謝状を発見した。彼らは教皇が新しい信者に送った激励の手紙に応えていた。「ここでの私たちの歴史は粘り強いものです。」と川村神父は上智大学図書館のワークスペースで静かに語った。
この手紙は、カトリック信徒が最も頻繁に南西部の貿易港と関連付けられるため、驚くべきものだ。しかし、菊池大司教が説明するように、南西部地域で「隠れキリシタン」の物語が最も公に残されているものの、カトリック信徒は日本全国に広がっていた。
河村神父の研究は、角川文化振興財団が支援する「バチカンと日本100年プロジェクト」の恩恵を受けた。来年4月から10月にかけて大阪で開催される2025年万博のために、同財団はバチカン唯一のカラヴァッジョ作品「キリストの埋葬」を公開展示する手配をしている。
現在、日本にいる約150人のイエズス会司祭のうち、半数以上が高齢者で、その多くはとても活発に活動している。
私が面談した中でも最も感動した一人は、1958年にスペインのサラマンカから初めて日本に来た89歳の神父、イエズス会士のアルド・イサム神父だった。神父はそれ以来日本に住んで日本国籍を取得しており、これは意外な形で神父の活動の助けとなった。神父はベトナムからの「ボートピープル」を助ける活動に参加し、1990年に初めてベトナムを訪問した。そしてまもなく「日越」を立ち上げ、貧しい地域の経済開発プロジェクトを支援するための財団を設立した。イサム神父は今年9月に37回目のベトナム訪問を計画している。
イサム神父によると、ベトナムの教会が繁栄しているのは、地元の司祭たちが地元の役人たちと建設的に協力する方法を見つけているからだという。「ベトナム戦争後、10人のイエズス会士が投獄されました。教会が当局の敵とつながっているとみなされたのです。しかし今では、ベトナムにはほぼ300人のイエズス会士がいます。そしてベトナムは、日本を含む世界中で奉仕する司祭を輩出しているのです。」
私が会ったもう一人の賢明で献身的なイエズス会士は、長崎の二十六殉教者記念館・記念碑の館長であるレンゾ・デ・ルカ神父だった。イサム神父のように母国(アルゼンチン)を離れ、ほとんど振り返ることもなく、来年日本での40周年を迎える。デ・ルカ神父は、キリスト教迫が害されるなかで約250年間司祭なしで信仰を守り続けた「隠れキリシタン」の物語を記録した印象的な博物館をじっくりと案内してくれた。
デ・ルカ神父はまた、カトリック教会の 「小さな世界 」を象徴している。サン・ミゲルの神学校に在籍していたとき、3年近く指導を受けたのがホルヘ・ベルゴリオ神父で、彼はデ・ルカ神父に宣教師になるよう勧めた。ベルゴリオ神父は、比較的若かったデ・ルカ神父をジョージタウン大学に送り、英語を学ばせた。その後、後の教皇フランシスコは、デ・ルカ神父を含む5人の学生を日本に派遣した。
2019年の教皇訪日では、デ・ルカ神父が通訳を務めた。旅のビデオでは、若い神父が年長の教皇を雨風から守っている姿が映っている。
時代を超えて教皇たちを結びつける平和のメッセージ
1981年2月に教皇ヨハネ・パウロ2世が 「平和の巡礼者」として来日して以来、カトリック信仰が極小であるはずのこの国にとって、教会と教皇たちは大きな善意を生み出している。
教皇ヨハネ・パウロ2世は、8月6日に原子爆弾が投下された広島と、9日に投下された長崎で、全身全霊を傾けて演説を行った。報道によると、広島市長が原爆投下による人道的惨状について語った際、法王の目には時折涙が浮かんでいた。
法王は広島の爆心地で、感情に満ちた平和のアピールを行い、冒頭で戦争を厳しく非難した。 「戦争は人間のしわざです。 戦争は人間の生命の破壊です。 戦争は死です。…」
過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを忘れないことは、核戦争を憎むことでです。ヒロシマを忘れないことは、平和を約束することです。ヒロシマの人々の苦しみを忘れないことは、人類への信頼を新たにすることであり、善をなす能力、模範となるものを選ぶ自由、そして災害を新たな始まりに変える決意を持つことです。」
その場にいた『ニューヨーカー』誌の記者は、「法王は9つの言語を話し、最初と最後は日本語で、その間には英語、中国語、フランス語、ロシア語と、核保有5大国の言語を織り交ぜて、それぞれの国向けのサウンドバイトを用意していた。」と振り返っている。
それから28年後、教皇フランシスコは同じ3都市を再訪し(東京から長崎に飛び、その後、広島に飛んだ)、最も予言的な演説を長崎で行った。教皇フランシスコは、核兵器廃絶のアピールを開始した日本の司教たちを称賛し、「多国間主義の浸食」を嘆き、聖フランシスコの祈りを唱えた。巡礼のテーマは「すべてのいのちを守る」であり、胎児、高齢者、難民、環境の保護から死刑廃止キャンペーンの支援まで多岐にわたった。
報道によれば、2019年、日本の一般市民は1981年よりもさらに教皇の言葉や行程にさらに関心を寄せているようだった。
「教皇フランシスコは教皇ヨハネ・パウロ2世のメッセージを引き継ぎました。両教皇は日本の教会に平和のメッセージとなるよう招き、それが私たちが本当に目指していることです。」とフィルマンシア神父は語った。
「教皇フランシスコは非キリスト教国の訪問者であることを強く意識していました。彼はすべての人が理解できるように話し、人々はとても反応していました。」と、デ・ルカ神父は付け加えた。(原文へ)
INPS Japan/National Catholic Register
Original Article: https://www.ncregister.com/news/changing-face-of-catholic-church-in-japan-amid-nation-s-existential-crisis
ヴィクトル・ガエタンはナショナル・カトリック・レジスター紙のシニア国際特派員であり、アジア、欧州、ラテンアメリカ、中東で執筆しており、口が堅いことで有名なバチカン外交団との豊富な接触経験を持つ。一般には公開されていないバチカン秘密公文書館で貴重な見識を集めた。外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』誌やカトリック・ニュース・サービス等に寄稿。2024年4月、IPS Japanの浅霧理事長と共に長崎を取材訪問。INPS Japanではナショナル・カトリック・レジスター紙の許可を得て日本語版の配信を担当した(With permission from the National Catholic Register)」。
*ナショナル・カトリック・レジスター紙は、米国で最も歴史があるカトリック系週刊誌(1927年創立)
関連記事:
|核兵器なき世界| 仏教徒とカトリック教徒の自然な同盟(ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスター紙シニア国際特派員)