地域アジア・太平洋|ネパール|人命を奪うのは地震ではなく建物…それとも不公正か?

|ネパール|人命を奪うのは地震ではなく建物…それとも不公正か?

【カトマンズIPS=ロバート・ステファニキ】

チウテ・タマンさん(70歳)は、4月25日の地震(マグニチュード7.8)発生時、自分の耕作地で作業をしていたが、あまりの揺れに最寄りの木にしがみついた。彼の妻と娘はその時家の中にいたが、とっさに外に逃げ出した。家はあっという間に倒壊し瓦礫と化した。しかし彼らは運が良かったほうだ。

「人命を奪うのは地震ではなく建物。」これは震災を経験した地域では周知の事実だが、今回の地震でネパールの人々もこの教訓を痛感することとなった。犠牲者のほぼ全員が、未熟な石工が石と泥を単純に積み重ねただけの家屋の下敷きになって落命していた。レンガやセメントは費用がかかるが、石と泥はただで入手できるため、これが一般的に普及している施工方法だった。

ネパール西部のダディン郡(カトマンズの北西38キロ)の丘陵地帯に位置するチウテさん一家が暮らしてきたラムチェ村では、村内181戸のうち、168戸が倒壊し住めない状態になっている。

ネパール政府の最新の報告によると、4月25日の震災で倒壊した建物は16郡で607,212戸にのぼったが、そのうち実に63%が、タマン族が暮らしている地域だった。タマン族は、ヒマラヤ地域に居住するチベット・ビルマ語派の中で最大かつ最も貧しい部族だが、ネパール全人口に占める割合は6%に満たない(約135万人)。

このような被害状況を見ると、むしろ「人命を奪うのは地震ではなく不公正。」といった方が適切だろう。今回の震災で亡くなった8844人のうち、実に3012人がタマン族の人々だった。また犠牲者の50%以上がネパール社会の主流から取り残されたコミュニティーに属する人々であり、半数以上が女性だった。

ラムチェ村はタマン族の村である。なかには自身の耕作地を持ちトウモロコシやくるみ大のジャガイモを栽培しているものもいるが、収穫物で家族を養えるのはせいぜい2~3ヶ月に過ぎない。タマン族の人々は残りの期間を契約労働者として働いて生活している。 

ラムチェ村の人々は自分たちが大変貧しいと認めている。なぜかと尋ねると、「先祖代々貧しいから…」という回答が返ってくる。彼らは自分たちが貧しいのは運命であると受入れ差別されているとは感じていない。何世紀にも亘って組織的に搾取され続けた結果、不公正が社会の一部として蔓延っているのだ。

筋骨たくましいタマン族の人々は、歴史を通じてカトマンズの支配層に対して一定の労働力を提供してきた。しかし過去においては、タマン族出身者は政治や軍に参加する道を閉ざされていた。今日でも、末端の兵士や警察官として前線に投入されることはあっても、軍や警察機構の中で彼らが出世できる見込みはほとんどない。また、タマン族の声はネパール政府の施策に反映されていない。

また大半のタマン族は仏教徒だが、ヒンドゥー教徒である支配者層がネパール社会に浸透させてきたカースト制の支配から免れることはできない。ネパール社会で影響力を行使しているのはブラーミン(最上級カースト)に属するネワール族チェトリ族の人々であり、「良家」の出とされるこうしたエリート達はタマン族の人々を見下している。

経済的苦境から困窮化した農民が働き口を求めてカトマンズの労働市場に流入してきており、ホテルで働くポーターの約半数、テンプ―と呼ばれる三輪タクシー運転手の大半を占めるようになっている。こうしたなか、刑務所を調査した統計によると、人口規模に対して不均衡な数のタマン族出身者が刑法犯罪で収監されている。

タマン族の人々はこれまでと同様、今回の震災に際してもネパール政府の支援を当てにはしなかった。震災後、ラムチェ村の人々は互いに助け合い、料理を共にし、瓦礫と化した村の再建を村民同士の協力で進めてきた。その結果、ラムチェ村ではNGOによる限定的な支援を得ながら、震災後の混乱は落ち着きを取り戻しつつある。

震災から1週間後、ラムチェ村の被災者には、欧州委員会人道支援・市民保護局(ECHO)からの資金援助による毛布や防水シート、蚊帳が支給された。

今日、村中の人々が仮宿舎で行列を作り、現地NGOアドラのスタッフから欧州連合のロゴマークが入ったプラスチック製水タンクと衛生キット(歯磨き粉、歯ブラシ、浄水錠剤、生理用ナプキン、経口避妊薬)を受け取っている。そして若い女性活動家らが、粘り強く一人一人の村人に衛生キットの使い方を説明している。

チウテ・タマンさんの家族は、地震で家が倒壊した後、木切れを組み合わせただけの、今にも壊れそうな小屋で3日間を過ごした。その後、入手した防水シートでテントを作り、そこに家族にとって最も貴重な財産であるヤギと一緒に移り住んだ。チウテさんは、「家畜は夜間テントの外に放置してはなりません。なぜなら、虎や豹の餌になりかねないからです。」と語った。一週間後、チウテさんは借金して建築建材を運び込み、隣人の協力を得て、自身と妻、最年少の娘と夫のための家を建てた。

小屋のデザインはいたってシンプルである。木材を組み屋根と壁をトタンの波板で覆ったワンルームの床は油布が敷き詰められており、それに簡易なベッドと食器棚、ガスコンロが備え付けられている。

チウテさんは、「たとえこの小屋が倒壊しても、最悪の場合、私たちの上に覆いかぶさるものは石ではなくトタン板にすぎません。」と皮肉交じりに語った。

木材は遠方から運ばなければならなかったため小屋の建設には2週間がかかった。そして小屋が完成してしばらくしてネパール政府による支援がようやくラムチェ村にももたらされた。震災で家屋を失った家族に対する政府の支援策は15,000ルピーの低利貸付を行うというもので、チウテさんはこのローンを利用して小屋を建設するために負った借金の約半額を返済した。

チウテさんと同じくラムチェ村の住民であるディーパク・ブテルさん(29歳)は、今回の政府支援で180,000ルピーの融資を受けることができた。しかし、ブテルさんの場合不幸なことに、震災時に妻と生後18カ月になる幼い娘が倒壊した家の瓦礫の下敷きとなり亡くなっている。

これだけの資金があれば将来の地震にも耐えられる家を建設することが可能だが、今や長女が唯一の家族となったディーパクさんは、「おそらく自分も最終的にはトタン屋根の小屋に住むことになるでしょう。これまで生涯に亘ってぎりぎりの暮らししか知らない私としては、全財産を家の建設のみに費やしたくはないのです。」と語った。

今後の復興過程において、はたしてネパール政府が、この機会を活かしてタマン族がどうして自然災害にかくも脆弱なのか、そして将来災害からタマン族の人々を保護するには何ができるかについて、その答えを導き出すか否かは、時間が経過すれば明らかになるだろう。

ネパールタイムズによると、国家計画委員会前副会長のジャグディシュ・チャンドラ・ポクレール氏は、「過去の失敗を繰り返してはなりません。かつて1980年代初等、マクワンプールに貯水池が建設された際、その地域に居住するタマン族の一家約500戸がネパール政府の命令で移転を余儀なくされたことがあります。その際、タマン族の人々は現金による補償ではなく、他の土地への再定住を希望しました。」「しかし政府は現金補償を実施しました。その結果、補償金で土地を購入した者はごく一部で、大半の立ち退き家族は、まもなく補償金を使い果たし再び困窮したのです。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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