「レバノンで私が経験したことを誰も知りません。この苦しみは、私だけのものです。」
【カトマンズNepali Times=サジタ・ラマ】
レバノンからネパールへ帰国して3年が経ちました。12年間働き続けた家族から一切の給与を受け取ることができなかった私が、生きて帰れるとは思っていませんでした。
私は何も持たずに帰国しました。母が支えてくれなければ、どうなっていたか分かりません。帰国後しばらくは何もできずにいましたが、ようやく気持ちを奮い立たせ、美容の技術を学びました。しかし、海外での経験がトラウマとなっていたのか、人付き合いを避け、クラスでもあまり話しませんでした。
私の苦しみは、私だけのもの。レバノンでの経験を誰にも話すことはありませんでした。
訓練センターでは仕事の紹介も受けました。フェイシャルやヘアストレートなどを数か月試しましたが、使用する薬剤で胸が痛み、続けることはできませんでした。
そんな中、私は料理をすることが心の癒しになると気づきました。現在は家庭の朝食と夕食を作る仕事をしており、ときどきホームパーティーのケータリングも請け負います。
私はひとりで40~50人分の食事を作ることができます。仕事のほとんどは口コミや紹介によるものですが、多くの人が私の料理を気に入ってくれています。それが何より嬉しいです。特にタカリ料理が得意で、YouTubeでレシピを学びながら日々腕を磨いています。レバノンの家族のために料理していた経験も役立っています。ただ、あちらの食事は油が少なく味も淡白でしたが。

音楽を聴きながら楽しく料理をしようと努めていますが、それでも時折フラッシュバックが起こり、あの12年間を思い出してしまいます。なぜ彼らは私に一銭も支払わずに済んだのか。あの過酷な労働は、すべて無駄だったのか。
ネパールでは時間給や日給で支払いを受けることができますし、チップをもらえることもあります。決して多くはありませんが、それでも「支払われる」ということが、レバノンとは大きく異なります。
海外から戻ってきた人たちは貯金を持ち帰り、それを元手に投資をしています。でも、私は何も持ち帰れませんでした。命からがら帰国しただけです。それでも、前を向こうと努力しています。仕事を持ち、人との交流も増えてきました。

レバノンでの未払い賃金については、現在も法的手続きを進めています。支払いが行われるのがいつになるのか、あるいは本当に支払われるのかも分かりません。ただ、法的手続きには時間がかかると言われているので、気長に待つしかないと思っています。
帰国当初は、アラビア語とネパール語を混同してしまうことがよくありました。今ではアラビア語を忘れてしまいました。帰国時、私はわずか30キロしかなく、食事もほとんどとれませんでした。今は食欲も戻り、少しは食べられるようになりました。
今、私は再び海外で働くことを考えています。今度は美容師や料理人として、ドバイに行こうかと考えています。しかし、訴訟のためにネパールに残るべきかどうか迷っています。もしも裁判の手続きで呼び出されたら、その時すぐに戻れるのか——それが不安です。
もし未払い賃金をすべて受け取ることができたら、海外に行かずに小さな खाजा घर(軽食堂) を開きたいです。バス停の近くなど、人通りの多い場所に小さな店を構え、少しずつ大きくしていけたらと思っています。
今の仕事でなんとか生活はできています。でも、それ以上のことはできません。私はまだ若い。数年間だけでも海外で働き、その後ネパールで事業を立ち上げることは可能かもしれません。
ただ、一度ひどい経験をしているだけに、もう一度同じ目に遭うのではないかという恐怖もあります。でも、母は「前を向きなさい」と言ってくれます。「起こったことは忘れなさい。あなたにできないことなどない」と。
私の夢は、カトマンズに小さな家を持つことです。2階に住み、1階では助けを必要としている人たちを支援する施設を作りたい。貧しく、病気で、頼る人のいない人たちに食事を提供し、世話をするのです。
それが実現すれば、どんなに嬉しいことか。
でも、まずは自分の生活を安定させなくてはなりません。他人を助けるには、まず自分が助かることが必要なのです。
【ディアスポラ・ダイアリーズ第4回】
(ネパール・タイムズ第1104号、2022年3月25日~31日 掲載)
私は18歳のとき、レバノンへ行きました。12年間、家政婦として働きました。そのうち給与が支払われたのは、わずか1年9か月分だけでした。

私のケースは特異です。多くの人は雇用主に搾取されていることに早く気づきますが、私は長い間、それを理解していませんでした。私は雇用主の家族とうまくやっていましたし、彼らは「あなたの給料は銀行に貯めてある」と言ってくれました。それを信じない理由はありませんでした。彼らは「家族同然」だと思っていたのです。
しかし、それは私の勘違いでした。ただの労働力として利用されていただけだったのです。
2010年にネパールを出国するとき、義姉が5ルピー札をくれました。私は12年間、それを大切に持っていました。そして、帰国したときも、私の所持金はその5ルピー札だけでした。
今、その5ルピー札はラミネート加工してあります。私は決して忘れないでしょう。ネパールを出発するときに持っていたお金、それが私が帰国したときに持っていた唯一のお金だったのです。
(※本記事には、サジタ・ラマの帰国時の映像や、彼女のレバノン人雇用主へのインタビュー映像があります。一部視聴者にとっては衝撃的な内容を含む可能性があります。)
ディアスポラ・ダイアリーズは、ネパール・タイムズと Migration Lab の共同企画です。海外での生活、仕事、留学などの経験を共有する場を提供しています。(原文へ)
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