ニュース|輸送と環境|社員と共に社会との共存共栄を目指す(石原正貴)

|輸送と環境|社員と共に社会との共存共栄を目指す(石原正貴)

【東京IDN=浅霧勝浩】

「吾以外皆我師(われいがいみなわがし)」この諺の通り、株式会社日ノ丸急送の石原正貴社長は、社員との日頃からの細やかなコミュニケーションを経営の信条としている。「私は当社で働いてくれている全ての従業員に感謝の気持ちを持っています。私は仕事への関心や責任感のみならず、一緒に働く同僚としてのプライドと喜びを全従業員と共に分かち合っていきたいのです。」と石原社長は語った。

株式会社日ノ丸急送は、香川県高松市に本社を置き、一般貨物運送のほか、梱包・荷役、保管・物流管理、食品流通加工、物流システム開発を手掛けている。また、2006年以来、「安全性優良事業所(Gマーク)」を取得している。

会社の設立は1957年(昭和32年)。現在役職員45名、現業員170名、パート136名が勤務している。

石原社長は今年の年頭所感の中でこうした信条を以下のように述べている。「いかなる企業も、社会との共存共栄なくしては生き残れません。そのためには、従業員に先進的な訓練を提供し常に社員教育を充実させることが肝要です。自らを社会通念や常識という観点から見直さなければならない時にきています。」

Hinomaru Kyuso
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 また石原社長は「CSR:企業の社会的責任」として、環境への貢献を重視している。日ノ丸急送には、大型車10両、普通車60両、小型車17両、その他14両、フォークリスト5両がある。

「我が社では全てのトラックにデジタルタコグラフを装着しています。トライブレコーダーを導入した他社の場合と同様に、我が社ではデジタルタコグラフを導入した結果、トラック運転手達がより積極的に、安全運転とともに環境に優しい(省エネ)運転に取り組むようになりました。」と石原社長はIDNの取材に対して語った。

石原社長はさらに、「その結果、(それまでも殆どなかったが)物損事故も燃料消費も減りました。デジタルタコグラフにはGPS(全地球測位システム)が組み込まれており、私たちは稼働中の全ての車両の運行ルートを把握できるほか、各車両の走行中における全ての様子を記録することができます。」と付加えた。

石原社長は、以前はサラリーマンであった。後に先代である父に請われてトラック業界に転身した際、当時のトラック業界全体の社会的地位が、不当に低いと感じたと言う。「私は、流通業界は現代社会の基幹部分を支えている重要な産業であると自負してきました。時代は益々目まぐるしく変化しており、トラック業界全体として、とりわけ個々の運送会社としても、時代の要請に適応すべく新しい取り組みに積極的に挑戦していかなければなりません。」

石原社長は1916年(大正5年)生まれで日ノ丸急送の創業者である父正吾について、懐かしく振り返って語った。正吾は東京の拓殖大学を卒業後、三菱マテリアルに就職したが、太平洋戦争が始まると徴兵され中国大陸に送られた。そして出征中は会社では休職扱いとされた。

1945年(昭和20年)8月に日本が降伏した時点で、陸軍主計少尉であった正吾率いる部隊は中国北部の旧ソ連国境にいた。当時ソ連が既に日ソ中立条約を破棄していたことを知らない一行は、中立国のソ連領は安全と思い国境を越えた。ところが、まもなく全員捕虜となりシベリアの強制収容所に抑留された。

正吾はその後解放され、帰国後三菱マテリアルに復職したが、間もなく辞めてしまう。その理由は、元の職場では正吾が出征中、会社に残った元部下たちが戦後は上司に昇格しており、新たな環境に馴染めなかったからだった。

こうした折り、酒場で再会した運輸省に勤める旧友との再会が正吾に新たな転機をもたらすこととなる。その友人は正吾に新たに運送会社を立ち上げることを勧めたのだ。当時、運送会社を始めるには運送免許の取得が必須だったが、友人は免許取得を支援することを約束した。こうして1957年(昭和32年)、正吾は事業用小型3輪自動車4両で有限会社日ノ丸急送をスタートさせ、主に建築資材の輸送を手掛けた。

3人兄弟姉妹の長男として生まれた息子の正貴は、京都の大学を卒業後、父の家業ではなく、関西で信用金庫に就職した。正貴はその理由として、「私は子供の頃から戦後復興期の運送業界を見てきました。今と違って、当時のトラック運転手は荒っぽい人が多く、お酒もよく飲んでいる印象を持っていました。そうしたことから、当時、父の運営する運送会社に就職する気にはなれなかったのです。」と語った。

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しかし約20年前、父正吾が喉頭がんを患いコバルト照射治療を始めたことから、請われて実家に帰ることとなった。その後、幸い正吾はがんから回復したが、結果的に正貴はそのまま家業を手伝うこととなった。

この時期、日本は建築ブームに沸いており、日ノ丸急送では主に建築資材を扱っていた。しかし本州と四国を繋ぐ(日ノ丸急送が本拠をおく香川県は橋の四国側に位置する)瀬戸大橋が完成した頃から、次第に建築ブームは下火となっていった。

「私は当時、建築資材を扱い続けることに危機感を抱きました。しかし当時父は、私が会社の従来の方針を転換することに否定的でした。父は当時、香川県トラック協会の副会長を務めており、実質的な会社の運営にはあまり関わっていませんでした。しかし私は父の存命中は彼の意向を尊重し、建築資材の運搬を継続しました。そして父が他界した後、約10年程前から、会社の方針を転換したのです。」と石原社長は語った。
 
 石原社長はさらに続けて、「主に建築資材の運搬を継続する一方で、新たに食料品を運搬する車両を3台導入しました。しかし当時はまだ、いわば『A地点からB地点』というように単純に物資を輸送していたにすぎませんでした。そうしたある日、私は東京で参加したセミナーで、米国で新たに注目を集めていた3PL(サード・パーティー・ロジスティクス:荷主企業の物流管理の全体もしくは一部を、受託する物流業務形態のひとつ)について知ったのです。」

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「折しも物流業界における価格競争は熾烈になってきており、他社との区別をどうするかが大きな課題となっていました。そうした中で、3PLこそが我が社の将来の行く末を確かなものにすると確信したのです。当初はこの新システムを会社に導入することについて、社員の理解を得るのに苦労しましたが、幸いちょうどタイミングよく、当社に物流管理を委託したいという食料品会社が現れ、導入・実施に踏み切ることができたのです。」
 
 また石原社長は、従来の長距離輸送を廃止し、事業を四国全域に集中した。四国から東京、大阪などへの長距離輸送には、往路はともかく復路に積み荷を見つけることが困難という問題がつきまとっていた。その上、東京や大阪に拠点をもつ運送会社は、地方からの復路に荷台を埋めようとダンピング価格で輸送に応じることが少なくなく、地方の運送業者にとって一層価格競争を厳しいものにしていた。

一方四国(香川、愛媛、高知、徳島)では、日ノ丸急送は、冷蔵設備を備えた物流センターを含む強固な物流ネットワークを有しているため、例えば異なる荷主様の貨物を各々別のトラックではなく、効率よく一台のトラックで配送するなど、競争力ある価格で輸送サービス営業を展開できる。

このように時代の要請に適応して業務改革を進めてきた石原社長だが、父正吾が始めた新聞輸送については、聖教新聞公明新聞四国新聞愛媛新聞を引き続き取り扱っている。事実、日ノ丸急送では新聞運搬業務は食料品輸送業務、3PLによる物流管理業務と並んで同社の主要業務となっている。

本記事は、IDNの特集シリーズ「企業の社会的責任:輸送と環境」の第5弾である

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