【ニューヨークIDN=リサ・ヴィヴェス】
「よく響く太い声でクマのような大男(大柄で髭を生やした風貌)。」ガーナのジェリー・ジョン・ローリングス元大統領をそのようなイメージで思い出す人々もいるだろう。地元紙によると、ローリングス元大統領は11月12日、コルレ・ブー教育病院で亡くなった。享年73歳だった。
「巨木が倒れました。ガーナにとって計り知れない損失です。」と、ナナ・アクフォ・アド現大統領は語った。12月7に予定されている大統領選に向けた選挙活動は、ローリングス前大統領を偲んで一時休止となった。
ローリングス氏は、1947年6月22日にアクラで、スコットランド出身の薬剤師の父ジェームズ・ラムゼイ・ジョンとガーナ人(エウェ人)の母ビクトリア・アグボトゥィのもとに生まれた。首都の名門アチモト学校を卒業後、1967年8月にガーナ空軍(テシエの士官学校)に入隊した。
69年の卒業時には、空軍の最優秀士官候補生に授与される「スピードバード賞」を獲得。77年には幼なじみのナナ・コナドゥ・アゲマンと結婚して、4人の子供を儲けた。
ツイッター上でも多くの哀悼の言葉が寄せられたが、そうした一人でナイジェリアの起業家チェチェフラム・イケブイロ氏は、「ジェリー・ローリングス氏に憧れて育ちました。子どもの頃、彼がいかにして自力で政府から権力を奪取し腐敗を一掃したかについて聞かされていたからです。つまり当時のガーナ国民の生活は耐え難いほど悲惨なものとなっており、軍事独裁政権を倒すしかなかった。そして汚職・腐敗を止めるため、いわゆる『大掃除』作戦を断行したのだ、と。」
ガーナはサブサハラアフリカで欧州の宗主国から独立した初めて黒人国家だが、20年間に亘って政情不安(4回のクーデター)と経済停滞が続いた。ローリングス空軍大尉(当時)がその後長期にわたる政治の表舞台に出てきたのは1979年に軍事クーデターを率いたときで、当初は不正・腐敗に関与していた前政権の元首や高官を裁判にかけて銃殺刑に処すなど、厳しい政策を断行した。
ローリングス氏は当時、「もし権力の座にある人々が、私利私欲のために地位を利用するならば、民衆の抵抗に遭い追放されることになる。私自身も、これから行うことについてガーナの民衆の了承が得られなければ、銃殺隊の前に立つ覚悟はできている。」と宣言して、チームとともに腐敗一掃に着手した。ただし後年、いくつかの処刑については後悔していると回想している。
ローリングス氏は当時、自由アフリカ運動(FAM)など幅広い層の民衆の支持を得ていた。FAMは、独立後も支配的な影響力を及ぼしてきた欧州の旧宗主国政府や西側ビジネスの利権に近い腐敗した政治指導者らから、一致団結してアフリカ大陸を解放することを夢見る若者達の運動である。
1980年までに、既に軍で10年のキャリアを積んでいたローリングス氏は、若い兵士たちや貧困に喘ぐ都市部の労働者層の間で高い人気を誇るカリスマ的なリーダーになっていた。政権を掌握したローリングス氏は、ガーナ独立後の初代大統領クワメ・エンクルマを彷彿とさせる反帝国主義的な外交政策を推進した。
キューバ政府は、エンクルマ時代の友好関係を復活させてローリング政権に対して、とりわけ保健と教育分野の支援を表明した。そして、同国の青年の島にアンゴラ、モザンビーク、ナミビア、エチオピアの人民解放運動の子供たちのために設立した学校と並んで、ガーナの子供たちに向けた学校を開校した。
ローリング政権はまた、米国と南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権が支援するゲリラ勢力の攻撃に晒されていたアンゴラ政府と友好関係を維持した。また、自身と同じく軍人出身のカリスマ的な指導者で1983年に政権を握ったブルキナファソのトーマス・サンカラ氏とも密接な関係を築いた。
冷戦が終結すると、ローリングス氏は民主化を推進して複数政党制を導入、選挙に勝利して大統領を2期務めた。2000年の大統領選挙では、憲法の三選禁止の規定に従い出馬しなかった。引退後は、アフリカ連合ソマリア特使、オックスフォード大学講師を務めたほか、2019年7月にはトーマス・サンカラ記念委員会の委員長に就任している。
「ローリングス氏は神がガーナに遣わした賜物でした。心から彼の冥福を祈ります。」とかつての盟友コジョ・ボアキェ・ギャン少佐が語ったと報じられた。(原文へ)
INPS Japan
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