ニュース|トルコ|シリア国境の街でかつての記憶を想起するアフガン難民

|トルコ|シリア国境の街でかつての記憶を想起するアフガン難民

【ジェイランプナル(トルコ)IPS=カルロス・ズルトゥザ】

夕刻、(国境を挟んだシリア領内で)銃撃戦が激しさを増す中、村の人々が走って自宅に駆け込んでいる。シャー・メフメトさん(42歳)にとって、これは初めての経験ではない。メフメトさんが、故国アフガニスタンの村を離れて、シリア北東部ラス・アルアイン(Ras al-Ain)と国境をはさんで向かい合うトルコのジェイランプナル(Ceylanpinar)という小さな国境の街に移ってきたのは11歳の時だった。

「村の人たちは皆、恐れおののいています。なにせ既に(シリア側で放たれた)3発もの砲弾がこの近くに着弾しているのですから。」とメフメトさんは語った。アフガニスタン北部バグラン(カブールの北200キロ)生まれのメフメトさんは、1982年以来、トルコの首都アンカラから南東800キロに位置するこの国境地帯の街に住んでいる。

ここは、シリア内戦の影響を最も受けてきたトルコの街である。

「ジェイランプナル」とは、1921年のオスマントルコ帝国の分割に伴って南北に分断されたラス・アルアイン(=クルド語名称セレーカニィエー)の北側(トルコ領)に付けられたトルコ語の名称である。一方街の南側は当時フランス委任統治領シリアの一部となったことから現在はシリア領の一部となっている。冷戦下のベルリンを髣髴とさせる分断都市だが、ここでは、「壁」の代わりに街を東西に貫く「鉄道路線」(両サイドから有刺鉄線が張り巡らされている)が「国境」となっている。

この鉄道路線は第一次世界大戦の戦後処理で戦勝国がトルコとフランス委任統治領シリア間の国境線と定めたラインで、この町のクルド系とアラブ系住民はそれ以来、分断されたままとなっている。同大戦で敗れたドイツ帝国とオスマントルコが推し進めたバグダッド鉄道(3B政策)の付けをここの住民が払わされた歴史に翻弄された街である。

今日、ジェイランプナルの住民は、事実上通りの向こう側で起きている銃撃戦の流れ弾や標的を外れた爆弾による一方的な被害に苦しんでいる。

「私がジェイランプナルに移り住んできたのは3歳の頃なので、故郷アフガニスタンの記憶はほとんどありません。」と取材に応えてくれたのはアディガール・アルズピナールさんだ。一方彼は、今では約2000人に及ぶアフガン難民のコミュニティーがどうしてこの国境の町に生まれたかのいきさつは知っている。

「1982年に80年の軍事クーデターで政権を掌握したケナン・エヴレン大統領(当時)が、アフガニスタンを公式訪問しました。大統領は帰国後、この地にアフガニスタン難民のための300戸の住宅を建設することを決めたのです。」

しかしこの辺境の地では就労機会も乏しく、今では「数メートル先」の紛争の影響を受けていることから、近隣住民の中には、この地を離れてイスタンブールやアンカラの南西500キロに位置するトルコの主要観光リゾート地であるアンタルヤに移り住んでいったものもいる。

彼らが去った後には、32年前にアフガン難民の家族に支給された灰色の粗末な作りの住宅群が空き家となって、その間を真っ直ぐ通り抜ける、これもその当時のままの未舗装の通りとともに残された。

「神様、戦争を起こすものには天罰をお願いします。」と語ったのはカブールの北230キロにあるクンドゥズ出身のアフガニスタン難民のグルシャンさん(75歳)だ。「トルコ政府が、線路の向こう側で戦っているアルカイダを支援しているって本当ですか?」彼女は最近街で話題となっている噂について語った。

その真偽のほどば別として、多民族が平和裏に暮らしてきたジェイランプナルにおける生活が、線路の向こう側で起こっている戦争によって、目に見えて変化してきているのは明らかだ。

イスマイル・アルシャム市長(クルド人政党所属)は、街の現状を大変憂慮している、と語った。

「これまでに、4人の住民が殺されとほか、怪我を負った住民も40人を超えます。線路の向こう側(シリア側)で戦闘が始まったら、家の中にとどまるよう頻繁に注意してきましたが、このところ戦闘が激しさを増し、家の中で流れ弾に被弾して怪我をしたもののでてきています。」

アルシャム市長は、「トルコ政府は、実は(アサド政権と戦う)イスラム教徒の戦士を国境を越えて送り出しているのです、と指摘したうえで、「この国境地帯には、反シリア政府のイスラム聖戦を訴える戦士が数多く集結しています。トルコ政府は、シリア側に越境して戦うこうした戦士たちを兵站面で支援しており、負傷兵をトルコ側で収容して地元の病院で治療にあたらせる支援まで行っているのです。」

トルコ政府の狙いは、シリア北部に多数居住するクルド人が(トルコと国境を接する)北部の支配権を掌握しないよう、シリアのクルド勢力を牽制することなのです。

約300万人にのぼるシリアのクルド人は、シリア騒乱が2011年に始まった当初からアサド政権とも反政府勢力とも距離をおいて、中立の立場をとってきた。そして、かわりにクルド人口が多数を占める地域の支配権拡大に勢力を傾けてきた。

与党公正発展党のムサ・チェリ知事は、「シリアのクルド勢力がイラク北部に実現したような自治区をトルコ国境と接するシリア北部に設立する事態など決して望んでいません。」と語ったが、市長によるトルコ政府批判については「事実と異なる」として強く否定した。

「トルコ政府がそのようなことをする(=シリアの反政府勢力を支援する)など決してあり得ません。」とチェリ知事はIPSの取材に対して語った。

このようにトルコ政府のシリア内戦への関与の実態という政治的に微妙な問題については見解が分かれる知事と市長だが、ことアフガン難民のコミュニティーに対する認識については、「平和的でよく働く人々で、地元住民から何ら不満の声を聞いたことがない」という点で一致している。

アフガン難民の中には地元住民と結婚したものも少なくない。「私の母はアフガニスタン人で母はクルド人です、でも家での共通語はウズベク語です。」と、20代前半のエミルハン・セリカレさんは語った。

ジェイランプナルに定住したアフガニスタン難民は皆、ウズベク族出身者である。トルコ族もウズベク族も元は中央アジアにルーツを持つため、両者の言語には共通点が多く、ここのアフガニスタン難民が地元社会への統合を果たすうえで、言葉の共通点が大いに助けとなった。

ここに定住した今は年老いた元アフガニスタン難民全員が、必ずしも故郷への帰還を切望しているわけではない。長く白い髭を誇らしげに蓄えたアブドゥッラー・オンダ―さんは、新婚間もない27歳の時にジェイランプナルに到着した。

「私たち夫婦は元はタジキスタン国境近くの小川の畔にある美しい石造りの家に住んでいました。」と、自身が営む小さな八百屋で取材に応じてくれたオンダーさんは、アフガニスタンからトルコに移ってきた経緯を語ってくれた。「私たちは故郷の村を離れて、まずはカブールから南西731キロに位置するヘルマンドを目指しました。そしてそこからイランに越境し、そこで1年以上暮らしたのち、最終的にこの町にたどり着きました。」

オンダーさんはアフガニスタンに戻りたいとは思っていないという。「私はこの街で人生を終えるつもりです。その後アフガニスタンの状況が良くなったかどうかご存知ですか?」と、オンダーさんは夕刻の礼拝のために店のブラインドを下ろしながら尋ねた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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