【東京IDN=浅霧勝浩】
国連の潘基文事務総長は8月6日、広島への原爆投下70年を記念する平和記念式典に寄せたメッセージで、「核兵器を廃絶するための緊急の行動」を呼び掛け、核攻撃を生き延びた人々の悲願に賛同の意を表明した。
潘事務総長はまた、原爆使用への国際社会の懸念を反映した国連総会の初決議を引用しつつ「核兵器なき世界というビジョン」を実現することによって、広島・長崎の被爆者に敬意を払うよう、国際社会に強く要請した。
潘事務総長は、第二次世界大戦末期の1945年8月6日と9日に、米国が広島と長崎に原爆を投下したことを想起した。2つの都市は破壊され、20万を超える人々が核爆発に伴う放射線や爆風、熱線の影響で亡くなった。また戦争終結以来、40万を超える人々が原爆の後遺症によって命を失っている。
広島の松井一實市長と長崎の田上富久市長も、潘事務総長と見解を同じくしている。両市長は、70年前に起こった出来事の記憶を若い世代が継承していってくれることを切望している。
また、核保有国が全ての核兵器を放棄し、原爆による大惨事を経験した唯一の国である日本が、核保有国と非核保有国の間の橋渡し役として行動していくことを期待している。
田上市長は、8月9日に発表した平和宣言の中で、「戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。」と指摘したうえで、「長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。」と述べた。
そして、原爆や戦争を体験した日本や世界の人々に対して、記憶を風化させないためにも、その経験を語っていくよう呼びかけた。
そして若い世代に対しては、「若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。」と呼びかけた。
また、「戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。」と述べた。
8月9日の長崎平和宣言は、若者が果たす重要な役割にも焦点を当てた。「長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。/私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。」
「ヒバクシャ」というのは「核爆発によって影響を受けた人々」、原爆を生き延びた人々を示す日本語である。
3月の時点で、日本政府は18万3519人を被爆者として認定している。大部分が日本居住者だ。日本の被爆者援護法は、被爆者を、「(原爆投下時に)爆心地から数キロ以内にいた人びと、原爆投下から2週間以内に2キロ以内に入った人びと、降下した放射性物質にさらされた人びと、これらいずれかのカテゴリーに入る妊婦の子として産まれた人びと」と定義している。
松井市長は被爆者の置かれた状況を表現して「辛うじて生き延びた人々も人生を大きく歪められ、深刻な心身の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきました。生きるために盗みと喧嘩を繰り返した子どもたち、幼くして原爆孤児となり今も一人で暮らす男性、被爆が分かり離婚させられた女性など―苦しみは続いたのです。」と述べた。
自国中心の思考に囚われる
こうしたことを背景に、広島・長崎の両市長は、大量破壊の道具である全ての核兵器を廃絶するよう訴えた。
松井市長は、世界にいまだに1万5000発を超える核兵器が存在する中、核保有国等の為政者は、「自国中心的な考えに陥ったまま、核による威嚇にこだわる言動を繰り返しています。」と指摘した。
こうした態度は、国際社会が「核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故がこれまでにあった」ことを認識しているにも関わらず、依然として続いている。また、テロリストによる使用も懸念されている。
「核兵器が存在する限り、いつ誰が被爆者になるか分かりません。」と松井市長は警告する。ひとたび発生した被害は国境を越え無差別に広がる。松井市長は、「世界中の皆さん、被爆者の言葉とヒロシマの心をしっかり受け止め、自らの問題として真剣に考えてください。」と訴えた。
加盟都市が6700を超えた平和首長会議の会長でもある松井市長は「2020年までの核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、強い決意を持って全力で取り組みます。」と宣言した。
これは、核兵器廃絶に向けた最初のステップである。次のステップは、軍事力に依存するのではなく、相互理解に基づいた幅広い安全保障の仕組みを創ることだ。
「その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。」と松井市長は述べた。
松井市長は日本政府に対して、「核保有国と非核保有国の橋渡し役として、議論の開始を主導するよう」求めるとともに、広島をそうした議論と発信の場とすることを提案している。
未来を見据えて
田上市長は、日本政府・国会に対して、未来を見据えて、「核の傘」から「非核の傘」へと転換を検討するよう求めた。
韓国やドイツ、ほとんどのNATO加盟国と同じく、日本は、核兵器は保有していないが、米国の核の傘によって守られている。
田上市長は日本政府に対して、核兵器に依存しない安全保障政策を追求するよう訴えた。「米国、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。」
田上市長はまた、国会が「国の安全保障のあり方を決める法案の審議」を行っていることに言及し、「70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。」と述べた。
長崎平和宣言は、日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省の中から生まれた、としている。「戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。」
田上市長は、2015年核不拡散条約(NPT)運用検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました」と遺憾の意を示す一方、「最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。」と述べた。
田上市長はまた、今回の運用検討会議を「決して無駄にしないでください」とNPT加盟国に訴え、「国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください」と述べた。
2015年NPT運用検討会議では、被爆地である長崎・広島訪問の重要性が、多くの国々に共有されていた。こうしたことを背景に、田上市長は、「バラク・オバマ大統領、そして核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください」と訴えた。
1945年以来、広島原爆を記念するいかなる集まりにも米国大統領が参加したことはない。ローズ・ゴットモーラー米国務次官(軍備管理・国際安全保障)が、米国の高官として8月6日の広島の式典に参列した。彼女は、核兵器は二度と使われてはならないと発言したと伝えられる。
米国での一般的な見方は、日本を屈服させ第二次世界大戦を終わらせるためには、原爆投下は必要だったというものだ。しかし、この見解には疑問が付され、批判にさらされるようになってきている。例えば、1953年から61年まで米国大統領職にあり、第二次大戦中は五つ星の将軍で欧州連合国軍司令官であったドワイト・アイゼンハワー氏からの批判がある。
アイゼンハワー氏は、ヘンリー・スティムソン陸軍長官から原爆投下の決断について聞かされた時、「日本はすでに戦争に負けており、原爆を落とすことは全く不必要だという信念を基礎にして、私自身の不安を伝えた」と回顧録に書いている。(原文へ)
※浅霧勝浩は、「IDNインデプスニューズ」東京特派員で、アジア太平洋局長。
翻訳=IPS Japan
関連記事: