【ベイルートIPS=モナ・アラミ】
2000年のイスラエル軍のレバノン南部からの撤退以降、ヒズボラは軍事勢力としてだけでなく、政治勢力としても力を拡大した。しかし、その結果(2005年の)ハリリ元首相暗殺などイスラエル・レバノン国境での緊張を一層高めることにもなった。
ヒズボラは政府内での勢力を維持するため、レバノン議会で(拒否権を保障する)3分の1『プラス1閣僚』の議席を強く求めている。
そして、この実現に向け(ナビハ・ベリ党首率いる)シーア派民兵組織『アマル』および(ミシェル・アウン将軍率いる政治会派)『キリスト教自由愛国運動(Christian Free Patriotic Movement: FPM)』との協力関係を結んだ。
ここ数年、これら反政府勢力によるシニオラ政権打倒を訴える大規模な抗議デモは増加の一途をたどっている。2006年12月首都ベイルートで勃発し(現在も続いている)政府庁舎前での大規模な抗議活動は、シオニラ内閣退陣とヒズボラ主導の反米政権樹立を迫ったものだ。
ヒズボラ系の雑誌『al-Intiqad』のイブラヒム・ムサウィ編集長によると、ヒズボラはイスラエルや西側諸国に対する『抵抗運動』をあきらめた訳ではないという。ムサウィ氏は「ヒズボラは今後もレバノンの連立政権の一翼としてその存在感を強めていくはずだ」と述べた。
非政府系シンクタンク『国際危機グループ(International Crisis Group)』のPatrick Haeni氏は「ヒズボラとFPMとの協調関係は政府内でも緊密に維持されるだろう」と語った。
しかし一方で、ヒズボラは重要な政治課題である『シーア派とスンニ派間の宗派対立』の問題にも今後取り組まなければならない。2007年1月レバノンの首都ベイルートで慢性的な電力不足に抗議する反政府デモ隊が軍と衝突。シーア派野党のヒズボラとアマルの支持者ら8名が死亡した。
Haeni氏は「(2006年1月に起きた暴動とは異なり)今回は政治指導者らの間に暴動直後から強い非難の声が上がっている。政治家らの対応が政情不安をさらに助長するのではないか心配だ」と述べた。レバノンにおけるヒズボラの役割について報告する。(原文へ)
翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩
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