【キガリIPS=エドウィン・ムソニ】
ルワンダ西部州カロンギ区のバーナード・カユンバ区長は、19年前にたった100日間で約100万人もの命を奪った虐殺のことを忘れることができない。
犠牲者の規模については確定的な数字は明らかとなっていないが、1994年4月6日に発生したルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺(首都キガリ上空で両者が搭乗した航空機が撃墜された)からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧する7月までの約100日間に、少数派のツチ族80万人と、穏健派のフツ族が虐殺されたと見られている。
虐殺の犠牲者の大半はツチ族で、殺害に加担した人々の大半がルワンダで多数を占めるフツ族(フツ系の政府とそれに同調する過激派、一般住民)だった。しかしヒューマン・ライツ・ウォッチが1999年に発表した報告書『誰ひとり生かすな:ルワンダ大虐殺』には、「多くのツチ族が、虐殺を生き延びたが、それは見知らぬフツ族住民による勇気ある行動や、隠れ家や食糧を何週間にも亘って提供してくれたフツ族の親族、友人による支援による賜物だった。」と記されている。2005年までキブエ県として知られていた西部州カロンギ区は、1994年当時わずか数日の間に多数の命を奪った虐殺2件の舞台となった地である。
多くの人々がキブエ市街地の教会や学校に逃げ込んだ一方で、約30,000もの人々が、街から40キロほど離れたビセセロ丘陵地帯に逃げ場を求めた。カユンバ氏もその一人だった。犠牲者数に関する公式統計はないが、この丘陵地帯で数万人が虐殺されたと考えられている。当時19才だったカユンバ氏はこの虐殺を生き延びたが、当時のことを片時も忘れたことがない。
「私は、学校にいけないことや空腹であるということがどういうことか、当時の経験から良くわかります。だからこそ、区長として地区で困っている人々に支援の手を差し伸べるとき、私は誰よりも公平でいられるのです。」と、カユンバ区長はIPSの取材に対して語った。ルワンダでは、今年も4月7日から13日を「虐殺記念週間」とし、様々な追悼行事が行われた。
カユンバ氏は、「私が今日こうして区長でいられるのは、ルワンダ政府が行っている『ジェノサイド生存者支援援助基金』(FARG)によって、大学授業料の補助を受けることができたからです。もしそれがなければ、私はどうなっていたか、想像できません。」と語った。
FARGは1998年に設立され、およそ30万人の虐殺生存者への支援を行ってきた。これまでに1億2700万ドルが投じられ、年間予算のおよそ6%を使っている。中等教育の6万8367人、高等教育の1万3000人以上が教育費の支援を受けた。国民の約60%が一日当たり1.25ドルの貧困ライン以下の生活を送るルワンダで、初等・中等教育が無償化されたのがようやく2010年に入ってからであり、FARGの支援は大いに役にたった。また、FARGは、医療、住居、社会扶助などの支援も行っている。
もっとも、FARGの運営に問題がないわけではない。2011年に地元紙『ニュー・タイムズ』が報じたところでは、FARGは、本来なら受益者であるべきでない1万9000人への支援を打ち切ったという。これは、当時の支援対象者の実に3割にも及んでいた。
また住宅供給プロジェクトの質についても、FARGは現在厳しい視線に晒されている。
2011年、ルワンダの会計監査院長官は、FARGが供給した住宅は、実際に執行した予算に見合う品質ではない、と語った。また、2006年から2007年にかけて実施された監査報告書には、「本来住宅供給を受けるべき虐殺の生存者や貧困層の多くが実際には支援を受けられておらず、依然として多くが住宅支援を必要としている状況にある。」と記されている。
それに対してFARG関係者は、これまでに500家族を除いて300,000人の虐殺経験者に対する住宅供給は完了しており、残りも今年12月までに完成予定であること、また、こうして建設された住宅40,000戸のうち、15,000戸がFARG資金によるもので、残りがNGO、各国大使館、教会を含む政府支援プログラムを通じて建設されたことを明らかにした。
またFARGのテオフィル・ルベランゲヨ事務局長は、「住宅品質に問題アリ」とした会計検査院長官の指摘について、「(虐殺事件から間もない)1995年当時、雨露を凌げるシエルターを供給することが最大の課題であり、住宅建築を請け負う業者の質について十分な注意が及ばなかった側面があります。」と説明した。また、「2003年当時、FARG資金の建設物件について、請負業者が適切なサービスを提供できなくなり、結果的にFARGが騙された形になった事例があったことは認めます。」と弁明した。
ジェノサイド生存者団体「イブカ」(「記憶」を意味する)のジャン・ピエール・ドゥジンギゼムング代表は、「多くの生存者は勇気と決意を持って虐殺の経験から立ち直ろうとしている」と指摘したうえで、「生存者たちは憎しみと差別が死をもたらすことを学びました。ですから人々は、この国の未来のためにもそうした分断を乗り越えたコミュニティーの調和を築き上げていく選択をしたのです。」と語った。
しかし虐殺の体験がトラウマとなり未だに怒りと恐怖に苛まれながら暮らしている人々も少なくないのが現状である。ルワンダ西部ムランビに住むジョセー・ムニャギシャリさん(51)もそうした一人だ。彼女は、1994年のジェノサイドの時に首に槍が刺さって体が麻痺し、さらにマチェーテ(山刀)で襲われた右足の傷が感染症を引き起こし切断せざるを得なかった。
「事件後、私は治療を受け、住宅も手に入れ、息子は無料で教育を受けられるようになりました。しかし私の足が返ってくるわけではありませんし、自分の足で再び立てないという現実は何も変わらないのです。」とムニャギシャリさんはIPSの取材に対して語った。彼女はFARGが提供する住宅と学資支援を受けているが、こうした支援を得ても、彼女の過去の傷を癒せていないのは明らかである。
しかもムニャギシャリさんは、現在恐怖の中に暮らしている。というのも、彼女に傷を負わせた人々が刑務所から出所し、自宅からわずか100メートルのところに住み始めたのだ。「私はそれ以来、彼らが再び私を殺しにやってくる悪夢に苦しめられています。」と、彼女は元加害者宅を指さしながら語った。(原文へ)
翻訳=IPS Japan