【エルサレムIPS=ピエール・クロシェンドラー】
「共に団結しよう。私たちはイスラエルを愛し軍を信じる」一時休戦が定着するなか、国旗の色で飾られた横断幕(上の写真)が、依然として国中の街頭や道路を埋め尽くしている。
国民に無条件の愛国主義と連帯を求めるこうしたイスラエル当局の「囲い込み」戦略は、7月8日に始まった国防軍によるガザ地区に対する侵攻作戦のメリットと道徳性に疑問を抱く一部の市民の心理をしっかりと抑え込んでいるようだ。
(ガザ地区から撃ち込まれてくる)ロケット弾を警告するもの悲しげなサイレンの音と、それを迎撃するミサイル防衛システム「アイアン・ドーム」の耳をつんざくような音に晒されるなかで、イスラエル国民のパレスチナ人に対する民族主義的な反感は悪化の一途をたどっている。さらに、理性的な判断が戦争遂行のために動員され、戦争の効果に関する合理的な評価は顧みられない状況に陥っている。こうした状況下で、一般市民が平和の信条に殉じるのは難しい。
言葉で戦争が平和の反対というのは、単なる同語反復に過ぎない。現実の戦争という難問に直面したイスラエルの平和活動家らは、ジレンマと闘っている。
いったん始められた戦争は、勝利しなくてはならない。しかしこの戦争は、勝利にも敗北にも終わるものではなく、全ての戦争を終わらせるものでもない。イスラエル当局は抑止という手段によって次の戦争を避けるための戦争としているが、実際そのような効果があるかは不明である。つまり「戦争には、損失と敗者のみがあるのだ。」と平和活動家らは考えている。
もし戦争が紛争を解決するものではないとしたら、すなわち、戦争には次の暴力への種が埋め込まれているのだとしたら、平和こそが紛争を解決するものだ、と活動家らは主張する。
しかし、大砲が唸りをあげるとき、平和は沈黙させられてしまう。
「平和NGOフォーラム」は、軍事作戦開始22日目にあたって、イスラエル・パレスチナ紛争に軍事的解決はないと強調し、停戦と(パレスチナが独立してイスラエルとパレスチナが2つの国として共存する)二国家解決案に向けた交渉の再開を訴えた。
「平和NGOフォーラム」は、ユダヤ系及びパレスチナ系の市民団体からなるアンブレラ組織で、パレスチナ問題に対する二国家解決案の枠組みに沿った平和の実現を目指している。女性の平和連合「バット・シャロム」や「平和のための戦闘員」などのパートナー団体は、ネットワーキングや能力開発、共同のデモ(映像)などを行っている。
同フォーラムのユダヤ人側の諸団体が遅ればせながら発表した関連声明には、彼らが直面しているジレンマが滲み出ている。「イスラエル国民には、自衛の権利を保持し、彼らに対して発射されるロケットの脅威や、彼らの生活空間の只中に掘られた敵のトンネルの脅威に晒されることなく、安全と平和のうちに生きる権利がある…。」
イスラエル国内では戦闘が激化するなか、戦争が正当化され、ユダヤ系イスラエル国民の間でのガザ侵攻作戦に対する支持率は、表面的にはほぼ完全に近いものとなった。そしてソーシャル・メディアには、「アラブ人を殺せ」「左翼を殺せ」といった人種差別主義的で威圧するような言辞であふれた。
一方、戦闘開始から19日目、「人が死ぬのはもうたくさんだ!」と叫ぶ5000人のイスラエル国民が、平和を訴える市民団体が主催したデモに集まった。(上の写真/映像)しかしそこには、従来からイスラエルとパレスチナの共存を訴えてきた象徴的な「ピース・ナウ(今こそ平和を)」運動や、野党左派のメレツ党の姿はなかった。さらに、テルアビブの市街にロケット弾が撃ち込まれると、デモ参加者は散り散りになった。
一般のイスラエル国民は、テレビで一日中放映されているニュース番組の内容をあえて受入れ、当局が喧伝する国家的な不安に心理的に足並みを揃えることで「感情のセーフティーネット」に身を委ねている。そのような彼らにとって、「イスラエル国防軍は世界で最も道義的な軍である」という格言的な主張に異議を唱える国内の同胞は、「聖人ぶった偽善者」と映り、道徳的な判断を下す対象となっている。
イスラエルの左派は、「(国防軍に関する)そうした宣言には独善的なものが本性的につきまとっている。」と反論している。
これに対して、「同胞が脅威に晒されているとき、国の痛みを分かち合わないとはどういう了見なのか。」というのが、平和活動家らに右翼がしばしば投げかける非難である。
政治的思考でいえば圧倒的多数が中道か右派に分類されるイスラエルの世論は、彼らの祖国は、(パレスチナ人の)犠牲者に焦点を当てた紛争の描き方、すなわち「被害者学」の犠牲になっていると非難している。
平和運動の支持者らは、アムネスティ・インターナショナルイスラエル支部のヨナタン・ガル代表が6日付のリベラル系『ハアレツ』紙に語っているように、「人権の尊重が最後の防衛線」だとみなしている。彼らは、イスラエル国防軍の過剰反応に反対しており、「イスラエルは自らの軍事力に本来的に潜む弱さを理解しなくてはならない。」と考えている。
イスラエル世論の主流は、平和活動家らはあまりにも頻繁に「『戦争は地獄』であり『悪』であり、『本質的に戦争犯罪』である」という「究極の同語反復」に頼りすぎる傾向にあると見ている。現在のイスラエルでは、この戦争が正義の戦いではないと自己反省するような兆候が(平和運動家の行動から)少しでも察知されれば、(敵に利する)イスラエル側の動揺や無用の自責につながりかねないとして、世論の憤慨の対象となっている。
一方平和活動家らは、パレスチナ占領地域におけるイスラエルの政策こそが、諸悪の根源であると見なしている。
ところがほとんどのイスラエル国民は、(平和活動家らが主張する)「47年に亘る占領」という非難に対して、「(パレスチナ人の)窮状をあまりにも単純なイメージに還元したものであり、占領という事実によって、パレスチナのイスラム原理主義組織『ハマス』が唱えるイスラエルに対する憎悪や、繰り返される暴力のサイクルを正当化することはできない。むしろ占領は、(イスラエルに危害を加えようとする)パレスチナ側との平和が達成できないから継続しているのだ。」と主張している。
これに対して平和活動家らは、「イスラエルは平和のためにリスクをとれるだけの強さを備えていることを十分に証明してきた。従って、私たちはそれを実行に移すべきだ。」と反論している。
イスラエル国民は、この14年間に亘って幾度となくこの議論を繰り返してきた。
この間、イスラエル国民は、終わりの見えないあまりに多くの紛争を経験している。つまり、2000年から05年のパレスチナ蜂起「インティファーダ」、2006年の対ヒズボラ戦争、ガザ地区のハマスに対する侵攻作戦(2006年の作戦「夏の雨」、2008年~09年の作戦「鋳造された鉛」、2012年の作戦「防衛の柱」)、そして現在の軍事侵攻作戦である。
オスロ合意の時期に、相互和解のプロセスをとおしてイスラエルとパレスチナの双方をして、他方の痛みをためらいながらも理解する方向に持っていっただけに、かえって以前にもまして和解に対する幻滅と絶望感が、両者の心理を支配している。
イスラエルとパレスチナの双方は、その後の対立の中で、自身の生存を賭けた、本質的な紛争の次元へと、急速に後退していった。
その結果、イスラエル国民とパレスチナ人の双方が、逆境に際して他者の痛みを理解しようとしなくなっただけではなく、自らの痛みを和らげ、他者から痛みを与えられることを抑止する唯一の方法として他者に痛みを与えることが必要だと感じるようになってしまった。
しかし、戦争を支持する圧倒的多数の人々と、平和を支持する献身的な人々の双方を結び合わせるものは、「現実は複雑である」ことへの理解であろう。
イスラエル国民の主流は、現状を評価するには、単にガザ地区における死者数を数えるだけでは十分でないという議論の有効性が既に失われたことを認識している。
平和活動家らは、イスラエルの軍事作戦を引き起こした脅威は実在することを理解している。それと同時に彼らは、イスラエルの軍事作戦の結果が導く方向や帰結、それがイスラエルとパレスチナ、さらには両者間の和平に及ぼす影響についても理解しているのである。
共存という彼らの理想は、長年に亘る戦争によって揺らいでいる。平和活動家らは、もし被害にばかり注目することで、一方で、戦争においては目的が(ほぼ)すべての手段を正当化するとか、他方で、戦争は正当化できないといった、使い古された教訓しか導けないとすれば、そんなものは拒否するであろう。
彼らは、不当な侵略行為に対する正当な自衛権の行使と、より大規模な武力行使との間、さらに、戦争の道徳性や権利、法律と、占領の過ちとの間に、明確な線を引いている。
そして、戦争が収束するかに見える今、平和活動家らは、国家の指導者らが、パレスチナ側との和平に向けた大胆な外交を緊急に開始し、膨大な時間を無駄にした前回の失敗を繰り返さないとの認識を持つことに、希望をつないでいる。(原文へ)
翻訳=IPS Japan
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