【スバ(フィジー)IPS=シャイレンドラ・シン】
「世界市民」概念に関する討論が様々な国際的な場で勢いを増しているが、従来太平洋島嶼国ではあまり検討の対象になってこなかった。
「世界市民イニシアチブ」(TGCI)の共同創設者ロン・イスラエル氏によると、世界市民は、共通のグループアイデンティティを基盤にしながらも地域社会の枠を超えた発想をし、より広範で、生まれつつある世界コミュニティーの一員であることを自覚している、という。
太平洋地域では、トンガ王国の学者・哲学者の故エペリ・ハウオファ教授が「新しいオセアニア人」と呼ぶ共通の地域的なアイデンティティを提案するまでに至っている。これは、多様な国々や人種の一員としてではなく、太平洋地域共通の伝統と帰属意識を持った人々から成り立っている。
ハウオファ教授の考え方によれば、オセアニア人とは太平洋に住んでいるあらゆる人々を指し、民族や宗教に関わりなく、太平洋地域に帰属意識を持っている人々を指す。またこの枠組みによって、この半世紀以上にわたる太平洋島嶼民の「驚くべき移動性」を説明することもできる。この拡大バージョンのオセアニアは、「太平洋島嶼地域という用語で表される最大地域」よりもより広い範囲をカバーし、「南西はオーストラリアやニュージーランド、北東は米国やカナダまでを含む、海洋を超えた社会的ネットワークの世界」を形成する。ハウオファ教授は、住民にとって死活問題である太平洋の保護を含め、地域共同の利益を増進していくためには、共通で拡大された太平洋アイデンティティが必要不可欠だと考えていた。
共通の利益を求めて闘うために人々をつなぎ動員して力を得るという点は、「オセアニア市民」と「世界市民」の概念に共通する点である。ただし、世界市民はより拡大的なものだ。この考え方を主唱する人々は、平和で、寛容で、包摂的で、持続可能な社会に向けた構成要素として、正義や民主的参加、多様性、グローバルな連帯という普遍的価値に世界市民概念を結び付けている。
太平洋島嶼地域の識者らはこの概念に賛同してはいるが、それを実行するには特定の文化的、経済的、地理的、歴史的障害が立ちはだかる可能性があると考えている。南太平洋大学の元研究者(文学研究)のソム・プラカーシュ博士は、ある種の世界市民の価値のなかには、太平洋島嶼社会の文化的信念や哲学、ライフスタイルとは折り合わないものがあるとみている。例えば、平等主義は、フィジーの首長権力、トンガ王国の貴族制、西サモアのマタイ(首長)制など一部の太平洋島嶼社会の階層的な秩序にとって有害だと見られている。
プラカーシュ博士はまた、「例えば、民主主義は、一般の民衆よりも権力と権威を与えられている伝統的な長からは必ずしも歓迎されるわけではありません。通常の太平洋島嶼国の文化が年長者や長に対して疑問を呈することに慣れるには、時間がかかるでしょう。この地域では、平和(世界市民概念の柱の一つ)は、しばしば、慈悲深い独裁者の下でより良く達成しうると論じられているのです。」と語った。
「その他にもいくつか明白な矛盾があります。フィジーのラトゥ・ジョーン・マドリウィウィ副大統領も指摘しているように、フィジーのような集団主義的な太平洋地域の社会では、集団の利益が個人の利益に優先されます。他方で、世界市民は、市民に対して『相互に関連しあう世界の本質に目を向け、世界的視野から開発の必要性を考えるよう吹き込む』ことで、彼らを変化の主体たらしめようとするものです。」
しかし、フィジーで学ぶ大学生ダイアン・マー氏のような人は、そうしたパラドックスを障害だとは見ていない。マー氏は、「太平洋地域も、地理的、文化的、哲学的差異を超えた共通のグローバルな諸問題によって他の地域と同様に影響を受けています。」と指摘したうえで、「世界市民とは、その理想や思考のプロセスが、貧困や気候変動、人権といった全般的にグローバルな諸問題を基礎としている人のことをいいます。多くの太平洋島嶼国の農村社会では、人々は気候変動のような問題や、貧困対策の必要性について高い意識を持っています。こうした問題は地元のレベルでは討議されており、そこから、村々がしばしばNGOと協力してそうした問題に対処しています。」と語った。
さらに、集団の連帯を基盤とした集団主義には、世界市民の「相互依存性」という概念(もっとも、世界市民モデルの場合は、単に「村」とか「氏族」のレベルではなく、「相互依存的な世界」を含みこんだものではあるが)と明確に並びあうものがある。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)などの機関が支持している世界市民概念は、民衆の「個人および集合的な行動にはグローバルな影響力があり、自らの社会と地球のために積極的な行動に関与する責任がある」という考え方を推進している。
また、グローバルな問題に対処する集合的な責任という考え方は、太平洋島嶼地域の人々の間で共感を呼ぶ可能性がある。とりわけ、この地域で深刻な脅威と見られている地球温暖化と海面上昇の問題に関しては可能性が高い。すでに10年以上にわたって、太平洋島嶼地域の歴代指導者が、様々な国際会議の機会をとらえて、先進工業国に対して、地球温暖化への責任を取り、二酸化炭素排出を削減する意味のある政策を採るよう強く求めている。
キリバスのアノテ・トン大統領がしばしば指摘するように、太平洋島嶼地域は地球温暖化に対してわずか3%の責任しか負っていない。しかし、多くの島々が海面上昇の「最前線」に立たされている。太平洋島嶼国の指導者らによる最近の会合で発言したフィジーのフランク・バイニマラマ首相は、「私たちを大災難に陥らせた」として先進工業国を非難した。また、「先進工業諸国は、地球の温暖化を引き起こしている過度の二酸化炭素排出をやめるよう、その経済と優先順位を再構成する必要があります。私たちを波間に沈ませてしまうのは、まったくもって非道徳的な行いです。国際社会は私たちを裏切らないでほしい。」と語った。
また、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーで開催された太平洋地域の指導者による最近の会議は、より厳格な世界的目標を求める海抜の低い島嶼国の要求をオーストラリアやニュージーランドが阻止したことから、決裂に終わった。こうした立場の違いはますます深刻化しており、ある識者はこうした現状について「太平洋島嶼国の窮状に対してオーストラリアやニュージーランドが鈍い反応しか示さず、とうとう(太平洋島嶼国は)我慢の限界に達した」と説明している。
マー氏は、太平洋島嶼国が地球温暖化によって直面している窮状を「コモンズの悲劇」と呼んでいる。これは、一部の国の行動が他国(この状況を生み出した責任がない国も含め)にマイナスの影響を及ぼす状況を指し示している。
南太平洋大学の学者プラカーシュ氏は、オーストラリアとニュージーランドの地球温暖化問題に対する頑なな態度は、「おそらく、強国が太平洋島嶼国を『侮蔑』とまでは言えないとしても、これまで『無遠慮』に扱ってきた多くのやり方の最近の事例として考えることができます。」と語った。プラカーシュ氏はまた、「こうした扱いによって、太平洋島嶼国は『しばしば裕福国から発せられる、グローバル化というバラ色の発想』としてみなされるようになったものに対して、疑念を抱くようになっています。グローバル化の最も目につきやすくわかりやすい影響の例としては、太平洋島嶼国の社会をのみ込んでいる低俗なテレビ番組や携帯電話、ソーシャルメディアを挙げることができます。」と語った。
しかし、マー氏が指摘するように、太平洋島嶼国はある意味ではグローバル化から恩恵を受けてきた側面もある。さらに、グローバル化と世界市民は別の異なる考え方である。たしかに2つの概念は混同されやすいかもしれないが、実際、世界市民原則は、グローバル化の副産物である「コモンズの悲劇」のような状況に対処することを目的としたものだ。
現実には、太平洋島嶼地域がいかに小さく孤立していようとも、その運命はその他の世界の運命と結びあわされている。ハウオファ教授もそのことを明確に意識していた。ハウオファ教授は、「植民地宗主国によって作られた私たちのような小さな国々が、『太平洋の世紀』という大きな問題に、個々に向き合い取り組んでいくことなどできません。私たちは、『地図から消え去る』か、巨大な汎太平洋ドーナツのブラックホールの中に消えてしまいかねないのです。」と記しているが、その際彼が「世界市民」概念に沿って思考していたのは確かである。(原文へ)
※シャレインドラ・シンは、フィジーの首都スバにある南太平洋大学芸術・法律・教育学部言語・芸術・メディア校のコーディネーター、上席講師(ジャーナリズム専攻)。この文章の見解は、同氏の雇用主である南太平洋大学の見解とは必ずしも一致しない。
翻訳=IPS Japan
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