【ボゴタIDN=ルツ・マリナ・ベルナル】
私はマリナ・ベルナルと申します。コロンビア各地の避難民の多くが流れてくる首都ボゴタに近いソアチャ市に一人で住んでいます。
私の活動は様々なコミュニティーを廻って人々と対話する必要があるので、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の拡大とそれに伴うロックダウン(都市封鎖)は大きな足かせになっています。
私が人権活動家になったのは息子のファイル・レオナルド・ポラス・ベルナルが2008年に強制失踪したのがきっかけです。当時私は夫と4人の子供たちと幸せに暮らしていました。しかしレオナルドの死後、事件の真相に関する政府当局の見解に疑問を抱くようになり、まもなくして殺害の脅迫を受けるようになりました。残った子供たちを守るため、説得して安全な場所に移らせました。夫はこの状況に耐えられず、離婚して私が家を出ざるを得ませんでした。
息子は2008年1月8日に誘拐されました。私は8カ月にわたって病院やホームレス施設などを探して回りました。息子は失踪当時26歳でしたが、私が妊娠時に遭遇した交通事故が原因で、生まれながらにして右手足が不自由なうえ認知障害があり、知能は8歳程度でした。帰り道が分からなくなったのではと、心配でたまりませんでした。
9月16日、警察から息子と思われる遺体の写真を確認するよう要請する連絡がありました。ソアチャから600キロも離れたオカーニャで、大量死体の中に発見されたとのことでした。
認知障害がある息子が自らそんなに遠くまで旅をしたとは俄かに信じられませんでした。それでも、息子の遺体を引き取りに夫と長男とともにオカーニャに向かいました。そこで、同じくソアチャから失踪した息子の遺体を引き取りにきた3家族と出会ったのです。
私たちの疑問は、なぜソアチャにいた息子たちがはるばるオカーニャに来ることになったのかという点でした。検察官は薄ら笑いを浮かべながら「あなたが麻薬テロリストグループの指導者の母親か。」と尋問してきました。私はこの検察官に、「右手足に障害を抱えて読み書きすらできない人物が、そのようなグループを率いることができるものでしょうか。」と問いただしました。すると検察官の顔から笑いが消え、「彼は国軍との戦闘で死んだ。」と告げたのです。
それを聞いて、国軍に2年間在籍していた長男は泣き崩れました。それまで私も長男が国軍で国のために尽くしていることを誇りに思っていました。だからこそ、国軍がもう一人の無防備な息子を殺害するなど想像すらできなかったのです。
私は直ちに行動を起こすことにしました。それは当時のアルバロ・ウリベ大統領が、私の息子とその他8人のソアチャ出身の青年たちが犯罪者であると仄めかしたからです。
私は息子の写真に彼の名誉を挽回するために闘うと誓いました。まもなくソアチャで私と同じ境遇の母親達と出会い、「ソアチャの母たち」を結成しました。仲間は当初の8人から19人へと増えていきました。
真相は、国軍の兵士が私の息子を誘拐して、戦闘中に撃たれて死亡したゲリラ戦闘員だと発表していたのです。国軍はこうして数千人に及ぶ無防備な一般市民を犯罪者に仕立て上げて超法規的に殺害することで、ゲリラ掃討作戦における成果(敵戦闘員の死傷者)をかさ増しして報奨金や昇進を得ていたのです。
私はコロンビアの紛争を理解するために何年にも亘って人権問題を改めて学ぶ必要がありました。その結果、私の祖国では、強制失踪、拷問、性暴力、子ども兵士の徴用等で800万人以上が人道に対する犯罪の犠牲者になっているおぞましい実態を知りました。
全く未知の世界に足を踏み入れた感覚でした。それまでの私は、愛する家族に囲まれて、現実の世界に目を向けず狭い世界の中で生きていたのです。コロンビアがどのような国であるのかを全く理解していませんでした。しかし現実を知るにつけ、幻想は瞬く間に崩壊し、それまでの生活が一変することになりました。2008年以来、私は大統領か検事総長との面会を繰り返し要請しましたが、拒否されていました。しかし2010年の大統領選挙に向けたキャンペーン期間中、ウリベ大統領が「ソアチャの母たち」を思い出し、ついに私たちを大統領官邸に招いたのです。
他のメンバーは大統領の招きを受入れましたが、私は拒否しました。2週間後、ウリベ大統領はメンバー1人当たり7800ドルを拠出しました。しかし私は殺された息子との思い出や尊厳を売り渡すことはできないと思い、拠出金の受け取りを拒否しました。他のメンバーは私の反応に憤慨し、その時はグループから離れざるを得ませんでした。
まもなくして私の家族全員宛てに殺人予告が届くようになりました。玄関のドアの下に脅迫状を差し込んでいくのです。長男はこの状況を2年以上耐え抜きました。ある日の脅迫状には、「おまえが無駄死にするのは残念だな。しかしそれがお前の母親を黙らせる唯一の方法だ。」と記されていました。
このような状況でも内務省と検察当局は保護してくれませんでした。その後、なんとか外国からの支援を得ることができました。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが、この状況に注目し、私たちを支援するキャンペーン「ソアチャの母たちにバラと希望を届けよう」を開始してくれたのです。私たちは世界中から、5500本のバラと25000通以上の励ましの手紙を受け取りました。
私は、ベルギー、デンマーク、ドイツ、アイルランド、オランダ、スペインで現地のアムネスティ―グループの人々と会い、国際司法裁判所や欧州連合議会で私たちがコロンビアで置かれている現状を訴えました。こうして国際社会の目が「ソアチャの母たち」に注がれることになったのです。
2013年、息子を殺害した6人の国軍兵士が起訴され、「人道に対する罪」で有罪宣告を受けました。しかし彼らは、その後2016年に政府とコロンビア革命軍(FARC)との間で成立した和平合意により設立された「平和のための特別法廷」で裁かれる権利を主張し、その結果全員が釈放されてしまいました。
私の息子に起こったことは、氷河の一角に過ぎません。ですから「ソアチャの母たち」としての活動にとどまらず、今ではコロンビア各地で人権を踏みにじられた母親達を支援し、彼女たちの声を代弁する活動を行っています。
2月20日にコロンビア北部のマグダレーナ・メディオ州での1年間にわたったプロジェクト(家族が強制失踪の犠牲者となった180家族との活動)を終えてソアチャの自宅に戻ってきました。それから間もなくして、新型コロナウィルス感染症の拡大に伴う都市封鎖が発令されました。
子どもたちは近くに住んでいません。殺人予告を受けていたため何年も前に遠くに移しました。ネイヴァ、メデリン、ヴィラヴィセンティオ等、各地を転々とさせましたが、彼らが安全に保護されていることで、私もこの活動に専念できるので、これでよかったと思っています。今では5人の孫にも恵まれていますが、残念ながら安全を考慮して一緒の時間を過ごせていません。
都市封鎖は、収入が途絶えれば生活を支える余裕がないこの国のほとんどの民衆にとって、あまりにも過酷な措置です。私の場合、いくつかの友人やグループの支援をいただいて、自分では購入できなくなった薬を入手しています。
私はワッツアップを使って内外の人々と連絡をとりながら、読書や編み物、刺繍などをして都市封鎖期間を過ごしています。
一方、ホームレスの人々が心配です。彼らには自らを安全に隔離できる清潔な場所がありませんし、世間は彼らのことを気にかけていません。何もできない自分が無力に感じています。そこで友人らに声をかけて、「屠殺者(ウリベ元大統領に関するドキュメンタリーの題名)」のロゴが印刷されたマスクを作って販売し、その収益金を恵まれない人々に食料を寄付する活動をすることにしました。
今回の新型コロナウィルス感染症の世界的流行(パンデミック)は、私たちが前に進んでいけるか、そして助けを必要としている人々に手を差し伸べるどれほどの寛容な心があるかが改めて試されている機会だと思います。(以上が取材に応じたマリア・ベルナルさんの証言内容)
50年に亘ったコロンビア内戦に終止符を打った和平合意により設立された「平和のための特別法廷」は、2002年から08年の間に国軍により超法規的に殺害されゲリラ戦闘員の死体として宣言された4439人の犠牲者を特定した。国連が7月に発表した報告書によると、ラテンアメリカで5番目に感染者数が多いコロンビアでは、パンデミックという緊急事態を利用して人権擁護者や元ゲリラメンバーを標的にする暴力が増加している。(原文へ)
マリナ・ベルナルは1960年生まれ。コロンビアの平和・人権擁護活動家で、「ソアチャの母」創立メンバー。ボゴタ南部の国軍により子供が誘拐・殺害された母親達による真相球面を求める運動を率いてきた。2016年ノーベル平和賞候補に推薦された。
INPS Japan
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