地域アジア・太平洋アフガニスタンの平和と安全保障に関するオリエンタリズム的ナラティブの出現を暴く 

アフガニスタンの平和と安全保障に関するオリエンタリズム的ナラティブの出現を暴く 

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

イスラエル人とパレスチナ人は、何とかして過去に終止符を打たなければならない。さもなければ、混乱の未来に直面するだろう。

【Global Outlook=バシール・モバシャー/ザキーラ・ラスーリ】

2023年7月、英国の国会議員で元国防省閣僚のトバイアス・エルウッドは、タリバン支配下で「安全保障は大幅に改善した」と自ら述べる動画を公表した。タリバン称賛に近い彼の発言に愕然とし、彼をタリバンの「役に立つ馬鹿」と呼ぶ者もいた。反発を受けてエルウッドは動画を削除したが、タリバン支配下の「安全」で「平和」なアフガニスタンというナラティブを語るのが彼1人でないことは確かである。西側では、ますます多くの自称アフガニスタン観測者がこの考え方を広めようとしている。(

タリバンとのドーハ合意をお膳立てしたザルメイ・ハリルザドは、タリバン支配下でアフガニスタンがより安全になったと主張した。米国の学者であり小説家であり、ザルメイ・ハリルザドの配偶者であるシェリル・バーナードはある論評で、タリバンはアフガニスタンに平和と安全保障をもたらしたと書いた。これは、国民に対するタリバンの暴力やこの国の悲惨な人道状況を記録した、世界的に有名な人権団体の信頼できる報告を全て無視するものだ。その代わりにバーナードは、「タリバンのファンではない」と評する国際危機グループ(ICG)の報告を用いた。ICGは以前より、アフガニスタンはこれまでより「はるかに平和」であると推定しており、タリバンが暴力と安全欠如の大部分の原因であったし、現在もそうであるという事実を無視している。ICGが以前からタリバン寄りの報告や分析を行っていることは、アフガニスタンの政治について知識がある多くの人に知られている。これらの主張を分析すると、三つの本質的かつ相互に関連する疑問が浮かび上がる。(1)平和と安全保障は何を意味するか? (2)それは、アフガニスタンの状況においてどのように定義され、適用されるか? (3)同じ平和と安全保障の基準が西洋社会にも当てはまるか?

平和とは何か、それをアフガニスタンに当てはめたときに何を意味するか? 平和構築の分野では、平和という言葉が単なる物理的暴力の不在よりはるかに大きな意味を持つということは、ずっと以前から定説となっている。意味のある持続可能な平和を実現するためには、さまざまなコミュニティーの福利を体系的に弱体化させ、排除、侮辱、貧困を永続化させ、権利と自由の行使を制約する不公平と不正義に根差した、構造的な暴力に取り組む必要がある。著名な学者らが、平和とは、経済的安全や心理的安全、人間の尊厳と権利の保護、差別や迫害からの自由といった人間の基本的ニーズに基づくものだと論じている。これらが一緒になって、人は自分の最大の可能性を発揮することができるのである。その延長線上で考えると、平和構築とは、個人とコミュニティーの政治的、経済的、社会的なレジリエンスと福利を確立し、促進することによって、暴力的紛争を変容させ、発生を防ぐことを目的としているといえる。人間の安全保障にかかわるこれら全ての側面に取り組まない限り、持続可能で意味のある平和を実現できる見込みは薄く、紛争の変容も解決もできないままとなる。

最近の西側の文献において規定されるいかなる基準によっても、アフガニスタンに平和と安全保障が存在すると信じるなど、現地の国内事情に極めて無知でなければありえないことだ。アムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、国境なき記者団のような世界的に信頼できる情報源の報告により、超法規的処刑恣意的逮捕拷問迫害集団立ち退き強制移転など、タリバンによる世界最悪の人権侵害状況が継続的かつ定期的に暴露されており、それらはいずれも罪を問われることなく実行されている。アフガニスタンのメディアは、重大な結果をもたらす恐れがあるため、公平にニュースを報道することに懸念を抱いている。その結果、報復を恐れて自己検閲に走ることが多く、アフガニスタンのメディアは人権侵害に関する報道ができなくなっている。

人口の3分の2という膨大な数のアフガニスタン人が、生き延びるためだけでも緊急人道援助を切実に必要としている。憂慮すべきことに、2023年には1,700万人が深刻な飢えに直面し、600万人が飢餓の瀬戸際にある。女性たちは、家から出るだけでも暴力や制裁を受けることを恐れながら暮らしている。タリバンの政策は、女性の権利と自由を大幅に奪い、アフガニスタン社会の政治的・社会的側面から彼女たちを体系的に排除している。彼らは、女性の教育、就労、スポーツ、娯楽、さらには個人の衛生や自己管理の基本的権利すら禁止することによって、事実上、ジェンダー・アパルトヘイトを制度化している。タリバンはまた、民族的少数派や宗教的少数派を、統治や公共サービスだけでなく人道援助や人道サービスの配布からも排除し、迫害している。少数派の強制的な集団立退きや移転は、多くの監視機関によれば、「人道に対する犯罪」の域に達している。アフガニスタンの平和というタリバンのうわべを美化する人々でさえ、同じような状況で生活するのを心地良いとは思わないだろう。では、どういう意味で彼らは、タリバンがアフガニスタンに平和と安全保障をもたらしたと言っているのだろうか?

エドワード・サイードは、オリエンタリズムの定義を、「知識」(およびそれ以上)としての「東洋」に関する一連のイメージであり、東洋という「他者」の本質的な真実を反映するのではなく、オリエンタリストがそれを構築したものを反映しているとしている。アフガニスタンの社会を「原始的」、「野蛮」、「未発達」、「未開」な「他者」と描写するオリエンタリストたちが考えるアフガニスタンの平和とは、ホッブズ主義的なそれである。イングランド内戦(1642~1651年)の際に暴力的な無政府状態よりも絶対君主制をよしとしたトマス・ホッブズは、平和と安全保障について、人々が互いに絶えず暴力をふるい合うのを阻止するという極めて狭義の概念を信奉していた。一方、君主は、市民に対して暴力を行使し、市民の権利に対するいかなる種類の制裁をも課す絶対的権限を有していた。彼は、イングランドにとって絶対君主制を敷くのが最も良いと結論付け、それを現実主義と呼んだ。英国の国民は、祖先がホッブズの「現実主義」を信じ込まなかったことに今感謝しなければならない。しかし、ホッブズの「現実主義」は今なお健在である。ただし、それは、オリエンタリズムのせいで「発展途上国」(植民地主義から復興しつつある国々)に向けられたものだ。例えばシェリル・バーナードは、アフガニスタン人が孤立、過酷な環境、欠乏に慣れていると主張することにより、タリバンの粗削りな平和という自身のナラティブを正当化した。彼女はその記事に“The Impossible Truth About Afghanistan”(アフガニスタンに関するありえない真実)というタイトルを付けた。ホッブズの「現実主義」の言い換えである。トビアス・エルウッドは、アフガニスタン人は「安定と引き換えに、より専制的なリーダーシップを受け入れて」いると主張し全て世論調査それとは反対のことを示していることを無視した。ウクライナの戦争と避難民について報道する際、西側のメディアは、文明的で、欧州、キリスト教、白人の国であるウクライナにおいて、「対立渦巻く」、「未開で」、「貧しい」アフガニスタンやイラク、シリア、その他広範な「第三世界」の国々でしか予想できない出来事が起こっていることへのショックを露わにした。このような考え方がなければ、タリバンが提供しているようななどと結論付けることはできない。

そのような考え方は、アフガニスタン人が20年間にわたって彼らを恐怖に陥れた反乱勢力の支配に屈するべきだとほのめかし、今まさにタリバンが彼らに行っている直接的、構造的、文化的暴力を看過するものである。また、このナラティブは、オリエンタリズムの自己中心性と認知バイアス、そしてそれがオリエントの「他者」の社会政治的現実をいかに歪曲しているかを如実に示している。エルウッドを含め、一部のいわゆる「観察者」や旅行者は、アフガニスタン訪問中に安心感があったというだけの理由で、アフガニスタンはタリバン支配下で安全だと断言する。彼らの安全の認識は、既知の敵、この場合はタリバンが突如として熱意あるホストに変貌し、心尽くしのもてなしをし、良い印象を与えようと努め始めたときに感じたであろう未熟な興奮、あるいはショックに関連付けることができる。20年間の共和国時代に外国人の居住者や旅行者を脅し、殺害し、誘拐し、レイプした同じグループが、いまや安全な通行権を与え、護衛さえするようになったら、根底から変わったと感じられるに違いない。主に西側に向けられたタリバンの選択的な歓迎ムードの演出は、過激主義的かつ抑圧的なタリバン政権をアフガニスタンの正当な統治者として世界に売り込むための操作である。彼らは、国内における正当性ではなく、国際社会の認知を求めているのだ。

このような訪問者が分かっていないのは、彼らが体験していることと、地元の人々が体験していることの間に著しい落差があるということだ。これらの訪問者は、タリバンが課す抑圧的な規則、服装の規制、身だしなみへの期待に従わないと生じる日々の結果や日々のハラスメントに立ち向かう必要がない。多くの者は、アフガニスタンの女性たち、ハザラ人パンジシール人、ジャーナリスト、そして避難を強いられた多くのコミュニティーの人々が、自分たちと同じように安心感を持ち、恐怖を感じずにいるかどうかを考えもしない。また、ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナル、その他の信頼できる人権団体が作成した報告書を考慮しようともしない。

オリエント地域の平和と安全保障がオリエンタリズムによってどのように定義され、測定されるかの中心には、西洋中心主義がある。多くのヨーロッパ人の観察者は、アフガニスタンの平和を欧州への大量移民がないことと同一視している。アフガニスタン人が国境内に留まる限り、国が十分に安定していると見なされる。これらの「観察者」たちは、アフガニスタン人の欧州流入を抑制しようとするタリバン政権の安定化努力を好んでいる。欧州諸国は、オスロオランダなどの国際フォーラムにおいて、あっさりとタリバンに発言機会を提供している。とはいえ、この厚意の延長で、自国民の間にタリバン出席者が過激主義的見解を発信することを認める気はない。ドイツ当局は近頃、ケルンのモスクにタリバン幹部が現れたことを非難し、「いかなる者も、ドイツでイスラム過激派に発言の場を与えることは許されない」と宣言した。この非難は、世界保健機関がオランダで開催したイベントにタリバン幹部が問題なく出席できたこととは極めて対照的である。このようなダブルスタンダードは、「タリバンの過激主義が許容され、常態化されてもよいのは、相手がアフガニスタン人の場合のみで、相手がヨーロッパ人の場合は違う」という明確なメッセージを浮き彫りにするものだ。

米国のバイデン政権はあからさまに手のひらを返し、タリバンのイメージを国内外における「対テロ戦争のパートナー」として回復する組織的努力に乗り出している。例えば、タリバンの、イスラム国ホラサン州(ISKP)に対する取り組みとアルカイダとの関係断絶を絶賛し、これらの結果を「アフガニスタン国民にとっても良いこと」と評しているが、ほとんどのアフガニスタン国民にとって彼らは皆同じだ。このような転換は、米国の文脈におけるテロの定義が、米国人、米国の利益、あるいは「米同盟国」に直接向けられる暴力行為という狭いものであることを如実に示している。テロリストか対テロ陣営かは、この特殊な米国中心主義のレンズを通して識別され、分類される。根底にある論拠は、タリバンのような地域の暴力的過激派組織と協力することによってISKPのような反米国際テロ組織の能力を弱体化させることができるなら、それは価値のある取り組みであるというものだ。このようなアプローチを「賢明」と称賛する者もいれば、タリバンを「対テロ」努力に「支援」を提供する「役に立つ同盟者」や「アフガニスタンのパートナー」とまで評する者もいる。タリバンに関するナラティブが、米国の兵士や民間人を狙い、アルカイダをかくまう暴力的なテロリストネットワークというものから、ドーハ合意後に「対テロ」「パートナー」へと変わった様には、驚くばかりだ。

結論として、国際的なオリエンタリズムは、少なくとも二つの絡み合う自己中心的前提を意識的または無意識に抱き続けていることに基づいている。第1に、西洋にとって最善の利益となるものは、世界の他の地域にとっても最善の利益となる。結局のところ、西洋は世界の中で唯一、何が自分たちや他の地域にとって最善であるかを知っている。従って、テロリストネットワークであるタリバンとのパートナーシップが米国の安全保障を高めると考えられるなら、ひいてはそれはアフガニスタンの安定性を高めなければならず、あるいは少なくともそのように描写されなければならない。第2に、西洋と「東洋」は同等ではない。従って、何をもって安全保障、平和、安定性とするかは、西洋とそれ以外では異なる。「文明的」、道徳的、合理的、民主的で、より優れた西洋において、平和と安全保障とは、物理的暴力の不在以上のことを意味する。自由、基本的権利、脅迫からの自由、経済的・心理的被害からの自由が西洋に保障されなければ、平和はない。西洋は「積極的平和」に値する。しかし、より劣った、「より文明的でない」、大部分は非民主的な「それ以外」において、同じ平和、安全保障、安定性の基準は当てはまらない。なぜなら、彼らの生活水準ではお互いに対する物理的暴力の不在しか実現し得ないからである。オリエンタリストは、オリエントの「他者」の安定性に関するオリエンタリストの概念から、過激派政権による国民への暴力を除外すらしない。少なくとも、その政権が「パートナー」である場合は。その意味で、人間の品位、公正性、自由、基本的人権の保護は、東洋においては希求される規範でしかなく、平和と安全保障の手段たりえない。劣ったオリエントには、不完全な消極的平和がふさわしいということだ。

バシール・モバシャーは、アメリカン大学(DC)博士研究員、アフガニスタン・アメリカン大学非常勤講師、EBS大学アフィリエイト。アフガニスタン法政治学協会の暫定会長(亡命中)であり、アフガニスタンの女子学生のためのオンライン教育プログラムを主導。専門は憲法設計と分断された社会におけるアイデンティティ政治。カブール大学法政治学部で学士号(2007年)、ワシントン大学ロースクールで修士号(2010年)および博士号(2017年)を取得。

ザキーラ・ラスーリは、平和・人権活動家で、ノートルダム大学で国際平和学を専攻し、修士号を取得中。アフガニスタン・アメリカン大学で政治行政学の学士号を取得し、法学を副専攻。2019年、非暴力と平和を推進する草の根の紛争変革青年運動「アフガニスタン・ユナイト」を共同設立。アフガニスタンで平和、安全保障、人権、開発のために7年間活動した経験を持つ。

INPS Japan

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