ニュースゴルバチョフは世界を変えた

ゴルバチョフは世界を変えた

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

【Global Outlook=ラメッシュ・タクール】

多くの人は、家族の衣食住を確保し、教育を与え、子どもが社会階層のはしごを一段上がることを助け、人生のたそがれには快適な退職生活を送りたいという控えめな願望を持っている。しかし中には、もう少し上を望み、人類の活動の中で自分の選んだ分野に足跡を残したいと考える人もいる。さらにその中でも、「世界を変えた」と言える人はほんの一握りしかいない。

ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフ(1931-2022)は、そのように称賛される一握りの一人だった。彼は、1989年から1990年にかけて、旧ワルシャワ条約機構加盟国が独立を回復し、ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが再統一されたとき、一発の銃弾も伴わず冷戦を終わらせた人物として、海外では尊敬の念を集めた。ソビエト軍はアフガニスタンから撤退した。彼は軍拡競争を軍縮へと導き、何万もの核兵器を解体した。ヘンリー・キッシンジャーはBBCに対し、このように語った:「東欧の人々、ドイツの人々、そして結局ロシアの人々も、彼の先見の明に、自由の概念とともに前に進む勇気に、たいそう感謝しなければならない。彼は、人類に偉大な貢献を成した」。(原文へ 

しかし、ゴルバチョフは、本国ではグラスノスチおよびペレストロイカの政策のために非難された。それらは、全体主義的な抑圧のくびきから人々を解放し(彼の祖父は二人とも、スターリンの粛清のもとで投獄された)、構造的な経済改革を始めるために構想されたが、硬直化したソ連を破壊し、二つの大陸にまたがるその帝国を解体し、ロシア人の国を縮小させ、ロシア人たちをみじめにし、自信を失わせた。ロシアの情報機関の退役大佐であるイゴール・ガーキンは、ゴルバチョフを「永遠の恥辱」がふさわしい「裏切り者」と称した。

それでも、全てを勘案してみると、また、世界各国のリーダーによる、数多くの非常に好意的な追悼において認められているとおり、ゴルバチョフはソ連の最後のリーダーであった7年間足らずの短い任期(1985年~1991年)において、20世紀後半の最も影響力のある政治家だった。 我々の時代のもっとも残念な「たられば」の一つは、西側が、新しいヨーロッパの秩序、核秩序および世界の秩序を創造するための全面的なパートナーシップを求めた彼の申し出を受けなかったことだ。

新世界秩序(new world order)という言葉は、ゴルバチョフが1988年12月7日の国連総会における演説で最初に用いた。アメリカ大統領ジョージ・ブッシュより1年以上前のことである。それは、あらゆる人々にとって、かつてはポスト冷戦時代のよりよい世界への希望と願望を込めた楽観的な概念であったが、今では、技術、経営や金融を牛耳るグローバルエリートのルールを大衆に押し付け、中流階級を縮小させ、主権を空洞化させようとする信用されない試みとして、不遇の評価を受けている。ゴルバチョフの演説の衝撃は、ウォルター・アイザックソンによる、1988年12月19日付の『TIME』誌における長大な分析記事によく捉えられている。アイザックソンが「説得力があると同時に大胆」と評したゴルバチョフの先見の明とは、法の支配に基づく国家同士の国際的なコミュニティー、NATOやワルシャワ条約機構のような安全保障同盟の陳腐化、ロシア人と西欧人が共通の故郷とするヨーロッパを基盤とする汎ヨーロッパ的な安全保障の枠組み、そして、「剣を鋤の刃に」と言われるとおり軍備から国内需要へと、資源および優先順位をシフトすることだった。

ゴルバチョフは、1986年10月11日および12日にレイキャビクで行われた2度目の歴史的会談で、アメリカ大統領ロナルド・レーガンに会った。1984年1月の一般教書演説において、レーガンは直接ロシア国民に語りかけた :「われわれ二つの国が核兵器を保有していることの唯一の価値とは、それらが決して使われないようにすることです。しかしそれならば、核兵器を全部なくしてしまうほうが良いのではないでしょうか?」

レーガンは、1985年11月のゴルバチョフに宛てた手書きの書簡において、核兵器の最終的な撤廃に向けての決意を新たにしている。ゴルバチョフは、翌年1月、1999年末までに「核兵器を完全撤廃するための前例のない計画」という言葉でこれに応答し、その計画に次いで、「核兵器は二度と復活させてはならないという・・・全世界の合意」が得られるかもしれない、と述べている。

両首脳は、レイキャビクでの画期的な核兵器管理アジェンダについて、側近、官僚や軍幹部からの強い抵抗に遭った。それでも、彼らは事実上の「グローバル・ゼロ」プログラムに合意した。核廃絶の原則に対する共通の思いが見いだされたことは、歴史の転換点となった。しかし、レーガンは、あらゆる核兵器の廃絶に繋がる削減を進めるために極めて重要だと考えていた戦略防衛構想(「スターウォーズ計画」)に関して譲歩することはなかった。会談そのものの具体的な成果がなかったにもかかわらず、レイキャビク会談は、1987年の中距離核戦略全廃条約(INF)(ドナルド・トランプ大統領が2019年に破棄)、そして1991年の戦略核兵器削減条約(START I)へと「道筋」をつけたのである。

数年間の交渉を経て、1987年12月にレーガンとゴルバチョフが署名したINF条約は、射程が500~5,500㎞の核弾頭および通常弾頭を搭載した地上発射型の巡航ミサイルおよび弾道ミサイルの開発、実験および保有を禁止した。調印式において、レーガンとゴルバチョフは、共同声明で「核戦争は勝者のない戦争であり、決して戦ってはならない」と述べた。彼らは、INF条約は「アメリカとソ連のあらゆる種類の核軍備を完全撤廃するという目的においても、その検証の仕組みの革新的な性格と範囲においても、歴史的だ」とした。1991年半ばの実施期限までに、 アメリカとソ連合わせて2,692基のミサイルが破棄された。INF条約は、冷戦の分断の前線としてのヨーロッパの安全保障に大きく貢献しただけでなく、30年間にわたってより広く国際的な安全保障を下支えした。最初の核軍縮条約として、世界の二大核保有国による、核不拡散条約(NPT)第6条に基づく軍縮の義務の履行に対する目に見える貢献だった。

ソ連の崩壊と、それに伴なうベラルーシ、カザフスタンおよびウクライナの非核化があったにも関わらず、START Iの履行は2001年12月までに完了し、上限6,000個の核弾頭を搭載した運搬手段は1,600基にまで減少し、既存の戦略核兵器は80%削減された。START Iは2009年12月に満了し、2010年には10年間の新START条約に取って代わられ、さらに現在5年間延長されている。

農民の息子でノーベル平和賞を受賞した男は、クレムリンにいる西側の「便利な愚か者」だったのか、公的な世界から国という強制装置を外すために自分が始めたプロセスのコントロールを失った未熟な夢想家だったのか、あるいは、ただソビエト国家の病理の積み重ねによって避けられなかった出来事によって足をすくわれ、破壊された運命の囚人だったのか? 今となっては、ソ連がそれ自体の矛盾と弱点によって自滅するもととなった多くの問題、すなわち危機を阻止し、回避し、または是正することなど誰もできなかったという命題に、異論をはさむことは難しい。結局、彼の国と国民は、ソ連解体という混乱の時をゴルバチョフと共についていく用意ができていなかったのだ。その結果、彼が試みた自由への道のりは、ネルソン・マンデラのそれよりもはるかに孤独なものとなり、目的地にたどり着くことはできなかった。

終わりに、このことは興味をそそる知的な謎につながる。ロシアの精神的な再覚醒は、ロシア国民がゴルバチョフの本質的なヒューマニズムを認めるための前提条件なのか、それともその逆なのか?

ラメッシュ・タクールは、国連事務次長補を務め、現在は、オーストラリア国立大学クロフォード公共政策大学院名誉教授、同大学の核不拡散・軍縮センター長を務める。近著に「The Nuclear Ban Treaty :A Transformational Reframing of the Global Nuclear Order」 (ルートレッジ社、2022年)がある。

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