SDGsGoal1(貧困をなくそう)インド洋大津波から10年、今も貧困と恐怖に苦しむ人々

インド洋大津波から10年、今も貧困と恐怖に苦しむ人々

【コロンボIPS=アマンサ・ペレラ

2004年のスマトラ沖地震により発生した大津波が押し寄せてから僅か30分で35万人の命が奪われ、50万人が住居を失った。そして、1時間もしないうちに10万戸の家屋が破壊され、20万人が暮しを奪われた。

南アジアの多くの人々にとって、クリスマス休暇は、今後も同時に2004年12月26日に襲来した大津波の犠牲となった人々を追悼する記念日として記憶に刻まれていくだろう。

インド洋に位置する島嶼国であるスリランカは、被災者が人口の3%にのぼり国内総生産の5%が影響を受けるなど、この大津波で最悪の被害を被った国の一つである。

大津波がスリランカ南西海岸を襲った際に被害を受け、コロンボ湾入り口で座礁し傾いたままの船舶。(2004年12月26日。IPSアマンサ・ペレラ撮影)

IPSアマンサ・ペレラ撮影
By Amantha Perera

12月26日早朝、同国最大の都市コロンボの南に位置するハミルトン運河に沿ってスリランカの内陸部に侵入してくる津波の第一波。(2004年12月26日。IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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南部ペラリア村で大津波に押し流された鉄道車両の前に軍人とともに立つ僧侶。同地では1000人以上が犠牲となった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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南部ペラリア村に設けられた集団墓地の近くで悲嘆にくれる女性。被災から10年が経過したが、数千人の遺族が引き続きトラウマと鬱病に苦しんでいる。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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東部バッティカロア県パニチチャンケルニ村の臨時収容所に避難している人々は、スリランカ内戦(1983年~2009年)の矢面に立たされてきた人々でもある。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

スリランカ国家災害管理局(DMC)によると、100万人を超える人々(その大半が貧しい家庭)が沿岸地域から避難しなければならなかった。

北東部は収まる気配のない長引く内戦に巻き込まれて疲弊していたが、大津波被害の大半がこの地域に集中した。

長びく内戦で、住民は、政府軍と反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ」間の戦闘の板挟みとなって苦しんできたところに、さらに大津波に被災した。政府統計によると、大津波被害の実に6割がスリランカの北部と東部の沿岸地帯に集中している。

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炎天下のなか、被災した鉄道車両に取り残された遺体から発する臭気から身を守るためにハンカチで鼻と口を覆う男性。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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被災した東部アンパラ県カルムナイ市に拾ったトタン板を運ぶ女性。東部海岸沿いのこの付近の3つの村における大津波による死者は3500人で、スリランカにおける全死者数の実に10分の1を占める。犠牲者の大半は海岸沿いの慎ましい家に居住していた貧しい漁師達だった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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東部サイナティマルス村は大津波により完全に破壊された。さらに沿岸の漁師らは、スリランカ政府が実施した海岸から100m以内(北・東部では200m以内)をバッファーゾーンとして居住を禁止するという浅はかな政策により、もう一つの障害に直面した。この政策は後に撤回されている。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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東部バッティカロア県パニチチャンケルニ村の浜辺で、大津波で命を失った人々の焼け焦げた遺体を撮影するカメラマン。当時、この地は「タミル・イーラム解放のトラ」の支配地であったため、被災者への支援物資は遅配が続いた。政府軍と「タミル・イーラム解放のトラ」間の配給食糧を巡る諍いの犠牲になったのである。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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大津波で破壊された南部ハンバントタの街を歩く男たち。この街の復興作業はこの後、急ピッチで進められた。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

大津波から10年が経過したが、この大災害の犠牲者を追悼した大きな記念碑は建てられていない。犠牲となった人々を記録した国の公式文書すら作成されていない。一方、沿岸部に沿って所々に小さな記念碑が建立されているが、そのほとんどは風化しており、ペンキの塗り直しが必要だ。

スリランカはこの10年で大きな変貌を遂げた。30年近くに及んだ内戦が終結し、国内避難民は新築や修理した家に帰還した。そして国民の大半にとって、大津波の記憶は過去の悪夢として記憶の彼方に埋没しつつある。

しかし、2004年の大惨事を実体験した数万人におよぶ被災者にとって、あの日の記憶は一生忘れられないものになるだろう。島には復興の槌音が鳴り、高級観光リゾート地へと続く真新しい道路があちこちに敷かれる一方で、多くの被災者は、近親や友人を失った悲しみやトラウマ、そして大津波がもたらした貧困生活から未だに脱することができないでいる。

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大津波で破壊された南部ハンバントタの街の瓦礫に立つ幼児。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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大津波から5年後、東部カルムナイ市では当初一年間を想定して建設された一時収容施設に、依然として数百人の避難民が生活していた。この施設から避難民の土地へのアクセスが困難だったことが、被災者の自立支援を進めるうえで、大きな障害となった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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大津波で破壊された東部カルムナイ市のカラシユ地区をバイクで通過する男性。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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民間資金で復興村に建設中の3軒の家(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

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2012年4月11日に発令された津波警報を受けて自宅を後にし、道路際で待機している、コロンボ郊外ラトマラナ沿岸地区の住人。自然災害には沿岸に住む貧困層が最も被害を受けやすい。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)(原文へ

翻訳=IPS Japan

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