SDGsGoal16(平和と公正を全ての人に)クメール・ルージュ裁判で画家が当時の看守と対面に 

クメール・ルージュ裁判で画家が当時の看守と対面に 

【バンコクIPS=マルワーン・マカン・マルカール】 

1970年代にカンボジアで行われた大量虐殺の加害者側と被害者側の2人が、今年中に、プノンペンで開かれる戦争犯罪を裁く特別法廷で対面することになるかもしれない。

そのひとりヴァン・ナト氏にとっては、30年近くもひたすら待ち続けてきた機会となる。彼は、1975年4月から1979年1月まで残虐なクメール・ルージュが政権を掌握していた時期刑務所として利用されていたカンボジアの首都プノンペンの中等学校トゥオル・スレンから生きて出てこられたわずか7人のうちの1人である。

少なくとも1万4,000人の被収容者は、彼のように幸運ではなかった。彼らは、拷問を受け、殺害された。


もうひとりは、過激派組織マオイスト(毛沢東主義派)の間ではS-21の呼称で知られていたトゥオル・スレン刑務所の所長カイン・グェック・イヴ(通称ドゥッチ)である。彼は現在、クメール・ルージュの他の4人の生き残り幹部とともに、国連が支援する戦犯法廷の管理下に置かれている。この戦犯法廷「カンボジア裁判所特別法廷(ECCC)」は、今年中に第1回審理を行う見込みである。

「クメール・ルージュの幹部らが法の裁きを受けるのを30年近く願ってきた。ドゥッチの裁判に出て、きちんとした判決がなされるのか見守りたい」と、1979年1月に自由の身となって以来S-21での1年に及ぶ苦悩を抱え続けてきたナト氏は話す。

しかし、白髪に加え、黒く濃い眉毛の先も白くなった61歳のナト氏は、さらなる行動をとる覚悟もできている。最近の訪問先バンコクで取材に応えた彼は、「法廷が証人として私を必要とするならば、出廷して証言する用意がある。私に出廷を求めるかどうかは、法廷の機密事項だと思う」と述べた。

もし出廷することになれば、カンボジアでの伝説的な存在であるナト氏の立場がさらに強まることは間違いないだろう。彼は、S-21における恐怖を実体験した被収容者のひとりであるばかりでなく、自由の身となって以来、自らの悲惨な体験を絵画を通じて生々しく、率直に伝えることを自らの使命としてきた。それは、彼の記憶から流れ出て凍結した苦悶の一瞬、一瞬を描いたものである。

1980年にトゥオル・スレン・ジェノサイド博物館で初めて絵画展を開いて以来、数々の絵画展を通じて、むち打たれ、爪をはがされる囚人たち、クメール・ルージュの看守に首を輪切りにされる囚人、看守に胸に抱いた赤ん坊を奪い取られ、殴打される母親など、さまざまな囚人の姿が伝えられた。今週バンコクで開幕した絵画展では、鎖につながれた囚人や、2人の看守に連れられていくナト氏自身のやせ衰えた姿も描かれ、心傷む内容である。

ナト氏の絵は、国民の4分の1に当たる170万人近くを殺害したとされる、クメール・ルージュ政権の恐怖をまさに如実に描き出している。乳児すら含む犠牲者の大半は、処刑されたかあるいは強制労働や飢えで死んだ。これには、ナト氏が収容されている間に飢え死にした彼自身の息子2人も含まれる。

キャンバスに向かうためこうした記憶を掘り起こすことで、心が慰められたり、創造的な喜びを味わうことはない。「看守に引きずられていく囚人を描くのは、今もって本当に辛い」と、ナト氏は感情を抑えた声で語った。「当時のあそこでの苦しい記憶が甦る。でもだからこそ絵を描き、暗く悲痛なあの時代を記憶にとどめるのだ」

実際、S-21での体験を書いたナト氏の著書は、彼が絵に描く苦悩がいかに真実に近いものかを物語っている。「トゥオル・スレンの元虐殺者」とナト氏が呼ぶ元看守と相対したとき、ナト氏は彼に刑務所の描写がどれほど正確かを尋ねた。それは1996年初頭に対面した時のことだったが、元看守は「いや、誇張ではまったくない。もっと残虐な場面もあった」と答えた。 

 「看守たちが母親から赤ん坊をもぎ取り、別の男がその母親を棒で殴打している絵を見たか」ナト氏は、著書『カンボジア刑務所ポートレート』で今は解放されたクメール・ルージュの看守に続けて問うたことを記している。「あなたや看守たちは、赤ん坊をいったいどうしたのか。どこに連れて行ったのか」

看守の答は次の通りだった。「連れ出して殺してしまった。赤ん坊は全員殺害するよう命令を受けていた」

「あの可愛い赤ん坊たちを殺害したとは!」と、ナト氏は苦悶に満ちた自らの返答をこのように書いている。「私は言葉を失った。彼の最後の陳述は嘘ではなかった。私は心の奥底で、彼らは子どもには危害を加えなかっただろうと、今までずっと思っていたのに」

しかしこの「トゥオル・スレンの画家」は、こうしてあまりにも多くの苦悩を呼び起こす画家という仕事こそが、刑務所を生きて出られた理由でもあると認めた最初の人物でもある。貧しい農家に生まれたナト氏が拘束され、S-21に連行されたのは、彼の画家としての才能が見込まれてのことだ。それまでナト氏はプノンペンからおよそ300kmの北西部の都市バッタンバンで広告看板の絵描きをしていた。

彼は、刑務所の拷問官から、ほとんど見も知らぬクメール・ルージュの指導者ポル・ポトの肖像画を描くように命じられた。彼は最初、人目を避けた独裁者の白黒写真を基に、モノクロの絵を描いていた。後になって彩色の絵を描くようになった。

当時ナト氏は、生きるために描いていることを知っていた。ミスは許されなかった。一緒に収容されていた画家仲間の中には、描いた肖像画が看守に認められず、処刑された者もいた。

最終的な審判者だったのがドゥッチだ。彼はナト氏が描いたポル・ポトの肖像画を詳しく調べて、「上等だ」、「結構」と言った。

とは言え、ナト氏の仕事がいかにドゥッチに気に入られていたかを知ったのは、クメール・ルージュがベトナム軍によって政権の座を追われた後のことである。1980年トゥオル・スレン・ジェノサイド博物館で働いていた時ナト氏は、刑務所の文書を調べていた研究者からあるリストを見せられた。

それは、1978年2月16日にドゥッチが許可した囚人の処刑リストだった。リストにはナト氏の名前もあったが、「画家は生かしておくこと」と赤インクで書かれていたという。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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