【ローマIPS=ミレン・グティエレス】
預言者ムハンマドの風刺画問題は、「表現の自由」と「宗教的感情を保護する責任」の間の論争という構図で議論されている。しかしこうした主張のそれぞれをもう少し厳密に検討する必要がある。それは両者の主張間だけでなく、それぞれの主張の中で疑問が生じているからである。
そもそも、報道の自由あるいは編集者の自制の問題だったのか。編集者による風刺画の出版反対あるいは謝罪の選択は、必ずしもイスラム教徒の宗教的感情への配慮からなされたのではない。多くの場合、怖れが編集上の判断を下す要因となった。風刺画出版後の暴力は、風刺画掲載を避けた編集者の怖れを実証したようである。
風刺画の転載で、編集者の解雇や逮捕、あるいは出版物の発行停止に追い込まれた事例も世界各地で見られた。将来、編集上の判断にこの暴力が影響を及ぼすことは疑いない。
さらには、暴力と暴力への怖れは、直ちに、「自由」対「責任」の論争を混乱させた。この恐怖は、行動や反対に行動の抑制を要求する議論や、沈黙の責任を言及する議論を超えたものといえる。
しかし、議論を混乱させるのは法律違反だけでなく、法律自体かもしれない。欧州の法律で言えば、たとえばホロコーストはなかったと主張する者が刑務所に送られる国も多い。絶対的な表現の自由を許している国はない。名誉毀損やわいせつの禁止あるいは司法上や議会の特権により必ず制限されている。
2月13日、イランのHarmshahri Dailyが、欧州人の言論の自由の限界を試そうと、ホロコーストに関する風刺画を読者に募集した。預言者ムハンマドをからかうのとホロコーストをからかうのとは異なるのか。ホロコーストの否定が法的に禁じられているとすれば、ムハンマドの風刺画もそうであるべきか。「権利」と「責任」の論争は、さらに複雑となる。
しかし、イスラム教、あるいはローマ法王、仏陀、キリスト教の司祭を批判するのと、大虐殺を否定するのとは違うだろう。事実は否定しようがない。
しかし作家ギュンター・グラスは、風刺画がナチス時代に有名紙に掲載されたユダヤ人差別の風刺画との類似を指摘し、イスラム教のタブーを尊重すべきと主張する。「表現の自由の権利の下で、私たちは保護を求める権利を失った」と述べている。
まさにこの議論こそ、世界中のすべてのジャーナリストが関心を持つところではないだろうか。米国に本拠を置くCommittee of Concerned Journalists (CCJ)のビル・コバック会長は「冷静で理性的な議論、すべての人の感情、考え、必要、価値観に耳を傾け、配慮した議論の結果である規制以外、言論の自由の規制に線引きはしたくない。怖れや法令による規制は望まない」と述べている。
風刺画がムスリム世界に怒りを引き起こし、暴力行為を招いたことは否定できない。風刺画を出版した編集者は、思考を呼び起こしたのか、あるいは怒りを引き起こしたのか。コバック会長は「ジャーナリストの重要な役割は、人々の思考を促すこと。怒りが生じた時点で思考は停止する」と述べている。
さらに議論を進めれば、公正な編集者であれば、怖れや法令によって口を閉ざすことはない。編集者の立場から風刺画問題を分析する。(原文へ)
翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩
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