SDGsGoal16(平和と公正を全ての人に)核廃絶を求める私たちこそがグローバル・マジョリティーだ。(ジャクリーン・カバッソ西部諸州法律財団事務局長)

核廃絶を求める私たちこそがグローバル・マジョリティーだ。(ジャクリーン・カバッソ西部諸州法律財団事務局長)

【ウィーンINPS Japan=ジャクリーン・カバッソ】

The side “The Catastrophic Consequences of Atom Bomb Testing—A First Person’s Testimony” Credit: Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director of IDN-INPS.
The side “The Catastrophic Consequences of Atom Bomb Testing—A First Person’s Testimony” Credit: Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director of IDN-INPS.

カザフスタンにおける核実験の壊滅的な結末-当事者が語る歴史」と題するサイドイベント(在ウィーン国際機関カザフスタン共和国政府代表部と創価学会インタナショナル(SGI)国際安全保障政策センター)に参加しました。このイベントは、私にとって非常に意義深く、また個人的にも感慨深いものでした。

私がカザフスタンを初めて訪れたのはソ連が崩壊する前の1990年で、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)とネバダ・セミパラチンスク運動が共催した核実験禁止国際市民会議に参加したときのことです。

その頃、私はすでに米国で反核運動に積極的に参加していました。

ネバダ核実験場での米国政府による核実験に抗議し、何度も逮捕されていました。しかし私たちの活動は、メディアの注目度も低く、国内ではあまり知られていませんでした。

転機になったのは、サンフランシスコで会議に参加した際にカザフスタンから来ていたある人物との出会いでした。彼は米国の反核活動家とのつながりを求めて来訪していたのです。

Jacqueline Cabasso, Executive Director, Western States Legal Foundation. Filmed and edited by Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director, INPS Japan.

そして彼から驚くべきことを聞きました。なんとアメリカ人さえあまり耳にしたことがないネバダ州での反核活動のことを知り、「ネバダ・セミパラチンスク」と名付けられた運動がカザフスタンで広がりを見せており、ネバダの活動に学びたいというのです。

彼の興味深い説明によると、彼らが見ていたソ連のニュースメディアは反米的なもので、米国での反核抗議行動や警察による逮捕の様子が映し出していたことからネバダの運動を知ったというのです。

そして、そのサンフランシスコでの会合を通じて、私はカザフスタンで予定されていた核兵器禁止国際市民会議に招待されることになったのです。

そして会議に出席のため、当時のアルマ・アタ(現在のアルマトイ)に到着したとき、パンをのせたトレイを持った民族衣装を着た人たちが、「実験場を閉鎖せよ!」「将軍たちは実験場に別荘を建てよ!」などと書かれた大きな垂れ幕を掲げて出迎えてくれました。

Kazakh civil movement activists gathered to demand a nuclear test ban at the Semipalatinsk test site in August 1989. Photo credits: armscontrol.org.

依然としてソ連共産党の統制下にあった当時のカザフスタンで、このような大規模な反核運動が公然と展開されているのを目撃して、驚きとともに深い感銘を受けました。国際空港には、既に「ネバダ・セミパラチンスク運動」のロゴが入った看板など、反核を訴える看板が設置されていました。

私たちはセミパラチンスク核実験場跡地や周辺地域を訪問し、当時の被害者たちと会い、核実験がもたらした苦しみがどれほど広範囲に及んでいたかを理解し始めました。この経験から、(米国で)疎外されていると感じていた反核活動家としての私の見方は、大きく変わりました。

Field trip to Semipalatinsk Former Nuclear Weapons Test Site in 2017 participated by the author. Filmed and edited by Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director, INPS Japan

つまり、核兵器の廃絶を求める私たちこそが、「グローバル・マジョリティーなのだ」と。

こうして私の初のカザフスタン訪問は、人生を変えるような経験でした。その後、1991年、93年にも核実験場跡を訪れ、より多くの人々との交流を深めてきました。

カザフの核実験による被爆の話は米国の主流メディアでその後も取り上げられることはなく、米国に戻ると、相変わらず、カザフスタンなんて聞いたことがないという人達に語りかける日々に逆戻りました。

その後も、2014年、17年にカザフスタンを再訪し、ネバダ・セミパラチンスク運動の指導者であるオルジャス・スレイメノフ氏との再会や、被爆画家で反核活動家のカリプベク・クユコフ氏との出会いなど、交流を深めていきました。

ここ国連施設で開催された今日のサイドイベントで、べセロフ氏の被爆証言に大勢の人々が熱心に耳を傾け、活発に議論を交わしている様子を目の当たりにして、やっとこの話が世に出ることができた、と感慨を深くしました。

しかし、あまりに時間がかかりすぎていると言わざるを得ません。これは本来極めて重要で大きな話です。そして、それさえも氷山の一角にすぎないのですから。

Trinity Nuclear Test. Original color-exposed photograph by Jack Aeby, July 16, 1945. Public Domain

というのも、米国では今、こんなことが起きています。1945年に米国で初めて行われたトリニティ核実験は、誰も住んでいない人里離れた場所で最初の核兵器が爆発したというストーリーとして公式に語られてきたましたが、それは真実ではありませんでした。

少なくとも15,000人以上の人々が、この実験によって直接的な影響を受けており、彼らは長年にわたって、世間の注目と補償を得ようと努力してきましたが、最近までほとんど注目されることはありませんでした。

映画『オッペンハイマー』が公開されましたが、核兵器が及ぼす人道的被害についての描写が欠落しているとの批判がある一方で、このことで、かえってトリニティ核実験の被害者に対する注目も集まっています。

また、偶然かどうか分かりませんが、プリンストン大学から新たな研究結果が発表され、米国で行われた核実験による放射性降下物汚染の範囲は、これまで報告されていたよりもはるかに広範囲に及んでいたことが明らかになっています。

核爆発という、人類に対するこの大規模な世界的犯罪が及ぼした被害の全貌は、まだ明らかになっていません。

べセロフ氏の苦闘は、ネバダ核実験場の風下で被爆したり、核実験に参加させられて被爆したにもかかわらず、補償を受けられなかった人たちの苦闘と相通じるものがあります。

これは深刻かつ極めて重要な問題ですが、新たに核兵器が実戦で使用されるかもしれないという現在進行中の問題のほんの一部に過ぎません。(原文へ) 撮影・聞き手:浅霧勝浩

INPS Japan

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