ニュース視点・論点チベット人が焼身自殺しても誰も気にかけない(R.S.カルハ前駐イラクインド特命全権大使)

チベット人が焼身自殺しても誰も気にかけない(R.S.カルハ前駐イラクインド特命全権大使)

R.S. Kalha
R.S. Kalha

【ニューデリーIDN= R.S.カルハ】

27才の若きチベット人ジャンフェル・エシ(Jamphel Yeshi)が、中国の胡錦濤国家主席のインド訪問に抗議して、3月26日に焼身自殺を図ったとき、多くの人々がこの「忘れ去られた人々」に降りかかった悲しい運命について思いを巡らさざるを得なかった。

チベットに生まれインドで育ったエシは、「チベット青年組織」の活動家であった。彼は遺書に「チベットの人々がこの21世紀において自らに火を放つのは、世界にその苦しみを伝えんがためである。」と書き残している。

エシはこの意味では独りではない。中国国内で焼身自殺を遂げたチベット人はすでに30人を超えている。しかし、世界は彼らの悲痛な訴えに耳を傾けているだろうか?

 予想通り、中国当局は、「ダライ・ラマが裏で糸を引いている」との見方を示している。中国外務省の洪磊(Hong Lei)報道官は、「ダライ・ラマのグループがチベット人独立運動を扇動し、様々な問題を引き起こしている。」と非難した。そしてこれも予想通り、中国政府は、今回の焼身自殺事件へのインド当局の「対応」を「称賛」した。しかしインド当局の役人は別として、こうした中国からの称賛を嬉しく思ったインド人は多くはいないだろう。

こうした一連の事件にもかかわらず、中国当局はチベットで政情不安を引き起こしている実際の原因について、改めて向き合うことを拒否している。チベット人居住地域は、治安当局による厳重な警戒体制下に置かれており、道路沿いには多くの検問所が設けられ、防弾服を着た重武装の軍警察が詰めている。中には、小さな消火器を携行しているものもいる。

また中国政府は、チベット人の宗教生活を直接的に監督支配する僧院統制(monastic management)計画を施行した。チベット僧の懐柔を目的に、約2万1000人の公務員がチベットに派遣されており、多くの僧の身上調書が作成された。恭順の意を示した聖職者には、特別の医療手当、年金、テレビセットなどの便宜が供与されている。また、チベット各地に100万枚の中国国旗と毛沢東の肖像画が配布され、修道院は毛沢東の肖像を掲げる義務を課せられた。こうした高圧的な政策は、チベット人住民一般の間で激しい不満を引き起こしている。

チベット人のために抗議の声をあげる国はない

チベット人は一般に温和な人々である。11世紀にインドから仏教が到来する以前のチベット人は、精霊崇拝を信奉し好戦的で野蛮な人々であったと伝えられている。しかしあらゆる殺生を禁ずる仏教がそうしたチベットのありかたを一変させた。チベット人は熱心な仏教徒として温和な人々になり、兵士は姿を消し、以来如何なる国々に対しても脅威を及ぼすことはなかった。

チベット人の間では、チベットの地はブッダ(仏陀)に守られた特別な土地という信仰がある。チベットには、どこに対しても脅威とならないユニーク且つ温和な文化が存在した。それはかつてタシ(パンチェン)・ラマが語ったと伝えられる次の言葉によく表れている、「私たちはただ読書し祈ることしか知らないのです。」チベット民族の人口分布はしばしば政治的な境界線と一致していないが、チベットを地理的に取り囲んでいる国はインドと中国のみである。

しかし、こうした明白な人権侵害があるにもかかわらず、人権保護活動家を除けば、チベット人のために抗議の声をあげる国はない。ちなみにチュニジアでは、2010年12月17日に露天商モハメド・ブアジジ(Mohamed Bouazizi)が焼身自殺をはかり、それがアラブ世界に大きな変革の波をもたらした「アラブの春」につながった。

しかしエシには気の毒だが、中東で見られたような変化はチベットでは見られない。1950年に中国がチベットを占領し、チベットが国連に窮状を訴えたときでさえ、主要国でチベットの訴えに耳を傾けた国は、当時のジャワハルラール・ネルー政権のインドを含めて皆無に等しかった。僅かにラテンアメリカのエルサルバドルが「チベットに対する侵略を非難し、国連総会がとるべき措置を研究する委員会を設置する」趣旨の決議案を第5回国連総会に提出したが、結局審議延期となりあやふやになってしまった。英国とインドの反対により、国連でさえ何ら有効な対応策をとろうとしなかったのである。

世界の大半の人々は、シリア情勢の成り行きを心配し、タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)敗北後に行われた殺戮に対してと同様、シリアで一般市民が虐殺されている現状に批判的である。しかしこれとは対照的に、不運なチベット人のために涙するものはほとんどいない。国連人権委員会でさえチベット問題になると積極的な行動は見られない。南アフリカ出身のナヴィ・ピレー国連人権高等弁務官も、シリアの人権問題に関しては積極的な発言が顕著だが、チベットの問題には触れていない。

その理由は他でもなく、中国の機嫌を損ねたくない、ということである。今や中国は、安全保障理事会の常任理事国であると同時に、米国に次いで世界第二位の経済大国でもある。また中国市場は世界の国々にとって極めて重要な位置を占めるに至っている。また、中国の軍事力は、毎年高い伸びを示している巨額の国防費に比例して着実に増強し続けている。今年の初め、バラク・オバマ政権は軍事的台頭が著しい中国に対抗するための戦略に主眼を置いた「国防戦略見直し」を発表した。米国政府はこの中で、軍事・経済大国としての躍進著しい中国の台頭を「議論の余地の多い(contentious)問題」と強調している。中国にとって残念なことは、そこでは中国はイランからの「脅威」と同じ分類に扱われていることである。

米国の政策立案者達が、中国が地域勢力として台頭していけば、長期的には、米国の経済・安全保障の権益が「様々な形で」影響を受ける「恐れがある」と考えていることは、疑いの余地がない。「国防戦略見直し」は、中米両国が、東アジアの平和と安定を維持し、「協力的な」関係を構築していくことに共通の利害があることを認める一方で、中国は同地域において米国との摩擦を避けるためにも「その戦略的意図」を明らかにするよう要求している。

「国防戦略見直し」には、中国が今後東アジア政策を推し進めていく中で、米国と協力していくのか、それとも米国の権益に対して敵対的な戦略をとりうるかについては言及されていない。おそらく、中国に求めている「戦略的意図を明らかにする」とはこのことを指しているのだろう。従って、今回の見直しから明らかになった米国の対中戦略は、引き続き中国との協力関係を推進していくものの、同時にその「戦略的意図」について警戒感をもって注視するという両軌政策である。

すなわちオバマ政権の不文律の政策は、不必要に中国を怒らせるようなことはしないということになるだろう。しかし公平を期して言うならば、米上院は「焼身自殺で亡くなったチベット人の死を悼むとともにチベット人を標的とした抑圧的な政策を非難する」超党派議員有志による決議案を可決している。

しかしチベット人にとって希望が失われたわけではない。ツイッターフェイスブックといった新しいメディアの発達によって、チベット人の苦境は世界に知られるところとなった。ジャンフェル・エシの焼身自殺を目撃した世界の数百万人の人々は、彼の凄惨な姿と不運なチベット人達が置かれている境遇に同情の気持ちを禁じ得なかっただろう。今後もこのような焼身自殺があるたびに、中国の対チベット政策に対する反発が国際社会に巻き起こることになるだろう。中国の指導層は、今こそそうした声に耳を傾けるべきときだ。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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