この記事は、ネパーリ・タイムズ(The Nepali Times)が配信したもので、同通信社の許可を得て転載しています。
【カトマンズNepali Times=クンダ・ディキシット】
1816年のスガウリ条約で英・ネパール戦争が終結した後、ネパールは名目上は独立していたが、大英帝国からは単なるインドの藩王国の一つとして扱われていた。
1847年、王宮大虐殺事件で政権を握ったジャンガ・バハドゥル・ラナは、1816年に失った領土を取り戻すために英国と戦争することが賢明かどうかを判断するため、ヴィクトリア女王の招きに応じ、1850年にインド亜大陸の王族としては初めて英国を訪問した。
大砲の工場や軍事施設を視察したジャンは、大英帝国の強大さに目を見張った。その後100年に亘りネパールを支配した彼とラナ家の子孫らは英国に傾倒し、1857年のセポイの乱の鎮圧をはじめ、その後大英帝国が推進したアフガン戦争やその他の帝国主義戦争にグルカ兵を提供した。第一次世界大戦のフランダースの野原やガリポリなどの戦場では、推定2万人のグルカ兵が戦死した。
チャンドラ・シャムシェル・ラナ首相は、巧みな外交術と2年間にわたるデリーとロンドンでのロビー活動を通じて、グルカ兵らの貢献と犠牲を英国政府に巧みに訴え、1923年にはネパールを主権国家として認めさせる友好条約の署名に漕ぎつけた。
チャンドラ・シャムシェル自身、1908年にロンドンを訪問している。彼は、英軍や王族を軟化させて条約に署名させるため、ホレイショ・ハーバート・キッチナー卿をもてなし、チトワンではジョージ6世とエドワード王子を招いて手の込んだトラ狩り外交を展開した。
プリトヴィ・ナラヤン・シャーはネパール建国の王であったかもしれないが、ネパールに初めて世界での地位を与えたのはチャンドラ・シャムシェル首相であった。1937年、ネパールはケンジントン・パレス・ガーデンズ12Aに大使館を設立し、現在に至っている。当時、ネパールはロンドンに公館を持つ4つのアジア諸国のうちの1つであった。
1947年のインド独立後、状況は一変し、ラナ家の世襲独裁はまもなく終焉を迎えた。
今年は、1923年12月21日にネパール・イギリス友好条約がシンガ・ダルバール宮殿で締結されてから100周年にあたる。この条約は、スガウリ条約によるネパールの歴史的屈辱に対処するためのものであった。
英国のネパール特使ウィリアム・オコナーは、調印式のためにラジンパットからシンガ・ダルバールまで20頭の馬で護衛されたが、これは当時国王だけに許された栄誉だった。
ラナ政権は2日間の祝日を宣言し、夜間の建物のライトアップを命じ、賭博の禁止を一時的に解除し、囚人を解放した。カトマンズの英国使節は、それまで「駐在員」と呼ばれていたのが、正式な大使になった。
ネパールが植民地化されることはなかったが、この条約によって、ネパールはついに独立国として世界に認められるようになった。条約文書はシンハ・ダルバール宮殿に保管されており、オコナーとチャンドラ・シュムシェルの署名がある。
この条約は、ネパールの主権を保証し、スガウリ条約を再確認し、安全保障に取り組み、ネパール軍による武器輸入の道を開き、英国・ネパール間の貿易に関する関税障壁を取り除くという7つの条項で構成されている。
しかし、この条約はすべてのネパール人に歓迎されたわけではない。反ラナ派の反体制派やグルカの徴兵に反対する人たちは、この条約に反対した。チャンドラ・シュムシェルは条約調印の6年後に亡くなり、後継者たちはこの条約を十分に活用することなく、例えば国際連盟に加盟してネパールの存在をより強力にアピールすることはできなかった。
チャンドラ・シャムシェルは、条約の安全保障条項を利用して、英領インドにおける反ラナ、反グルカ兵の徴兵活動に従事する活動家らを、インドに駐在する英軍に弾圧させたほどである。
ネパールは英連邦のメンバーではないが、8000人ほどのネパール国民が英軍に所属していたことで、ネパールと英国の関係はより緊密になり、政治、経済、貿易分野における協力関係をより活用できるはずだった。
ネパールはグルカの徴兵という「ソフトパワー」を十分に生かしきれていない。摂政でネパール好きのブライアン・ホートン・ホジソン、植物学者のフランシス・ブキャナン=ハミルトン、博物学者のジョセフ・ダルトン・フッカー、ヒマラヤ探検家のA Wティルマンやエリック・シプトン、ポカラを故郷としたマイク・チェニーやジミー・ロバートなど、過去2世紀にわたってネパールについて研究し探索した冒険家も英国ではほぼ知られていない。
その多くは、ネパール自身の長年にわたる外交の不手際に起因している。しかし、1961年のエリザベス女王の初訪問を皮切りに、英国王室のメンバーが何度もネパールを訪れている一方で、これまで英国の現役首相がわざわざカトマンズに来訪したことはない。
1923年のネパール・イギリス友好は、英国やインドでもあまり注目されず、ネパールでも政治的な論議ではスガウリ条約や1950年のインド・ネパール通称・通過条約の陰に隠れている。また、ネパール国境を越えて周辺国に在住する人々の中には、1950年のインドとの条約が1923年のネパール・イギリス友好条約よりも優先されると主張する人々も少なくない。
歴史は巡り、帝国は興亡を繰り返す。英国の栄光は、今や歴史書の中だけのものとなってしまった。ネパールの隣には、台頭する中国がある。ネパール人は、1923年の条約で門戸が開かれた、当時世界的な大国であった大英帝国とのビジネス機会に、自分たちが応えてきたかどうかを熟考する必要がある。
その答えは否(=応えることができていない。)である。最近、2つの大きな隣国(インドと中国)と米国は、ネパールの指導者を不信と軽蔑の目で見ている。つまり、ネパールの政治家は約束を守らず、自分を最高額を提示する者に売り渡そうとする、よって、ネパールの安定と存続のために必要な地政学的な綱渡りをすることができないと見られているのだ。
ネパールの指導者たちの外交的な振る舞いは、被害者面して跪くか、無謀にも隣国同士を対立させるかのどちらかだ。彼らは権力の座に就くために、空虚なナショナリズムに頼ったり、ポピュリズムを煽ったりする。
ネパールは、世界最大の新興経済国2カ国(インド・中国)と国境を接している。この2つの経済大国が常に我が国(ネパール)を巡って争っているわけではないことに早く気づくことができれば、私たちはネパールの発展のためにこの地の利を生かすことができるようになるだろう。(原文へ)
INPS Japan
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