【National Catholic Register/INPS Japanホーチミン=ヴィクトル・ガエタン】
編集者注:これはベトナムからの3部作記事の第2弾。第1部はこちらで読めます。
ベトナムを3週間旅し、カトリックコミュニティーや聖なる場所に身を置く中で、キリストに人生を捧げた多くの素晴らしい若者たちに出会った。
日々の旅の中で、英語やフランス語で若い司祭や修道者たちと交わりを持つことが、しばしば最も印象的な瞬間となった。そして、これらの若い修道者たちと話をするうちに、一つのパターンが浮かび上がってきた。多くの人が他のアジア諸国での豊かな経験を持っていた点である。
彼らは、国境や国家間の緊張といった世俗的な現実の障壁を超えた、普遍的な教会の中で生きてきた巡礼者たちだった。その結果、彼らのキリスト教的な視点は、国際的でありながら謙虚でもある。
このようなアジアのカトリックコミュニティー間の流動性は、地域的な統合の源となり得るのだろうか。多様性に富んだ文化の中で、新たに台頭するカトリック指導者たちは、調和をもたらす力となり得るのだろうか。
教育と宣教活動
このテーマを裏付ける例として、昨年、マリスト修道会で終生誓願を立てたピーター・グエン・ヴィエット・バオ修道士(32歳)が挙げられる。
ピーター修道士は、ベトナム中部の貧しい地域に暮らすカトリック家庭で育った。2009年、宣教師たちが彼の教区を訪れ、その精神に感銘を受けた彼は、翌年18歳で宣教師になることを決意した。
修道士としての養成の一環で、ピーター修道士はフィリピンで2年間、スリランカで2年間、さらにフィリピンで2年間過ごした。スリランカでは、バチカンの外交団に所属し、最近引退したピエール・グエン・ヴァン・トット大司教の指導を受けた。
ピーター修道士は、フィリピンで磨かれた流暢な英語を話し、ベトナムを訪れる代表団の通訳や調整役として活躍している。私が同行した、日本の人道支援団体の代表団もその一例である。この団体は、イエズス会の安藤勇神父が率いており、ベトナムと日本の間で「ジャパン・ベトナム」イニシアチブを立ち上げた。このイニシアチブでは、マイクロファイナンスプログラムや奨学金、困窮者への支援のための資金を集めている。
「ジャパン・ベトナム」グループのもう一人のメンバーは、グエン・タイン・アンさん(33歳)で、南部沿岸地方出身のイエズス会士で、現在は東京に住んでいる。彼は来年司祭に叙階される予定だ。彼はイエズス会ベトナム管区で3年間学んだ後、20188年に日本へ派遣された。アンさんは自らを「日本への宣教師」と表現している。また、彼の兄もイエズス会の司祭で、近隣のラオスで数年間宣教活動を行っていた。ラオスでは、2015年以降、カトリック人口が100%増加し、現在ではラオス人口の1.3%がカトリック信徒となっている。
いくつかの関係者は、ベトナムが貧しい国であり、教会も経済的に厳しい状況にあるため、現地の召命者たちは奨学金を受けて海外で学ぶことが多いと説明した。彼らがベトナムに戻る際には、海外での経験が地元の教会の活動を豊かにしているとのことだった。
「フィリピンはカトリック人口が多数を占める国として有名です。」とピーター修道士は語った。「多くのベトナム人修道士や修道女が神学を学ぶためにフィリピンへ行きます。フィリピンには宗教研究のためのカトリック教育機関がたくさんありますから。」
ロックビル・センター教区(ニューヨーク州)の司祭で、中国研究の第一人者であるジョン・ワースリー神父は、この動きを「自然なこと」と見ている。「例えば日本のような国では司祭が必要とされており、一方でベトナムのような国では多くの召命者がいますが、経済的支援が不足しています。」と語った。
しかし彼はさらにこう付け加える。「根本的には、アジアで起きていることは、普遍的な教会を導いている聖霊の働きが中心なのです。」
支援する司教たち
アジアの司教たちに見られる驚異的な結束が、聖霊に加えてもう一つの説明となるだろう。
約130人の司教たちが、27の加盟国から集まり、2年前にバンコクでほぼ3週間を共に過ごした。「アジアの民として共に歩む」というテーマの下、アジア司教協議会連盟(FABC)は52年ぶりに初の総会を開催した。会議では、パキスタンの貧困、ミャンマーの気候災害、モンゴルにおける信仰の新しさといった、教会が直面する多様な現実について深く学ぶセッションが多く行われた。
FABCは、1970年にパウロ6世がフィリピンのマニラを訪問し、180人のアジア司教たちが教皇と会うために集まった際に設立された。当初から、この連盟は宣教に力を注ぎ、2012年にはそれを「新しい福音宣教」として再定義した。
2022年、FABCは「出会いの文化を促進することで、アジアの教会がより大きな参加、統合、変革を目指す」よう呼びかけた。この姿勢は、ベトナムでも明確に見られる。
私が会った若い司祭たちも、しばしば福音宣教について語っていた。「多くの若いベトナムの司祭や修道女たちが、特に召命が少ない国々で奉仕するために他国で献身しています。」と、自身もそのように活動している若いイエズス会士のアン神父は語った。「これは、教会が宣教に対するコミットメントを示しており、それが教会の重要な使命であり本質であることを表しています。」と彼は付け加えた。
宣教と地域協力が司教連盟の中心的なテーマであるため、地方教会間の交流を奨励することは自然な流れだ。
例えば、クアン・ガン神父は韓国で学んだ。韓国のカトリック教会はよく整備され、影響力がある。韓国の人口の約11%がカトリック信者であり、国会議員の27%が現在カトリック教徒だ。
韓国滞在中、ガン神父は1953年に設立された韓国初の固有修道会である「韓国殉教者聖職者会」に参加した。
「この新しい修道会に属して帰国した際、ここベトナムの司教や司祭たちは非常に温かく迎えてくれました。」とガン神父は述べ、北寧教区の司教が彼の教区生活への統合を支援してくれたと付け加えた。
司祭だけでなく、一般のカトリック信者たちも地域交流の奨励から恩恵を受けている。
今年4月、日本で私は、長崎のカトリック聖地を訪れる韓国人巡礼団に会った。これは、1910年から45年の日本による韓国植民地化に端を発する歴史的緊張にもかかわらず、行われている。同月、タルチジオ・菊地功枢機卿候補は「韓国と日本の司教たちは、巡礼や交流を奨励することで両国間の調和を進めることを明確に決めました。」と語った。
ベトナムにおける中国系カトリック教徒の存在
アジアのカトリックコミュニティーが互いに交流し、国を越えて移動し始めたのが最近のことであると考えるのは誤りであり、歴史的に浅薄な見方である。
その一例として、聖フランシスコ・ザビエルのような教会の宣教師たちの物語は、まさに異文化間の移動の歴史そのものである。この聖人は16世紀にインド、日本、マレーシア、インドネシアを訪れ、1552年に中国本土沖の島で亡くなっている。
ホーチミン市では、チョロンという地域にある聖フランシスコ・ザビエル教会で、素晴らしいカトリックコミュニティーと司祭たちに出会った。この教会は、地元の中国系カトリックコミュニティーのために1900年に建てられた。現在でも、平日の午後5時30分のミサと日曜日の2回のミサは広東語で行われている。
教会そのものは改修中であるため礼拝は行われておらず(修理と改修費用は信徒と司祭が負担し、国家は関与していない)、大きな野外パビリオンがミサに使用されている。しかし、ヴィンセント・コ・ディエン・タイン神父が私を教会内陣へ案内してくださり、そこには悲劇的で歴史的な場所があった。それは、1955年に選出され、毎日聖体拝領を行っていたカトリック信徒であるゴ・ディン・ジエム大統領が、1963年の万霊節の日に弟のニュウと共に暗殺される前に祈りを捧げていた座席だ。
驚くべきことに、ジェフリー・ショーというカトリックの軍事歴史家が執筆した『The Lost Mandate of Heaven: The American Betrayal of President Ngo Dinh Diem』(イグナティウス・プレス、2015年)などの書籍によれば、ジエム大統領の暗殺は、米国政府が承認したクーデターの不気味な結果であったことが示されている。ジエムの祖先は17世紀にベトナムで最初期にカトリックに改宗した人々の一部だった。彼は大統領に就任する前の1950年、聖年の際にローマを訪れ、ピウス12世教皇との謁見を果たしている。
「そうです。ジエム大統領は、彼がよく訪れていたように、最後の日にもここ聖フランシスコ・ザビエル教会にいらっしゃいました。彼はこの教会のフランス人司祭、ガブリエル・ラジュン神父と親しくしていました。」と、82歳のスティーブン・フユン・チュ神父は、自宅のキッチンで私たちに語った。このキッチンは教会からわずか20フィートの距離にある。「毎年11月2日に、ジエム大統領の墓地への追悼行事を行っています。」
チュ神父は教会の近所で育ち、そこで祭壇奉仕者を務めていた。1974年に司祭として叙階されて以来、今でも教会敷地内に住み、妹と共に生活している。
チュ神父は中国系であり、1975年に南ベトナムが陥落した時、ちょうど聖フランシスコ・ザビエル教会で司祭を務め始めて1年目だった。「すべてが燃えていました。教会の近くの多くの家が焼けましたが、教会自体は無傷でした。」と、神父はフランス語で語った。
「征服した共産主義政府は近隣のカトリック学校や教会の新聞を閉鎖し、信仰行事としての行列を禁止しましたが、司祭たちはミサを続けました。非常に困難な時期でした。」と神父は語った。
「現在、私たちは活気を取り戻しています。毎週1,000人がミサに参加していますが、ベトナム人の方が中国人より多いです。」とチュ神父は報告した。
一方、ラジュン神父はアジアで国境を越えて活動した教会の典型的なパターンに該当する。彼は1976年までサイゴンにとどまりまったが、その後圧力が強まり、香港へ移った。香港では40年以上にわたり司牧を続け、2018年に亡くなった。(原文へ)
INPS Japan
ビクトル・ガエタンは、国際問題を専門とするナショナル・カトリック・レジスターの上級特派員であり、バチカン通信、フォーリン・アフェアーズ誌、アメリカン・スペクテーター誌、ワシントン・エグザミナー誌にも執筆している。北米カトリック・プレス協会は、過去5年間で彼の記事に個人優秀賞を含む4つの最優秀賞を授与している。ガエタン氏はパリのソルボンヌ大学でオスマントルコ帝国とビザンチン帝国研究の学士号を取得し、フレッチャー・スクール・オブ・ロー・アンド・ディプロマシーで修士号を取得、タフツ大学で文学におけるイデオロギーの博士号を取得している。彼の著書『神の外交官:教皇フランシスコ、バチカン外交、そしてアメリカのハルマゲドン』は2021年7月にロウマン&リトルフィールド社から出版された。2024年4月、研究のためガエタン氏が初来日した際にINPS Japanの浅霧理事長が東京、長崎、京都に同行。INPS Japanではナショナル・カトリック・レジスター紙の許可を得て日本語版の配信を担当した(With permission from the National Catholic Register)」。
*ナショナル・カトリック・レジスター紙は、米国で最も歴史があるカトリック系週刊誌(1927年創立)
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