【IDN/Pressenza広島=マーゼン・クムスィーヤ】
私とオリバー・ストーン監督は、8月6日に人類史上初めて核爆弾が投下された広島の地で講演をする機会がありました(講演内容は本原稿の下段に掲載しています)。また2日後の9日9日にも、第2の核爆弾が投下された長崎の地で話をすることになっています(注:原稿執筆時は8月7日:IPSJ)。
1945年に米国が行った広島・長崎両市への原爆投下は、今日に至る人類の歴史において、もっとも恐ろしい国家テロ行為です。私は、これまでにも恐怖で身震いするような(原爆被害の)写真や映像を見たことはありますが、実際に広島の被爆地を訪れて感じたものは全く異なった次元のものでした。私は、太陽が眩しく照りつける8月6日の午前8月15分、各地から平和記念公園に集ったさまざまな背景を持つ人々とともに、原爆ドームの横で3分間地面に身を横たえました。私たちは空を見つめて、68年前のこの時間に、頭上に投下された核爆弾が上空600メートルで実際に爆発した恐怖を、こみ上げる涙に震えながら想像しようと試みました。しかし、実際に人口密集地の住民の頭上に核兵器を投下し、一瞬にして数万人もの生身の人間を焼き尽くして骨だけにし、さらに数万人の肉体を焦がして皮膚をぼろきれのようにした恐怖を、いかにして想像することができるでしょうか。さらにそれ以上に想像しがたいのは、同じ人間に対してそのような悲惨をもたらす決定をした「人間の心の闇」に他なりません。
オリバー・ストーン監督とピーター・カズニック教授は、米国の教科書で現在も教えられている神話とは異なる、原爆を投下した真の理由について、明晰な説明をしてくれました。しかしその真相が何であったとしても、(原爆投下を指示した)ハリー・トルーマン大統領と将軍たちが人類にもたらした惨たらしい現実は、なにも変わりません。当時、放射線中毒が人体に及ぼす影響については、医学関係者のみならず、それまでの実験に関する詳細な報告を受けていたトルーマン大統領も理解していました。私は今回の初来日以来、多くの被爆者や彼らの子孫と面談し、白血病やその他の癌、あるいは先天性奇形等を患って亡くなっていた子供たちの話を聞きましたが、そのあまりの痛ましさに圧倒されました。一時訪問者の私ですらこのように感じるということを考えれば、まして日本に暮らしている人々の原爆に対する心情は、察して余りあるものがあります。
ところで、広島の原爆死没者慰霊碑からは、ナショナリズムや戦争(を肯定する)気配はまったく感じられません。それどころかそうした気配からは遠く隔絶した存在のように思いました。つまり広島の事例は、戦争の犠牲者であっても、(加害者への憎しみを植え付け、武力と団結の必要性を強調する)戦争やナショナリズムが(将来の悲劇を繰り返さないための)解答ではないと理解することが可能だということを示しているのです。そこで私は、世界のより多くの人々が、広島から学ぶことで、多くのホロコースト博物館が醸し出しているシオニズムと戦争を肯定する誤ったメッセージを変革し、それに代わって、平和を支持する構造を築き上げていってほしいと切に願うものです。
また広島では、多くの子どもたちや若者が自発的に愛と平和を訴える活動に参加しているのを見て、感銘を受けました。会場では高校生たちが世界中の核兵器を禁止するための署名を集めていました。また、数百人規模の市民が、地元の電力会社に対して原子力の利用をやめるよう求めるデモ行進を行い、私も参加しました。その際、私たちが被っているパレスチナの彩り豊かなクーフィーヤが歓迎され、彩り豊かなデモ隊の横断幕や旗の中で映えたのを印象深く思います。私が広島で目にしたのは、日本に関する海外報道ではあまり触れられてこなかった、日本の人々が抱いている平和への希望や先の戦争の痛みであり、一部の右派政治家や第二次世界大戦における日本軍の残虐行為さえ否定する一部の人種差別論者に敢然と立ち向う素晴らしい人々の姿でした。
私はパレスチナ人訪問者として、とりわけ日本の諸都市が、規律正しく整然としていることに感銘を受けました。すべてが完全に機能しているように思えます。鉄道の発着時間は分単位で正確であり、数百万人の乗客を、市内及び各市を結ぶ広域ネットワークで運んでいます。また、日本の通りは、きれいに保たれており、(もちろん)私たちの自由な移動を妨げる(イスラエルにあるような)分離壁やチェックポイントに出くわすことはありませんでした。
人々は整然と通りを渡り、ゴミは自分で携帯したゴミ袋に入れて持ち帰っています。行列を飛び越えるものはおらず、家々や道行く車はきれいに掃除が行き届いています。そして、ほぼすべての人々が、(周りに迷惑にならないように)低い声で語り合い、お互いに礼儀正しく接しています…このように私の目に映った日本の社会は、穏やかで平和に満ちていました。
また日本は、多くの国々と同じく、西洋式の資本主義が浸透した社会でもあります。つまり、この国においても、マクドナルドやスターバックス、はたまた売春婦や腐敗した政治家を目の当りにすることができるのです。日本社会は、他国と比較してより均質的な特徴を持っています、しかし一方で、人口1億2千万人を抱える大国でもあります。そして、日本を短期間でも訪問した人ならだれでも、この国には驚くほど多様な発想やコンセプトが共存していることに気づくことでしょう。
また(広島の前に訪問した)名古屋では、環太平洋連携協定(TPP)への反対を呼びかける市民団体が市内の主要な広場で開催していた集会を訪れました。この集会の主催者は、日本では数少ない先住民コミュニティーのひとつ(アイヌ)に属しているイサマンという名の素晴らしい人物でした。そして広場には多くの市民が食事を携えて立ち寄り、情報交換を行っていました。また、同じ広場の片隅では、一人の若い音楽家が、日本から遠く離れたパキスタンに学校を建設するための寄付を求めて、ギターを演奏していました。
また名古屋では、日本のプロレタリア文学の代表的な作家である小林多喜二氏(1903年~33年)の著作に関する討論会に参加しました。聴衆は様々な背景を持つ30名ほどで、会場の玄関で靴を脱ぎ、赤いスリッパに履き替えて、元書店の店主が語る小林多喜二作品に関する議論に熱心に聞き入っていました。小林多喜二は幼少から文才に恵まれた人物でしたが、発表した作品が当時の政府当局に問題視されたため、後に(北海道開拓銀行職員の)職を追われたうえに、30歳の時に特高警察による拷問で死亡した人物です。最も有名な作品は、蟹工船で酷使される貧しい労働者の悲惨な生活と、仲間への思いやり、そして船主の残虐さを描いた「蟹工船」です。日本では、バブル崩壊後の若い世代における非正規雇用の増大と、働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景に、このジャンルの文学作品が見直されるようになっているようです。
現在、多くの日本人が、もっと人間を大事にする社会を希求し、パレスチナも含めた世界的な連帯を支持しています。私は名古屋と広島への訪問をとおして、このことを強く感じました。これまでの日本滞在中に、集会で、街頭で、電車で、或いはレストランで出会った様々な人々のことを振り返ったとき、いみじくもこれまで私が米国やパレスチナなど様々な国で出会ってきた人々のことが思い出されました。もし誰かがカメラを担いでさまざまな国を回り、この点に着目したドキュメンタリーを撮ったら素晴らしいだろうと思いました。もしそのようなドキュメンタリーを製作すれば、他国に住んでいる人とまるで双子のような人物がそれぞれの国に住んでいることがわかるでしょう。そしておそらくそのドキュメンタリー作品は、私たちを互いに近い存在にしてくれるでしょう。私はこのあとの、長崎、大阪、東京、京都を訪問する予定ですが、大変楽しみにしています。そして今回の日本訪問の成果とともに、依然として希望を失わないであらゆる困難に立ち向かっている祖国パレスチナに帰国するのを楽しみにしています。
以下に私が原爆投下から68年目を記念して8月6日に広島で行った講演内容を記します:
こんばんは、お招きいただきありがとうございます。また日本を訪問することができて、大変光栄に思います。
ここ広島では、私たちは戦争の悲惨さを最も痛感させられます。ここでは「よい戦争」というものはないのだという事実と、戦争に戦勝国も敗戦国もないという現実を改めて認識することができます。戦争は一般の人々に苦しみをもたらす一方で、富める者をさらに富ませます。つまり、戦争の勝者はカネであり、人々は常に敗者なのです。だからこそ、(第二次世界大戦において欧州連合軍最高司令官を務めた)ドワイト・アイゼンハワー大統領は、退任演説において軍産複合体による「正当な権限のない影響力(Power)」について警告したのでした。オリバー・ストーン監督が先ほどの講演で私たちに気づかせてくれた権力こそが、まさにこの点であり、米国の納税者が犯罪的なイラク戦争のためにさらに3兆ドルもの負債を抱えて苦しむ中で、焼け太りしてきたのが、他ならぬこの軍産複合体なのです。そして、広島と長崎に破壊的状況をもたらした理由について、そしてパレスチナの破滅(ナクバ)を作り出した理由について、公然と虚偽の発言をしたのが、他ならぬ、原爆投下を命じた同じトルーマン大統領だったのです。
戦争とは、かつて米海兵隊のスメドリー・バトラー将軍がいみじくも指摘した通り、貧乏人の犠牲の上に金持ちがさらにお金を生み出すための、ペテンに他ならないのです。だからこそ、人々が力を合わせて止めようとしない限り、戦争は続いて行くことになるのです。ベトナム戦争や南アフリカ共和国の例にあるように、私たち人民だけが戦争を止めることができます。私が最も希望を見出しているのが、まさにこの人民の力なのです。
私は、世界に1200万人いるパレスチナ人のひとりですが、その約3分の2が難民であり、残りは私たちの歴史的な土地の僅か8.3%に押し込められながら、暮らしていくことを余儀なくされています。こんなことがどうして起こってしまったのか、そして、どうすれはこの人民に対する戦争を止めさせることができるでしょうか?
パレスチナ人は、もともと西アジアの「肥沃な三ケ月地帯」に住む人々の総称でした。人類文明の鍵となる一里塚が、カナンと呼ばれるこの地に始まったのです。動植物を家畜化しはじめ、アルファベットを発明し、そして法律と宗教がこの地から発達しました。
この土地は、宗教と文化の発展という点においては、実に1万1千年以上の文明化の歴史を持っています。その間、パレスチナを何か1つのものにしてしまおうという様々な試みは、ことごとく失敗しました。つまり、パレスチナ人をすべてキリスト教徒やムスリムに変えようとしたり、ユダヤ人に変えようとした、結果的に長続きしなかった試みのことです。欧州の十字軍はこの好例といえるでしょう。しかし、パレスチナと呼ばれる土地の歴史の97%の部分は、多宗教的でかつ多文化な土地として、存続してきました。
しかし19世紀末から、パレスチナに「ユダヤ国家」を作るという、新たな「シオニズム」と呼ばれる政治思想が発展してきました。当時、パレスチナ人口のうちユダヤ人は3%にも足りませんでした。このシオニズムという植民地主義的な考え方は、西側諸国とくに英国が支援し、のちに米国が一層熱心に支援するようになりました。
冷酷に組織化されたプロジェクトとして、現地のパレスチナ人を民族浄化する事業が始まりました。そして無数の虐殺が起こり、530ものパレスチナの町や村が完全な破壊の憂き目に遭いました。このとき生じた難民化は、依然として、第二次大戦後世界最大の規模のものです。その意味で、私の祖母もひとりのヒバクシャなのです。
今日、700万のパレスチナ人が難民であり、同時に500万人のパレスチナ人が、依然として私たちの歴史的な土地の僅か8.3%に押し込められながら、現在も暮らしています。イスラエルという国家はパレスチナの破壊の上に打ち立てられました。例えば今のイスラエルには、土着のパレスチナ人を具体的に差別する55の法律があります。国際的な法定義によれば、それはアパルトヘイト(民族差別)国家であることの要件を満たしています。
それでいながらシオニストらは、他の全ての帝国主義国家がしてきたように、私たち犠牲者に対してテロリスト呼ばわりすることを演出しています。欧州の植民地主義国家は、こうしたことをアメリカ大陸やアフリカ、そしてアジアにおいても行ってきました。彼らは、自分たちは文明をもたらす開拓団と自認し、野蛮で劣った者たちから自分たちを守るのは当然だと言うのです。しかし、実際は、植民地化というもの自体がすでに暴力です。そして、侵略した人びとよりも10倍もの土着の人々が殺されてきています。
イスラエルという国家による占領と植民地化がどんなに残忍かについて話せば、いくらでも話は尽きることがないでしょう。人が住んでいる家を壊し、土地から人々を引きはがすやり方について、多くの殺人や拷問について、尽きることのない話があります。子どもたちの骨は兵士に折られてきました。そして学校には白リン弾が撃ち込まれました。この話にはイスラエルの核武装さえ続くこととなってしまいました。最近では、国際法に違反しているイスラエル人の入植地から、パレスチナ人の村に対して不法投棄されている有毒廃棄物が問題になっています。その他には、弁護士の面会やまして裁判官にすら一度も会ったことのない、何年も拘留されている政治犯たちの話もせねばなりません。また、平和的なデモに参加しただけで殺害された友人たちのことも話さねばなりませんし、私自身の家族の苦難の歴史についても話さねばなりません。しかし、これらすべてをお話しするには、今は時間がありません。
パレスチナ人はこうした過酷な攻撃に対して、過去100年もの間、抵抗してきました。パレスチナの抵抗は実に様々な形態をとりましたが、大半は非武装でした。平均約10年ごとの頻度で、これまで13回の大きな抵抗運動が起きています。ちなみに南アフリカはアパルトヘイトのもと、15回の抵抗運動がありました。
私たちパレスチナ人は、いつも革新的な方法で闘ってきました。例えば1929年にパレスチナの女性たちが120台の車を集めて、エルサレムの旧市街をデモ運転したことがありますが、これは人類史上初めて、車を使ったデモとなりました。私たちは植民地主義者のシオニズムを支持するのを止めるよう、オスマン帝国や大英帝国にロビー活動も行ってきました。また、納税拒否運動をはじめ、さまざまな形の市民的不服従の形を模索してきました。
また同時に国際的な連帯に支援を求めてきました。これによって今までに何万人もの海外支援者が私たちの闘いに加わりました。ISMと呼ばれる国際連帯運動もあります。また、南アフリカのアパルトヘイトに対する闘いのように、「ボイコット・投資撤収・制裁運動」(BDS)がありました。こうした幅広い連帯運動は本当に重要なものですから、ぜひとも参加を呼び掛けたいと思います。こうした運動を通して、私たちの目に政府の偽善が明らかになっていきます。表向きは民主主義や人権を謳う一方で、人種差別政策、専制政治、戦争などの、あらゆる形の人権侵害を支持する偽善政治のことが明らかになって行きます。
私たちは、地球という、この小さな青い惑星を共有しています。しかし同時に、イスラエルのような国が地球を破壊しかねない核兵器に時代に生きています。従って世界の出来事に対して無関心を装っている余裕はありません。かつてドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、「人類は歴史に学ばないということを、歴史から学んだ。」と言いましたが、この言葉は間違いだと、いつか言ってやらねばなりません。私たちは共通の歴史から学ぶことができるのです。そして現在インターネットのおかげで、私たちは、核兵器と戦争に反対する世界的な蜂起を開始しつつあるのです。人民の力が世界的な連帯を通じて最終的に実現された時、私たちは戦争との闘いに勝つだけではなく、貧困や気候変動、無気力、無関心のもたらす様々な問題にも打ち勝つことができるでしょう。これこそが、私たちが犠牲を払ってでも得る価値がある未来だと、思っています。
仏教には、「この世界の不幸に、喜んで参加しましょう」という言葉があります。この参加というのが重要な鍵に他なりません。それでは皆さん、この世界にある様々な不幸に、喜んで参加しようではありませんか。ご清聴、有難うございました。アリガトウ、サンキュー、シュクラン[アラビア語で「ありがとう」の意]、平和、サラーム[アラビア語で「平和」の意]。(原文へ)
翻訳=IPS Japan
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