【トロントIDN=ロジャー・ベイカー、チャン・ジヒン】
この10年間で、南シナ海は、東アジアでもっとも多くの紛争の火種を抱えた場所になってしまった。中国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれに南シナ海の一部あるいは全体への領有権を主張し、近年では軍事的な対立にまで発展してきた。
南シナ海には多くの島があり、天然・エネルギー資源も豊富で、世界の海運の3分の1が関わっている海域であることから戦略的価値はいずれの国にとっても明らかである。しかし、中国にとっては、南シナ海への権利を主張することは、たんなる実利の問題を超えて、海洋への歴史的な主張を行いながら、いかにして非対立的な外交政策を維持していくかという1980年に鄧小平最高指導者(当時)が打ち立てた従来の外交政策のジレンマの根幹に関わる問題なのである。
中国政府(当時は国民党政府)は国共内戦末期の1947年、南シナ海の諸島とその周辺海域に対する領有権を主張した。しかしその後数十年間は、近隣諸国が各々の独立運動に専念せざるを得なかった状況にあったことから、中国は自らの主張を擁護する努力をほとんどする必要がなかった。ところが、こうした国々も、今日では海軍を増強し、(南シナ海への領有権主張を含む)新たな外交関係の模索や、領海内資源の開発と哨戒警備に積極的に取り組む動きを見せている。一方、中国国内では、領土問題について如何なる譲歩も許さないとする国民感情が渦巻いていることから、鄧小平以来の静かな外交政策は現実的なオプションではなくなってきている。
中国の海洋理論の進化
中国は広大な大陸勢力であるが、一時期は日本海からトンキン湾に至る沿岸を支配するなど(18世紀の清)、長大な海岸線を領有している。にもかかわらず中国の関心は、伝統的に大陸内部に向けられたものであった。一方、中国が海洋に目を向けたのは極めて限られた時期(例:元時代の時代の日本、インドネシア遠征、鄭和が活躍した明の永楽帝時代等)で、しかも内陸の国境が比較的安定していることが前提だった。
伝統的にみて、中国に対する脅威は、海からではなく内陸からのものが中心であった。つまり時々現れる海賊よりも、北方や西方から中国への侵入を繰り返す遊牧民族との戦いが主だった。
また外国との貿易は、大半が内陸を通じたものか、限られた港を拠点とするアラブ人や外国籍の商人の手によるものだった。したがって、中国の外交的関心事は、一般的に陸上部の国境を維持することにあったと言ってよい。
「9点破線」(中国語では「九段線」)を解釈する
今日における中国の領海に対する主張の論理と近隣諸国との領土紛争を理解するためには、まず最初に、いわゆる「9点破線」と言われる南シナ海に中国の管轄権が及ぶ領域としておおまかに引かれた境界線(形状から別名「牛の舌」ともいわれ、南沙・西沙両諸島がすっぽりその中に入る)について理解する必要がある。
中国は、国民党政権時代の1947年に、南シナ海の領域画定に関して「11点破線」(eleven-dash line)という考え方を打ち出した。しかし、当時の中国の関心事は共産党勢力との内戦にあり、これはあまりよく練られた戦略ではなかった。
敗戦で日本が中国大陸から撤退した後、国民党政府は、海軍士官と測量チームを南シナ海の島々に派遣し、翌年内務省から南シナ海全域を囲う点線(=「11点破線」)の内側は中国の管轄海域であると主張した地図(「中華民国行政区域図」)を発行した。
「中華民国行政区域図」は、詳細な座標を欠いた代物だったにも関わらず、中国が領有権を主張する際の根拠とされた。そして1949年に(国民党政府を台湾に追いやって中国本土を統一した)中華人民共和国が誕生すると、共産党新政権は正式にこの図を採択した。1953年には、おそらくベトナムとの紛争を緩和するために、破線を2つ減らして今日に続く「9点破線」が提唱されるようになった。
中国のこの主張に対して、当時、近隣諸国からほとんど異が唱えられなかった。当時東南アジア各国にとって自国の国家独立を達成することが最優先課題だったからである。中国政府は、これを近隣諸国及び国際社会による黙認と解釈する一方で、あえて問題視されることを避けるため、この問題を自ら積極的に取りあげることをしなかった。中国政府は、「9点破線」そのものを中国の不可侵の領土として正式に宣言することを避けてきたが、「9点破線」を自国の領海を示す歴史的基礎に置いている。一方、国際社会はこの中国の主張を認めていない。
南シナ海への領有権を主張しているベトナム、フィリピンといった近隣諸国と同様に、中国の長期的な目標は、拡大・近代化が進む海軍力を駆使して、南シナ海の諸島や小島を実質的に支配下に置き、戦略拠点の確保と天然資源開発を行うことである。中国の軍事力が依然として脆弱だったころは、中国政府は主権問題を一旦棚上げし、紛争当事国に対して共同開発を提案することで、領海を巡る紛争を回避しつつ、中国海軍の準備が整うまでの時間稼ぎをするという戦略を支持していた。
また中国政府は、南シナ海の領有権を主張する東南アジアの国々が連携して対峙してくる事態、つまり多国間協議の枠組みでは、「9点破線」の主張が敗れるのではないかとの恐れを抱いていることから、領土交渉の主導権を握り続けられる二国間交渉にこだわってきた。
「9点破線」は法的根拠が乏しく、常に近隣諸国との紛争の火種となってしまったにもかかわらず、中国政府は今さらこの主張を取り下げられなくなってしまっている。それは、南シナ海の領有問題に対する国際社会の注目が集まり、近隣諸国との競争が激しくなっているなか、「9点破線」内を自国の領海と考えている中国の一般国民も、政府に対してより積極的な対応をとるよう圧力をかけるようになってしまったからである。
その結果、中国政府は、領海に対する主張を受入れさせようと共同開発を持ちかければ相手国の反発を買い、かといって、相手国との関係に配慮して領海に対する主張を控えれば国内世論の反発を買う(とりわけ中国の漁民は、しばしば独自の判断で係争中の領海に侵入し、政府は止む無くそうした行動を支持せざるを得ない状況が作り出されている)という極めて困難な立場に置かれている。すなわち、国内政治を優先すれば、近隣諸国との外交関係が悪化し、外交関係を優先すれば、国内からの激しい反発を予想しなければならないというジレンマに陥っているのである。
開発途上にある中国の海洋戦略
「9点破線」に伴う複雑な諸問題、中国の国内政治状況、変動する国際システムの全てが発展途上にある中国の海洋戦略の形成に影響を及ぼしている。
毛沢東国家主席の時代、中国の関心は国内に向けられており、海軍はまだ弱く、いずれにしても海洋進出の足枷となっていた。この時期、自国の領海に対する中国の主張は曖昧なもので、積極的に権利を主張する行動をとらなかった。またこの時期は近隣諸国が独立闘争に気を取られていたことから、中国はあえて自国の権益を強く主張する必要に迫られることはなかった。従って、この時期の海軍戦略は沿岸部を外国の侵略から保護するという防衛的なものであった。一方、1970年代末から80年代初頭にかけての鄧小平が最高指導者をつとめた時代には、国内経済改革の動きに合わせて海洋戦略もより現実的なものへと変化した。この時期、中国政府は領土問題をあえて棚上げにしつつ、東シナ海・南シナ海の共同経済開発を模索した。そのため、この時期の軍事支出は、引き続き陸軍とミサイル部隊の拡充に重点がおかれ、海軍の役割はおおむね中国の沿岸海域の防衛に限定されていた。
この鄧小平による戦略は、その後20年に亘って中国の海洋戦略の基調を形成することとなった。この間、南シナ海では、近隣諸国との紛争が散発的に起きたが、一般的にこの時期の中国政府の方針は、あからさまな衝突は回避するというものだった。またこの時期、中国海軍は、南シナ海で支配的な役割を果たしている米海軍に対抗できる立場にはなく、また、近隣諸国に対抗して領海権を強く主張できる状況にもなかった。この時期、中国政府は軍事力よりはむしろ政治・経済的な手段を講じて、地域における影響力の拡大を目指していた。
しかし、南シナ海の海底資源を係争国と共同で開発するとした試みは、概ね失敗に終わった。この時期、中国は高い経済成長を背景に、軍事費、とりわけ海軍力の強化に力が入れられるようになったため、以前のような沈黙の政策を続けることが難しくなってきた。また近隣諸国も、こうした中国の方針転換に危機感を募らせ、その多くが、米国に対して、中国の台頭に対抗する形で南シナ海における役割を一層活発化するよう求めるようになった。
中国による「9点破線」と領海に関する主張を巡る問題は、各国が国連海洋法条約の規定に従って領海に関する主張を報告する必要に迫られたことから、国際社会の注目を集めることとなり、領海を巡る中国と近隣諸国の論争に国際社会の調停が入る可能性が高まった。中国は、南シナ海から見込まれる権益を期待して同条約の締結国となっていたが、条約の発効にともない、東シナ海の領有権を主張する近隣各国の相次ぐ訴えに対抗して、多数の反論と余儀なくされることとなった。こうした中国の反応は、近隣諸国に中国がアジアにおけるヘゲモニーを露骨に志向していると映り、警戒感を強めさせる結果となった。
こうした中国の動きを問題視しているのは南シナ海の領有権を主張している東南アジア諸国だけではない。日本と韓国はエネルギーの補給経路として南シナ海に大きく依存している。また米国、オーストラリア、インドといった国々も、貿易及び軍の通過海域として、南シナ海の戦略的な重要性を認識している。これらの国々は、中国の動きを、南シナ海への自由なアクセスを覆そうとする潜在的な前触れではないかと懸念を深めた。これに対して中国は、外交上の問題解決における軍の役割を高めるとともに、次第に強硬な発言で反応するようになった。
外交政策を巡る議論
鄧小平は1980年、中国の外交政策の輪郭について、「まず世界情勢を観察し、中国の位置づけを確保、外交問題には静かに対処し、決して自らの能力を見せず、チャンスの到来を待つ、そして腰を低くして、決して地域のリーダーの地位を狙ってはならない」と語った。こうした基本理念は、中国政府が行動を起こす際のガイドライン或いは行動を起こさない場合の言い訳として、中国外交政策の根幹を占めてきた。しかし、中国を取り巻くアジア情勢及び国内状況は、鄧小平が改革に着手した頃とは大きく変貌を遂げており、大幅な伸びを見せている中国経済及び軍事力の現状は、もはら彼が「能力を隠し、チャンスの到来を待つべき」とした発展段階を既に超えていることを物語っている。
中国政府は、より積極的な政策を通じてのみ、従来の大陸勢力から海洋国家へと変貌を遂げることが可能であり、そうして初めて、南シナ海全域を自国の安全保障に有利な形で再編成できると理解している。もしそれができなければ、域内の他の国々やその同盟国、とりわけ米国が中国の野望を封じ込めるか、或いは脅かすことになるだろう。
鄧小平の政策のうち、少なくとも4つの点が現在再検討中、或いは変更を加えられている。すなわち、①不干渉政策から創造的関与への変容、②二国間外交から多国間外交への変容、③対応型外交から予防型外交への変容、④厳格な非同盟政策から準同盟政策への変容、である。
創造的関与とは、他国の内政に積極的に関与することで海外における中国の権益保全に取り組む方法の一つとされており、従来の不干渉政策からより柔軟な外交への転換を意味するものである。中国は過去においても、資金その他の手段を活用して他国の内政に干渉したことはあるが、政府の正式な方針転換を受けて、今後海外の現地状況に一層関与を深めていくことになるだろう。
しかしそうすれば、「中国は、欧米帝国主義の覇権を目の当たりにして、同じ途上国として助けの手を差し伸べているにすぎない」と従来から主張してきた自らのイメージを台無しにすることになりかねない。中国は、政治変革を開発・技術援助の条件にする欧米諸国とは対照的に「援助はするが内政に干渉しない」と約束して、途上国との友好関係を拡大してきた。ところが中国の方針転換が知られるようになれば、欧米に対して有利に進めてきたとされる途上国との関係にも陰りがでてくることになるだろう。
中国は、長年に亘って、自国の権益が関わる国際上の問題を解決する手段として、関係当事国との二国間協議を優先してきた。また、多国間協議の枠組みに参加した場合でも、国連安保理における行動実績が示しているように(拒否権を行使して制裁決議を頓挫させても、積極的に代替案を示すことはほとんどなかった)、議論をリードするというよりは、足を引っ張る存在であった。とりわけ1990年代を通じて、中国は、自国の比較的弱い立場を考えれば、多国間協議からほとんど得られるものはなく、むしろ他の強豪国の影響下に組み込まれるのではないかと恐れていた。しかし中国経済がその後目覚ましい躍進を遂げたことにより、こうした状況は一変することとなった。
中国は、今日では自国の権益確保の手段として、二国間外交よりもむしろ多国間外交を推進するようになっている。東南アジア諸国連合(ASEAN)や上海協力機構、日中韓サミットへの参加は、いずれも積極的に多国間協議の枠組みを活用することで当該ブロックの政策の方向性に影響を行使していこうとする中国の意志の表れである。また中国には、多国間協調路線にシフトすることで、小国に対する安心感を与え、他国が米国との同盟に走ることを防ぐ狙いがある。
中国は、どちらかと言えば対応型の外交方針を伝統的に採用してきたため、問題が表面化する前に危機を察知したり、予防策を講じる機会を逸することが少なくなかった。天然資源へのアクセス確保に努力してきた地域でも、現地の情勢変化に不意を突かれ、応答戦略も準備できていなかったというケースもあった(スーダンと南スーダンの分裂はそうした最近事例の一つである)。中国は現在、従来の対応型外交から、紛争に発展する可能性がある潜在勢力や争点をより良く理解し、単独或いは国際社会と協力して一触即発の状況を緩和するような、予防型外交へとシフトする可能性について議論している。そのような外交方針の変化が南シナ海に及ぼす影響について言えば、中国は、従来の曖昧な「9点破線」理論よりもむしろ南シナ海における領海に対する主張を明確にしてくるだろう。また、中国が積極的にリーダーシップを発揮できるようなアジア安全保障メカニズムを構築するという構想を、これまで以上に積極的に推し進めるだろう。
中国の同盟政策に関する立場は、特定の国を標的にした同盟に参画しないとした1980年代に鄧小平が提案した政策を踏襲したものである。この非同盟政策は、中国に独立した外交政策姿勢を保持させるとともに、同盟関係に引きずられて国際紛争に巻き込まれるリスクを回避するためのものであった。中国には朝鮮戦争に参戦したことで台湾奪回計画が頓挫し、米国との関係も数十年に亘って後退した苦い経験がある。しかし、冷戦構造が崩壊し、中国の経済・軍事的な影響力が拡大を続ける中、従来の厳格な非同盟政策に対しても、改めて見直しが議論されている。中国政府は、北大西洋条約機構(NATO)が東へ拡大する様子や、米国がアジア・太平洋地域において軍事同盟を強化する動きを、慎重に観察してきた。
このまま非同盟政策を堅持していたのでは、中国はこうした軍事同盟グループと、一国で対峙する事態になりかねず、そうなった場合、中国には現在の軍事・経済力で有効に対処する術がない。そこで中国政府は、この弱点を補いながらも、他国への依存を回避する方策として、準同盟政策への変容を模索している。具体的には、中国が(明らかなライバル関係にある国々とも)戦略的パートナーシップの構築を積極的に進めたり、中国軍が他国との軍事交流を積極的に進めつつあるのは、この新戦略に沿ったものである。この新方針は、米国に対抗する同盟を作り上げるというよりも、米国の同盟諸国への接近を図ることで、対中同盟を米国に作らせないことが主眼である。中国政府は、この海洋戦略に基づいて、インド、日本、韓国の海軍とともに海賊対策作戦に従事しているほか、海軍間の交流や共同演習の実施も提案している。
将来を展望して
中国は大きな変革期を迎えている。経済大国となった今、中国は伝統的な外交政策の見直しを余儀なくされている。南シナ海の問題は、中国本土に最も近い位置にあるために、中国の幅広い外交政策を巡る諸議論の縮図ともなっている。中国の領有権に関する主張が曖昧だった点は、南シナ海が静かだった頃には有効に作用した。しかし、この点は今となっては中国のニーズに応えていない。むしろ中国が海洋権益と海軍の活動を拡大させる中、地域の緊張関係は悪化している。全ての交渉を中国との2国間交渉に限定しようと試みたり、傍観主義的なアプローチをとるといった古い政策ツールは、もはや中国のニーズに応えていない。鄧小平から受け継いだ、南シナ海の係争国に共同開発を呼びかける政策は、殆ど成果を挙げることができなかった。また、国連海洋法条約に関連して各国が領海に対する主張を報告する中で、中国が「9点破線」内の領海への権利を改めて表明したことは、国内の愛国主義に火をつけると同時に、近隣諸国による対抗手段を誘発することとなった。
海洋戦略に関して明確さに欠けているもかかわらず、中国は「9点破線」に基づいて従来の主張をさらに強化する意思を示した。中国は外交政策転換の必要性を認識しているが、こうした外交政策の変容は大きな矛盾もはらんでいる。領有権を強く主張しすぎれば他国を刺激することになり、逆に軟弱化すれば国内世論が黙っていない。しかし、いずれにせよ変化はすでに始まっており、そのことは、中国の海洋戦略や世界における地位に影響を与えずにはおれないだろう。(原文へ)
翻訳=IPS Japan