ニュース|チリ|ピノチェト元大統領、裁かれることなく91歳で死亡

|チリ|ピノチェト元大統領、裁かれることなく91歳で死亡

【サンティアゴIPS=グスタヴォ・ゴンザレス】

チリの元独裁者アウグスト・ピノチェトは、日曜午後、サンティアゴで91歳の生涯を閉じた。20世紀チリを象徴する人物の一人として記憶されることになるが、その足跡に刻まれたのは、かつて自らが望んだ政治家としての栄誉ではなく、人権犯罪と汚職によって深く傷ついた負の遺産である。

ピノチェトは死去する時点で、4件の人権侵害事件と、2件の不正蓄財・汚職事件で訴追を受けていた。12月3日、心臓発作により陸軍病院に搬送されたが、そこは2000年以降、物議を醸した「認知症」診断を盾に訴追を逃れてきた、いわば最後の避難所でもあった。

狡猾、追従的、そして抜け目がない――。1973年9月11日のクーデター以降、選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を打倒した陸軍司令官を形容する言葉として、そうした表現がしばしば用いられてきた。

1915年11月25日、サンティアゴの西約120キロにある港湾都市バルパライソに生まれたピノチェトは、およそ17年にわたって鉄の支配を敷き、四半世紀にわたり陸軍トップの座にあった。南米チリで最も長く権力を握った指導者であり、自らの言葉では、社会主義者アジェンデ大統領を打倒したのは「祖国を共産主義から救う」ためであった。

ピノチェトはまた、ラテンアメリカにおける「ネオリベラル」な自由市場経済モデル導入の先駆けでもあった。その一方で、福祉国家としてのチリを大きく後退させ、労働組合や左派政党を非合法化したうえで、公営企業を不当に安い価格で民間に払い下げた。こうした政策は、強権的な統治なしには実行不可能だった。1973年から1990年までの独裁統治のもとで、約3000人が殺害または失踪し、少なくとも3万5000人が拷問を受けた。

彼が敬愛していたのは、スペインの独裁者フランシスコ・フランコ将軍だった。1975年、フランコの葬儀で祈りを捧げた唯一のラテンアメリカの指導者がピノチェトであり、それは数少ない外遊の一つでもあった。

フランコと同様に、ピノチェトには救世主的な自己認識があった。とりわけ1986年9月、サンティアゴ近郊で左派ゲリラ組織「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」による暗殺未遂事件を生き延びた後は、しばしば聖母マリアの加護に言及した。この襲撃では護衛5人が死亡し、11人が負傷した。

在任中には、ほかにも3度の暗殺未遂を生き延びたとされるが、これらの説はいずれも十分に裏づけられていない。ただ、軍内部で決して傑出した将校とは見なされていなかった人物が権力の頂点にまで上り詰めた背景には、そうした幸運も作用していたとみられている。

1973年8月23日、左派連立「人民連合」政権と、右派政党およびキリスト教民主党による反対派陣営の対立で国論が二分されるなか、アジェンデは憲法主義者として知られた当時の陸軍司令官カルロス・プラッツ将軍の辞任を受け入れざるを得なくなった。後任に任命されたのが、副司令官だったピノチェトである。人事の序列を尊重したことに加え、アジェンデは、この寡黙で黒眼鏡をかけた将校を、鋭利さには欠けるが法に忠実な人物だと、ある意味で無邪気に信じていた。

ピノチェトは1980年に出版した『決定の日』の中で、自らがクーデターを計画したと主張している。だが後の複数の検証では、実際には、空軍のグスタボ・リー将軍と海軍のホセ・トリビオ・メリノ提督が練っていた計画に、最後の段階で加わったにすぎないことが明らかになっている。とはいえ、軍の中で最も強い影響力を持つ陸軍の長として、彼は軍事評議会のトップに立ち、その後、この評議会を自らの権力を支える「立法機関」に格下げし、1980年9月の国民投票で承認させた憲法の下で自ら大統領の座に就いた。

権力掌握後、ピノチェトは無条件に忠誠を誓う将校たちを周囲に集め、自らに異を唱えたり、自分より目立つ可能性のある将軍たちを次々と退役に追い込んだ。なかには物理的に排除された者もいた。例えば、前任のプラッツ将軍は1974年にブエノスアイレスで暗殺され、オスカル・ボニージャ将軍は1975年、謎の飛行機事故で死亡した。

アジェンデ政権で食料供給を担当していた空軍将校アルベルト・バチェレ将軍は拷問の末に死亡し、その妻と娘――現在の大統領ミシェル・バチェレ――は、約80万人のチリ人とともに亡命を余儀なくされた。

事実上の軍政初期において、ピノチェトの右腕だったのがマヌエル・コントレラス大佐である。彼は秘密警察DINA(国家情報局)の長官に任命され、独裁政権下で起きた1119件の強制失踪と1800件の反体制派殺害の相当部分に責任があるとされている。コントレラスはその後、人権侵害で服役したが、ピノチェト自身は最後まで自らの責任を認めなかった。2004年に陸軍司令官フアン・エミリオ・チェイレが被害者に謝罪したのとは対照的である。

コントレラスは、ピノチェトが人権侵害の責任を背負わされた側近たちに不誠実だったと非難した。これに対し、ピノチェトが踏み込んだのは、91歳の誕生日に妻ルシアが代読した短い声明で、「自らの政権下で起きたことに対して全面的な政治責任を負う」と表明したことがある程度だった。だがその一方で彼は、なお自らを殉難者のように描き、「自分と家族に降りかかった屈辱、迫害、不正義のすべてを、チリ人の間にあるべき調和と平和のために喜んで捧げる」と述べた。さらに、自らの統治下でなされたことは「チリをより偉大な国にし、その解体を防ぐ」以外に目的はなかったとも主張した。そこには、自分がラテンアメリカでマルクス主義に最初の大きな敗北を与えたという長年の自己認識と、それを西側民主主義諸国が評価しなかったことへの不満がにじんでいた。

フランコと同じく、ピノチェトは独裁初期には国際社会からの全面的な拒絶を免れた。その背景には、民間人の経済顧問らを周囲に配し、自由市場改革を進めながら、年金、医療、教育の民営化を断行し、軍によって保護された権威主義的民主主義のための憲法的枠組みを整えたことがある。こうして築かれた制度はきわめて強固で、1988年10月5日の国民投票で敗北し、1990年に大統領職を退いた後も、1998年3月10日まで陸軍司令官の地位にとどまり、その翌日には終身上院議員に就任した。

こうした制度的な防壁と、高齢となってなお続いた軍内での影響力は、チリの民主化移行を大きく妨げた。独裁政権の犯罪、とりわけピノチェト自身の責任は、及び腰の司法、慎重すぎる行政府、そして右派連合が本格的改革を阻んだ立法府によって、事実上の不処罰に守られてきた。

しかし、元独裁者の全能のイメージが崩れ始めたのは、1998年10月16日、腰の手術後の療養中だったロンドンで逮捕された時だった。逮捕状を出したのは、彼を人道に対する罪で裁こうとしたスペインの判事バルタサル・ガルソンである。ピノチェトはロンドンで503日間の自宅軟禁下に置かれたが、英首相トニー・ブレア政権は「人道的配慮」を理由に健康問題を根拠として釈放し、彼は2000年3月3日に帰国した。その時点でチリでは、1998年1月以降、左派政党、被害者家族、労組などによって相次いで訴訟が起こされていた。

2001年には、精神的に公判に耐えられないとの理由で再び訴追を免れたが、その後も被害者側の粘り強い追及、新たに動き始めた司法、そして軍関係者自身が反体制派の殺害や強制失踪を認め始めたことによって、訴追は継続された。政治右派もまた、1990年以降政権を担ってきた中道左派「民主政党連合」に対抗できる新たなイメージを模索する中で、徐々にピノチェトとの距離を取り始めた。

2000年以降、ピノチェトはチリの元大統領に与えられる免責特権を何度も剥奪されたが、そのたびに認知症を理由に裁判能力なしと判断された。とはいえ、訴追の火が消えたわけではない。2004年8月には、「コンドル作戦」に関連する犯罪で起訴され、チリ国内にとどまらず他国で行われた人権侵害についても責任を問われることになった。コンドル作戦は、1975年に、ピノチェトから直接命令を受けていたコントレラスが立ち上げたもので、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイの独裁政権が、左派活動家、労組指導者、反体制派の拉致、拘禁、拷問、殺害を相互に調整して進めた秘密作戦である。

人権事件の審理が進む一方で、2004年末には、米議会の委員会が、ワシントンのリッグス銀行やその他の金融機関に、ピノチェトとその家族名義の秘密口座が存在していたと報告した。その総額は約4000万ドルに達するとみられた。これを受け、2005年10月19日、最高裁は、脱税、偽造旅券の使用、虚偽宣誓、資産隠しの疑いに関する事件で、下級審による免責剥奪決定を支持した。同年12月30日には、公金横領でも控訴裁判所により正式に訴追された。さらにその2日前には、コンドル作戦の一環として行われた「コロンボ作戦」事件での自宅軟禁から保釈されるため、4万6000ドルの保釈金を支払っている。だが今年に入ってからも、サンティアゴ郊外の邸宅で、別の人権事件により再び自宅軟禁下に置かれた。

ピノチェトに対する最後の起訴は、誕生日の3日後にあたる11月28日、ビクトル・モンティリオ判事によって行われた。対象となったのは、1973年10月、「死のキャラバン」と呼ばれる特別軍事部隊が、チリ北部および南部で拘束していた左派政治指導者たちを即決処刑した事件である。

ピノチェトは繰り返し、「認知症」を理由に法の裁きを逃れてきた。だが、本人が公の場で見せた明晰な発言の数々は、それが単なる口実にすぎなかったことをむしろ物語っていた。そして結局、彼は一度も法廷で有罪判決を受けることなく、家族に囲まれ、最良の医療を受けながら病床で死去した。そのような最期は、独裁政権の犠牲となった人々には与えられなかったものであり、今も遺族たちは正義の実現を求め続けている。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 

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