【ニューヨークIDN=リサ・ヴィヴェス】
アフリカのチェ・ゲバラと呼ばれたトマ・サンカラの殺害を巡っては、未だに全容が解明されていない。しかし、正義が否定されるようなことってはならない。
35年前の1987年、革命の象徴であり、西アフリカのブルキナファソの若き大統領であったサンカラは、その人気の絶頂期に射殺された。
長年、彼の友人であり同僚であったブレーズ・コンパオレが殺害を仕組んだと疑われていたが、調査は許されず、サンカラは自然死であるというフィクションが流布されることになった。
人権団体や犠牲者の家族は、そうではないと主張している。その後コンパオレは27年間にわたってブルキナファソに君臨したが、任期延長を狙った憲法改正案に反発した民衆の蜂起により2014年に失脚し、隣国コートジボワールに亡命したため、本格的な捜査が開始される可能性が出てきたのである。
昨年10月に始まったコンパオレの裁判は、ブルキナファソが1月起きた最新の軍事クーデターから立ち直ろうとする中で開かれた。経済の停滞、貧困の定着、執拗な襲撃を繰り返すイスラム過激派対策の不備に対する国民の怒りによってもたらされたものだ。
トマ・サンカラを覚えている多くの人々にとって、サンカラは熱烈なマルクス・レーニン主義者であり、帝国主義や植民地主義に反対する力強い声であった。アフリカ諸国に対して債務返済を拒否するよう呼びかけ始めたときなど、現状維持に利害関係を持つ国際社会は、サンカラの急進主義を快く思ってはいなかった。
サンカラ暗殺の真相を巡っては、彼を危険人物とみなしていた旧宗主国フランスをはじめ、コートジボワール、リベリア、リビア等、外国が関与したとする憶測がある。
「サンカラは、内閣の要請でルノー5(最も安価な大衆車)に買い換えるまでは、自転車で通勤していた。また、レンガ造りの小さな家に住み、国産の綿で織られた服だけを身に着けていました。」とナイジェリア出身のポーラ・アクギジブエは回想する。
ブルキナファソが位置するサヘル地域では男尊女卑の風潮が根強く、農村地域では女性器切除(FGM)が一般化していたが、サンカラは、一夫多妻婚や強制結婚と共にFGMを禁止した。また自らの政権に初めて女性の閣僚を登用し、政府の要職に次々と女性を就任させるなど、女性の地位向上に努めた。
とりわけ重視されたのが教育だった。サンカラの任期中、識字率は1983年の13%から87年には73%に上昇した。また、サヘル地域で最も深刻な感染症である脳髄膜炎、ポリオ、麻疹などの予防接種を90%の子供に実施し、世界保健機関(WHO)から称賛された。
また特権的な地主から土地を強制収用し、農地を小作農に再分配したうえで、農業技術の改良に予算を集中投下し、灌漑のための小規模ダムの建設や井戸の掘削などを進めた結果、ブルキナファソの1ha当たりの穀物収穫量は3年間で飛躍的に拡大した。これは、生産性の低さゆえに飢餓が慢性化しているサヘル地域としては、当時驚くべき成果であった。
もし有罪になれば、コンパオレはブルキナファソに戻った場合、30年の懲役刑に服することになる。しかし、たとえコンパオレの裁判が無罪、あるいは可能性が低いものの訴えの却下という結果に終わったとしても、軍民を問わず人権侵害者に対し、この地域(西アフリカ)ではもはやこれまでのようにはいかないというメッセージを送ることになるのだろう。(原文へ)FBポスト
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