【ニューヨークIDN=リサ・ヴィヴェス】
ルワンダの元政府高官が、80万人にのぼったツチ族と穏健派フツ族の死と関連して、同国の大量虐殺に加担した罪で有罪判決を受けたが、この恐ろしい犯罪が発生してからすでに28年が経過している。
ローラン・ブチバルタ(78歳)は、100日間にわたって行われた1994年の大虐殺に関して、これまでフランスで裁判を受けたルワンダ人の中で最も高い地位にある人物だ。
フランスは、虐殺後にフランス国内に避難したルワンダ人加害容疑者に対して行動するよう、長い間国際社会から圧力にさらされてきた。
大量虐殺当時、フランス政府は政権を担っていたフツ族の政権を長年にわたって支援しており、そのためにツチ族主体のルワンダ政府とフランスの間には数十年にわたる緊張関係が生じていた。
大量虐殺の発端となったフツ族の大統領ジュベナール・ハビャリマナの飛行機を撃墜した事件に関するフランスの別の調査は、今年初めに終了した。
南部ギコンゴロ県の元知事に対する審理の焦点は、ブチバルタ被告が命じたり出席したとされるいくつかの「安全保障(セキュリティー)」会議についてで、検察はそれらが大量殺害を計画した会議であると主張した。とりわけ、ブチバルタ被告は、数千人のフツ族の人々に対して食料、水、保護を約束すると欺いて、ムランビ技術学校に避難するよう説得したことで告発された。
その数日後の4月21日未明、それまで学校を守っていたフランス軍が突然去り、残された65,000人のツチ族の人々は、銃や手榴弾で武装したフツ政権の軍や民兵、さらにはマチェット(山刀)を振って乗り込んできたフツ族の民衆によって襲撃され、未明から昼前までの間に約4.5万人から5万人が犠牲になった、ルワンダ大虐殺の中でも最も血生臭いエピソードの1つとして知られている場所だ。
裁判所は、1994年5月7日にキベホのマリー・メルシー校で約90人のツチ族の生徒が虐殺された事件と、ギコンゴロ刑務所でのツチ族囚人(3人の司祭を含む)の処刑についても、ブチバルタ被告の責任を検証した。
ブチバルタ被告は公判で、殺害への関与を否定し、「私は決して殺人者の側にはいなかった。当時、自分には勇気がなかったのだろうか、助けられたのだろうかといった疑問と後悔に28年間苛まれている。」と主張した。
ブチバルタ被告弁護団は、裁判所が「勇気ある決断」を下し、彼を無罪にするよう求めた。
この裁判では、ルワンダからの生存者を含む100人以上の証人が、直接またはビデオ会議を通じて証言した。
ブチバルタ被告は、1997年以来、無数の健康上の問題を抱えながらフランスに滞在している。裁判の間、彼は治療を受けるために自宅軟禁が許可された。
ルワンダのポール・カガメ政権が委託した報告書は、フランスが1994年4月と5月の虐殺を「止めるために何もしなかった」と主張し、虐殺後の数年間はその役割を隠蔽しようとし、一部の加害者に保護さえ提供したと断定している。
またこの報告書は、フランスの責任について、「ルワンダでの大量虐殺を可能にした『重大な責任がある』にもかかわらず、未だに1994年に起きた恐怖の事件における自らの真の役割を認めようとしない。」と結論付けている。
さらにこの報告書の著者らは、「フランス政府は、予見可能な大量虐殺に対して盲目でも無意識でもなかった」と強調し、フランス当局が大量虐殺の準備に対して「盲目」であり、その後あまりにも反応が遅かったと結論付けたエマニュエル・マクロン大統領による以前の報告書の結論に異論を唱えている。(原文へ)
INPS Japan
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