【ナルン(キルギス)IDN=バギムダート・アタバエワ】
トゥルガンベイ・アブドゥルバキドフ君は、アフガニスタンからキルギスのナルン地域に2年前に移住した16歳の少年である。家族はパミール高原で牛を育て生計を立てていた。電気もまともな医療や教育機関も頑丈な家もなく、文字通りタジク語でパミール(=世界の屋根」)に住むこれらの人々は、アフガニスタンからタジキスタン、キルギスにまたがる事実上の無主の土地に暮らしている。
「僕の家族は遊牧生活をしてきました。」と言うトゥルガンベイ君にとって、最近ナルンに移ってきたのは正解だった。「いつも勉強したかった。それがキルギスで新たな生活をしたいと思った一番の動機でした。」と、トゥルガンベイ君はIDNの取材に対して語った。
トゥルガンベイ君は地元の「専門および継続教育学校」(SPCE)の「アクセス・プログラム」への入学を許された。このプログラムは、社会的に脆弱な立場にある子供を支援することを目的としている。アメリカ評議会から資金援助を受けているため、学費は必要ない。トゥルガンベイ君が編入したプログラムは、英語、IT、地域サービスの3つの科目で構成されている。生徒らはまた、文化的イベントにも積極的に参加し、ボランティア活動を組織化するよう推奨される。
トゥルガンベイ君は、2018年11月にこのプログラムに加わった。自身の年齢から言えば9年生相当になるのだが、6年生に編入することになった。担当教諭の一人であるザリーナ・ティナイベコワさんは、「彼に対する強い先入観はありませんでした。」と指摘したうえで、「(寄宿学校の教員の)誰もが、彼がプログラムについていけるように見守りと支援が必要だと理解していました。私達は教育省から特別な指示を受けて教材を調整し、1年間で彼が2つのクラスを終われるか様子をみたところ、驚くことにやってのけたのです。彼は大変な努力家です。」と語った。
トゥルガンベイ君はその年を首席で終えた。SPCEの英語教師アイヌラ・アラカエワさんは、「彼は私のグループで一番活発な生徒の一人でした。」と語った。他の生徒との違いを聞かれると、アラカエワさんは、好奇心と人懐っこさを挙げた。「技術を早く習得するので驚いています。コンピューターの作業やビデオ製作が好きで、既に写真やビデオを編集するスキルを身につけました。好奇心と向上心の賜物だと思います。」と語った。
トゥルガンベイ君の話は、紛争が燻るこの地域に暮らすミレニアム世代の多くにとって、珍しい話ではないかもしれない。しかし、変化にひるむことのなかった彼の経験から学ぶことはあるかもしれない。
この地域を移動してきた人々の歴史は、キルギス民族が16世紀にパミール高原北部に移動し始めた数世紀前に遡れるだろう。そしてキルギス人の第2波は1920年代から30年代にかけてこの地に移住してきた。彼らはソ連がキルギスを支配してから行われるようになった家畜の強制徴発を逃れてきた人々だった。
英国領インドとロシア領中央アジアとの間の緩衝地帯としてワハーン峡谷がアフガニスタンに与えられてから、政治的境界がパミール高原のキルギス人を2つの大きな集団に分断してしまった。それらは、現在のタジキスタンに住む6万5000人以上の大集団、それに、ソ連が干渉しなかったアフガニスタンに住む2000人という小集団であった。
昨年10月17日の深夜、ナルンの自治体と地元住民らが街のメイン広場に集まった。彼らは、アフガニスタン出身の6家族を新たな家庭に受け入れた。地元メディアが彼らの窮状について報道し、自治体が家屋を提供すると約束した。しかし、約束はすぐには果たされなかった。公共住宅の提供が微妙な問題になってくるにつれ、人々は、アフガニスタンとの責任の分担、適切な書類の必要性、文化的同質性と差異をめぐって議論した。
当時地元の人々の意見は割れていた。支援を表明する人がいる一方で、移民が望ましい効果をもつか懐疑的な人もいた。パミール高原に住んでいた人々が地元の気候や生活様式、文化、技術に適応できないという考えもあった。彼らの意見は、結局正しかった。ナルンへの移住を望んで来た者のうち約3分の1が、パミール高原に戻っていったのである。
まったく異なる世界から来たトゥルガンベイ君は、難題に積極的に立ち向かい、自分の夢を実現するために一生懸命に勉強した。学校のカリキュラムを調整するというキルギス教育省からの特別な指示の結果、彼はチャンスを掴み、大成功を収めた。
著名な学者・研究者であるウソン=アサノフ氏にちなみ名づけられたこの学校でトゥルガンベイ君の担任を務めるザリーナさんは、「初めから、彼はよくしゃべり、好奇心の塊でした。ナルンの子供達と比べると、彼は外向的で、他人に直言するのを恐れませんでした。学校に来た時から本当によく質問をします。」と語った。
「僕にとって一番難しかったのは、技術に慣れることではなく、キリル文字の読み書きに慣れることでした。」とトゥルガンベイ君は語った。彼はキルギスに来てからいまだにアラビア文字を使っている。ノートを取ったり、レポートを書いたり、電話を使う段になり、それらをキリル文字に変換するのである。
この宗教的に寛容な国で、彼は、学校の外でいくつかの問題に直面した。乗り越えるのが難しい問題もあった。イスラム教徒の一家であり、コーランを基本的な決まり事とみなしている社会から来たトゥルガンベイ君の目には、クラスメートの行動や生活様式は異質なものに見えた。時としてそれは、あまりに大きな違いだった。限られた時間の中、彼は敬虔なイスラム教徒として1日に5回祈りを捧げる義務を何とか果たした。学校でうまく理解できないことがあると、彼はより多くを学び、質問をした。
「マドラサでの勉強を続けたい」と語ったトゥルガンベイ君は、この夏を有意義に過ごすために、キルギスの別の街であるカラバルタにあるマドラサで学んでいる。「彼はおおらかで辛抱強い若者です。彼は誰にでも、特に女子に助けの手を差し伸べてくれるから、クラスメートからの信頼も厚い。友達は尊敬の念を込めて彼を『ベイケ』(キルギス語で「お兄ちゃん」)と呼んでいます。」とザリーナさんは語った。
トゥルガンベイ君は信心深く穏やかな若者だが、より世俗的な場でも、大人数の前でひるまずに歌ったり演じたりする。地元の劇場で最近あったイベントでも、英語に訳されたキルギスの歌『ウランベクの家族』を歌い、英語で観客に挨拶もした。
「むかしアフガニスタンで通っていた学校は家から遠かった。でも、私たちの社会では教育は軽視され選択肢にすら入っていません。小さな子供達は父親を手伝って牛を育てる。だから将来の仕事はもう決められているようなものでした。」とトゥルガンベイ君は語った。
パミール高原とキルギスの生活は随分違っているが、トゥルガンベイ君は日常の習慣で1つだけ変えなかったことがある。それは、自ら学び、学ぼうとする他人をも助ける習慣だ。
彼がかつて通っていたアフガニスタンの学校と違って、ここでは本もたくさんあり、インターネットも使え、様々な教科を学ぶことができる。自分が幸運だったと彼はわかっている。ナルンの子どもたちにとってはこれが普通のことだから、その価値を忘れるかもしれない、とトゥルガンベイ君は気づいている。しかし、彼の故郷では、人々は文明から隔絶され、知識と食料に飢えた生活を送っている。
彼は今、教育が新たな扉を開き、自身の過去や宗教的信条を捨てることなく新たな文明に入ることができると感じている。「理科や英語、ロシア語だけではなく、神学のような精神的な学問分野も勉強したいです。マドラサでの勉強も続けたい。また、私は常日頃から多くを分かち合いたいと思っているし、教師は次の世代に直接影響を与えられるので、教師になってリーダーを育てていきたい。」とトゥルガンベイ君は語った。(原文へ)
※筆者は、中央アジア大学(キルギス)でメディア研究を専攻する学生。キルギスの特派員としてIDN・インデプスニューズのインターンシップをしている。
翻訳=INPS Japan
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