【アブジャIDN=アズ・イシクウェネ】
ハリウッドのアカデミー授賞式の1週間前、ナイジェリアでは一風変わったアカデミー賞のような瞬間が訪れた。前中央銀行総裁で、商業的に最も重要な南東部の州の新知事となったチャールズ・ソルド氏の宣誓式で、前知事の妻エベレ・オビアノ氏が珍しいドラマを演じたのだ。
エベレは、ビアンカ・オジュクウ・ナイジェリア元駐スペイン大使が座っている貴賓席に向かって、長年政府の邪魔者だった彼女がこの式典に何の用があるのかと嘲笑したのである。この後の展開は、エベレが身にまとっていた蝶々柄のピンクのドレスのように美しいものとはならなかった。
何百人もの来賓と、テレビやソーシャルメディアでフォローしていた多数の視聴者の前で、元美人コンテストの優勝者で大使のビアンカは、退任する知事の妻に平手打ちをし、彼女のかつらをめちゃめちゃにした。ノリウッドメディアはこれを「Fury Of The Fish Wives(口汚い妻達の怒り)」と呼んだかもしれない。しかし、これは映画ではなく、現実であった。
厳粛な引継ぎ式は一瞬にして台無しになった。視聴者の注目は、この2人の夫人のドタバタ劇に注がれたからだった。ナイジェリア国民の怒りは、国民のだれもが一度目のワクチンも打てなかった時に、2,755ドルもするグッチのメガネを買っただけでなく、個人用ワクチンを購入した田舎者のファーストレディの所業に注がれ、ビアンカの彼女に対する暴力は当然の報いとみなされた。
ビアンカの平手打ちは、ソーシャルメディアを揺るがした。ビアンカは自己防衛のために行動したと反論したものの、彼女がどのような手本を示したのか、行き過ぎはなかったのか、実際、エベレの所業に対する世間の判断は不公平ではなかったのか、疑問が残る。
エベレとビアンカの対決からやっと立ち直ったところで、何千キロも離れた場所でウィル・スミスが登場し、ハリウッドがノリウッドを見習ったかのような印象を一瞬与えたが、ウディ・アレンでさえこれを脚本化するのは困難だろう。クリス・ロックが、ジェイダ・ピンケット・スミスの脱毛について冗談を言ったことに反応して、ステージに飛び上がり、クリス・ロックに殴りかかったウィル・スミスは何を考えていたのだろう?
この質問は、本末転倒と言う人もいるかもしれない。このジョークはウィル・スミスではなく、ジェイダの脱毛(医学的疾患)が家族に及ぼしているであろう不幸をまったく顧みず、スミス夫妻にとって喜びの日を選んで下手で味気ないジョークを飛ばしたロック自身に向けられるべきものなのだ。
残念ながら、コメディアンは他のクリエイティブな人々と同様に、他人の欠点や癖、あるいは嫌いなものだけでなく、その人の不幸も商売にしてお金をもらっているのである。例えば、南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領は長年にわたって痛烈なジョークの対象となり、実際、レイプ裁判の際の大統領の証言から「シャワーヘッド」という漫画の風刺画を戴いたものである。
5年前、アメリカの女優でコメディアンのキャシー・グリフィンは、ドナルド・トランプのトマトが飛び散った頭部のレプリカと一緒に写真を撮ったとき、面白いと思ったそうだ。しかし、その反動は彼女の想像以上だった。グリフィンは、常に限界に挑戦するのが彼女のビジネスの本質であり、悪意はなかったと謝罪したが、CNNから解雇されたほか、興行ツアーの日程と推薦も失うこととなった。
また、ナイジェリアの人気コメディアン、バスケットマウスが2014年に「白人女性」と「アフリカ人女性」とのデート経験を比較し、どちらのバラエティがストレートに「ちょっとしたレイプ」を必要とするかを下敷きにした味気ないジョークは、彼がEU主催のジェンダーに基づく暴力に対するキャンペーンのインフルエンサーに選ばれる2019年までは忘れ去られていた。彼は過去のジョークについて謝罪したが、このことでEUの推薦を失ってしまった。
ロックのジェイダに対するジョークが一線を越えたかどうかについては、あまり異論はないと思う。脱毛症は、あらゆる種類の脱毛の総称であり、笑い事ではない。この病気は医学的には深刻ではないが、患者はさまざまなレベルの心理的不快感に耐えており、高齢者の前で歯周病や歯の喪失について話すように、精神的に一層追い込むことになる。
禿げた男なら顎で笑うジョークを受け止めただろうし、実際、ウィル・スミスはジョークを受け止める前に一瞬笑ってしまったという話もある。しかし、ジェイダはハゲた男ではないし、そうなる必要もなかった。彼女は病気と闘ってきた女優である。彼女は自分の病状を公表しており、それを悪意を持って笑いに利用したのはロックの皮肉であった。
アカデミーがカリフォルニア州の法律で可能な告発を渋ったのは、必ずしもスミスのためではなく、むしろアカデミー自身の自己利益のためだという意見も出ている。例えば、#OscarsSowhiteから#OscarsBlackfightsになることが、どのようにアカデミーの役に立つのだろうか?また、ロックが白人のコメディアンであったとしても、ウィル・スミスは同じように反応しただろうか?それとも、彼がオスカーの受け手になったからこそ、ジョークが突然無神経で悪いものになったのだろうか?
中世の文学には、愛のための戦いや騎士道が数多く登場し、それは個人の悲劇に終わるだけでなく、時にはスペイン継承戦争のような悲惨な血の抗争に発展することもあった。しかし、世界はそれから大きく進歩した。ジェイダはウィル・スミスにランスロットやシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に連れ戻される必要はなかったのだ。
ロックのジョークは不愉快で、深く不快なものだった。しかし、法律を自らの手で行使し、暴力的に反応することで、ウィル・スミスは現代のポップカルチャーの最悪の行き過ぎた部分、つまり、壊れた、制御不能の、ナルシストな部分を体現してしまった。私たちが自分の子どもたちをそのような空間からできる限り遠ざけようとするのは、そのような理由からだ。テレビの生中継で、ある有名人が他の有名人をやっつけるのを見ると、その人のジョークが気に入らなければ、その人をやっつけてもいいのだ示唆することになってしまう。
ウィル・スミスもジェイダを助けようとはしなかった。彼の行動は、すべての騎士道精神の意図しない結果のように、女性を弱く、無防備で、男性の承認と保護なしでは不完全なものとして描くことであり、たとえそれが今回のように愚かで不必要なものであったとしてもだ。ロックは、平手打ちされた後に自分を抑えることで、この嫌な光景の中で二人のうちより立派に見え、狂気の下劣さの瞬間であっても何とか自分を取り戻しているように見えた。
ウィル・スミスは、2度ではなく1度ステージに上がり、不快感を表明し、ロックの腐ったジョークに対する謝罪を要求することで、彼自身やジェイダ、そして見ている世界中の何百万人もの人々のために、より良い貢献をしただろう。そして、たとえウィル・スミスが歩み寄らなかったとしても、ジェイダの並外れたキャリアと素晴らしい社会貢献は、おしゃべりな人の無防備な瞬間によって損なわれることのない遺産なのだ。
ナイジェリアの知事交代式での平手打ち劇やカリフォルニアでのアカデミー賞授賞式など、事件現場を見ていると、政治家やセレブも人間であり、普通の人間同様、正気を失った瞬間に社会的地位や我々が大切にしている価値観を全く無視した間違った言動をとってしまうことがわかる。
ウィル・スミスのクリス・ロックへの暴行は、アカデミー賞授賞式やその他のハリウッドのビッグナイトにおける最後の台本なしのハイライトにはならないだろう。たとえ世界が他の頬を差し出したとしても、セレブたちは、自分たちのステータスがそうする権利があると思い込んで、それを行使するのである。(原文へ)
INPS Japan
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