【IPS Japanアーカイブ】
フレッド・コレマツは、第2次世界大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)、北カリフォルニアのカークスプルで86年の生涯を閉じた。
フレッド・コレマツ(Fred Toyosaburo Korematsu)の40年に及ぶ(第二次世界大戦中の日系人強制収容の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁でも否決され有罪が確定した(1944年)。ところが最後は一転して犯罪歴は抹消され……しかも米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」「大統領自由勲章」が授与された。
コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も酷いものの1つである。
日本軍による真珠湾奇襲攻撃から間もない1942年2月、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、全ての日系人の強制収容を認可(大統領命令9066)、12万人に及ぶ日系人は市民権の有無に関わらず各地の収容所に送り込まれた。(※この大統領令は、カリフォルニア・ワシントン・オレゴン及びアリゾナ州在住で日本の血を引く人々全員を、老若男女を問わず、手荷物以外の財産を処分して有刺鉄線で囲まれた収容所に移住することを命じたもので、日系人はその後ほとんど3年間を収容されて過ごすことになった。= IPS Japan)
コレマツ氏の両親もこの時収容所に送られたが、コレマツ氏は収容所行きを拒否、当局によって逮捕、起訴され、刑務所に収監された。そして1944年米最高裁はルーズベルト大統領の強制収容措置の正当性を支持、コレマツ氏の訴えを却下した。
ここでアメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部の専務理事兼弁護士のアーネスト・ベーシック氏(Ernest Besig)が登場する。当時ベーシック弁護士は、日系人の強制収容措置の違憲性を訴えるテストケースを探しており、コレマツ氏への協力を申し出た。ベーシック氏は、コレマツ氏の保釈金5000ドルを用意したが、憲兵はコレマツ氏の釈放を拒否した。
コレマツ氏は保釈どころか日系アメリカ人を一時収容する競馬場に連行され(他の日系人収容者と共に)馬小屋に暫く抑留された後、ユタ州トパーズ収容所に送られた。
一方、コレマツ氏の日系人強制収容の違法性と彼自身の無罪を訴える訴訟は悉く退けられた。1944年、日系人収容措置はやっと解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」としてその後大企業や公的な職につくことは出来なかった。
それから約40年経過した1981年、法史研究科のピーター・H・アイロンズ氏は、米法務省に対してコレマツ事件関係の裁判所記録の原文を請求した。そこでアイロンズ氏は、検察側が(証拠隠しを行い)最高裁で偽証していたことを見出した。
2年後、裁判所は特赦を申し出たがコレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。
こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符を打った。
5年後、ジェラルド・R・フォード元大統領は、日系人強制収容措置を「国家的な過ち」として非難した。1983年、連邦議会の調査委員会(日系アメリカ人の排除と拘禁に関する委員会)は全員一致で、日系人の強制収容を人種的な偏見と戦時のヒステリー状況、及び政治指導層の失敗により引き起こされたものであり、軍事上も強制収容する正当性はなかったと結論づけた。
5年後、当時のロナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容措置を「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対して、1人当たり2万ドルの賠償金を支払うことを決定した。そして1999年、当時のビル・クリントン大統領はコレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています……プレッシー、ブラウン、パークス……」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。「その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」
クリントン大統領が言及した「プレッシー」と言及した人物は靴職人ホーマー・プレッシー氏のことで、1890年彼が30歳の時、東ルイジアナ鉄道の「白人専用席」に座った罪で投獄された。
人種問題にとりつかれていた当時の社会状況を反映して、プレッシー氏は「8分の7は白人、8分の1は黒人」と分類された。当時のルイジアナ州法の規定ではこの分類は「黒人」に相当し、従って、プレッシー氏は「有色人種席」に座ることが法的に妥当と判断された。
プレッシー氏はこの判決を憲法違反として最高裁まで上告し続けた。(プレッシー対ファーガソン裁判
)しかし彼の訴えは却下され、後の1954年に米最高裁が従来の「隔離すれども平等」の規定を否定するまで陽の目を見ることはなかった。
その違憲判決の契機となった訴訟はブラウン対教育委員会事件」として知られ、当事者の少女は小学3年生のリンダ・ブラウンであった(クリントン大統領が言及した2人目の人物)。彼女は、黒人であるがゆえに、僅か7ブロック離れた所に白人の小学校があるにも関わらず、鉄道操車場を超えてカンザス州トペカにある黒人小学校まで1マイル(約1.6キロ)の道程を歩いて通学しなければならなかった。
リンダの父オリバー・ブラウン氏は娘を近くの白人学校に入学させようとしたが、校長に拒否された。そこでリンダ・ブラウンは、全米黒人向上協会(NAACP)トペカ支部の支援を得て1951年、トペカ教育委員会を提訴した。
裁判で、全米黒人向上協会は「学校の人種隔離政策は、黒人の子供たちに彼らが白人より劣っているというメッセージを送っている。従って、学校が本質的に平等な教育環境を提供する場として機能していない」と主張した。
この訴訟は米最高裁まで持込まれ、1954年最高裁は「公的教育の分野において『隔離すれども平等』という原則は成り立たない。隔離した教育施設は本質的に平等ではない」との裁定を全員一致で下した。
このリンダ・ブラウンの訴訟チームを率いたのがサーグッド・マーシャル氏で、彼は後に全米初の最高裁黒人判事に就任した。
ローザ・パークス氏(クリントン大統領が言及した3人目の人物)は、「公民権運動の母」を称せられてきた人物であるが、1955年12月、彼女が市営バスで白人乗客に席を譲るのを拒否した当時、アラバマ州モントゴメリーで裁縫婦として働いていた。
バスの運転手の通報によりパークス氏は逮捕され、裁判の結果、地域条例違反で有罪の宣告を受けた。彼女のこの行動は、その後全市にわたる黒人による市バスボイコット運動へと発展し、それは1年以上に亘って繰り広げられた。そしてこのボイコット運動を通じてそれまで無名のマーチン・ルーサー・キング牧師が一躍全米で知られる存在となり、結果的に、米最高裁による市バスにおける人種隔離を違法とする裁定へと繋がっていった。
しかしながら、フレッド・コレマツ氏にとって、2004年4月、米最高裁が、キューバのグアンタナモ湾米海軍基地に同時多発テロ以降(アラブ系の人々を)「敵性戦闘員」として収容していることを不当とする訴えに、米司法当局が応えられるか否かの判断を迫られている現実は、かつての記憶(日系人強制収容の悪夢)を再び呼び覚ますものであった。
コレマツ氏(当時84歳)は、裁判所の友(friend-of-the-court:係争中の事件の当事者ではないが、かかわりのある第三者として裁判所に意見を述べることのできる人)の意見書の中で、「政府(ブッシュ政権)の採用している極端な立場は、私にとって全く馴染みのものです。(=ルーズベルト政権が当時日系人に対してとった極端な立場)」と述べている。
結局、米最高裁は、グアンタナモ湾(米海軍基地)に外国籍の人々を法的手続きなしに抑留するブッシュ政権の政策は憲法違反であるとの裁定を下した。
「今日、アラブ系アメリカ人の中には、かつての日系アメリカ人と同様の経験を強いられている人々がいます。私たちは決してその過ちを繰り返してはならない」とコレマツ氏は語った。
アメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部専務理事のドロシー・エーリッヒ氏は「もしフレッド・コレマツ氏がいなかったら、第二次世界大戦中の日系人強制収容(―最も恥ずべき米国史の一時期―)の事実は、私たちの歴史の中の単なる付随的な事件として人々の記憶に残ることもなかったでしょう」と、IPSの取材に対して語った。
「コレマツ氏の行動は、世代を超えた全ての人々の心の扉を開けたのだと思います。同時多発テロ直後の時期にあって、「市民の自由」を守ろうとするアメリカ市民自身の能力は、60年前に自らの憲法で保障された権利を守るべく静かに立ち上がった1人の人間の勇気ある行動によって、計り知れないほど、高められたのです」
翻訳=INPS Japan浅霧勝浩